フィギュアスケートは生き方そのもの——。
今日こそ強く思ったことはない。
それは、とてもたくさんの演技を一度に目にして感じたこと。
もちろん、質の違い、好不調の差はある。
しかし、そんなものを軽々と飛び越えて、
胸の奥を掴まれるように揺さぶられたのは、
選手本人の生き方が現れた滑りだった。
山本草太選手。
かわいい弟分だった草ちゃん、はもういない。
今日の彼は、静観な顔付きの挑戦者だった。
0.01%の可能性を信じると言った彼。
その演技は自信と喜びに満ち溢れていた。
辛い時間が人を強くするのではない。
辛い時間を耐えた自分を、信じて愛せる人が強いのだ。
フィギュアスケーターとしてならば、
スケートの楽しさも苦しさも、すべて引っ括めて愛せる人が強いのだ。
今日、彼は最強だった。
多くの涙、万雷の拍手がそれを物語っている。
明日もまた、さまざまな選手の、さまざまな物語を目にするだろう。
それらはきっと私にパワーをくれる。
羽生結弦選手。
今日いなかったはずのあなたを
リンクの上で何度も見つけた。
気合いを入れ、飛び出してくる姿、
一礼して去って行く姿、
そして何よりも、命をかけるような気迫で演技をする姿。
そこには確かにあなたがいた。
しかし。
熱狂の中で見せる、最高の笑顔が見当たらない。
全身全霊で闘って勝利した、雄叫びが聞こえない。
その姿を感じながら、大きくなる喪失感。
フィギュアスケートは生き方そのもの——。
だから、辛いことはやめて、苦しむのはやめて、と
周りが心配するのは無意味かもしれない。
なぜなら、その選手が私たちをとんでもなく惹き付けるのは、
その生き方ゆえなのだから。
もちろん、不運な目に遭ったほうがいいと思うわけがない。
しかし、そのときの経験が、そのときの想いが、大きな力となって
それを身に纏う選手を輝かせてくれるとしたら。
そして、それを本人が認めることができたら。
そのとき「不運」は「不運に見せかけた幸運」へと変わるかもしれない。