横山知伸(享年34歳)。
プロサッカー選手として数クラブを渡り歩き、多くのファンやサポーターに愛された男ですずら。
オラもそのひとりで、彼がプロとして初めて所属したフロンターレ時代はかなり熱を入れて応援していましたずら。
後にC大阪、大宮、札幌、熊本、岐阜と移籍を繰り返し、引退後は札幌、大宮でコーチ業に就ていたんずらけど、2023年の夏に以前手術し摘出した脳腫瘍が再発してしまい、闘病の末、2014年1月4日に逝去されましたずら。
ポジションは主にセンターバックを務めており、足元の技術も確かなことからボランチの位置に入ることもありましたずら。
そのボールタッチの柔らかさから”ソフティ”というニックネームが付けられたりしていたずらけど、オラの中でのイメージはハードなプレーが信条の潰し屋といった感じでしたずら。
そんなプレースタイルもあってか、相手チームのサポーターからは一部嫌われていたかもしれないずらけど、社交性も高く真面目な性格もあって、各クラブでは選手会長やリーダーとしての役割を任されていたりしましたずら。
彼の有名なエピソードとしては、大学卒業後は大手証券会社に内定していたものの、それを蹴ってプロサッカーの道を選んだというものだろうずらか。
その決断が彼の人生にどんな影響を与えたのかは他人には分からないところずらけど、Jリーガーとして、太く短いながらも濃密な人生を送ったんじゃないかと思いますずら。
オラたちみたいな凡人にはプロサッカー選手は皆そう見えるものずらし、ほんの一握りしかなれないJ1クラブでスタメンを張れるプレイヤーだったのは確かですずら。
2018年暮れに体調不良を訴え、検査で脳腫瘍が発見された時のショックは計り知れないものがあるずらけど、すぐに手術を決断し、現役復帰を目指したその強いハートは憧れ尊敬するところですずら。
最後はFC岐阜に加入はしたものの、公式戦でのプレーは叶わずに引退を表明しましたずら。
実際にその頃の横山の事情や体調面などの情報をほとんど知らないので、どこまでプレーできるコンディションに戻っていたのかは推測でしかありませんのでご容赦くださいずら。
フロンターレを去ってセレッソ大阪に移籍した後は、数試合ほど彼の出場している試合などを見るくらいで、そこまで熱心に追いかけるような事はしていませんでしたずら。
いずれまたフロンターレにコーチとして戻ってきてくれたら良いなくらいの感じで応援していたんずらけど、久しぶりに入ってきた彼のニュースがこんなお別れの形になってしまったのは残念でなりませんずら。
そんな緩く応援していたオラなんずらけど、それなりにショックを受けていた数日でしたずら。
という事で、彼の勇姿を見返して元気を貰おうと、このブログを書いている傍ら、昔に撮り溜めていたフロンターレの試合を見返していたりしてますずら。
チョイスしてみたのは横山が加入した2008年、リーグ戦で初スタメンとなったアウェイ新潟戦ですずら。
まあ、この試合は1−2で負けていたりするんずらけどね。せっかくの初スタメンなので、その奮闘ぶりを見てみようというのと、単純にこの試合に名を連ねているメンバーが懐かしすぎて、そちらも気になったからなんずらよね。
この年はリーグ戦を2位で終えるんずらけど、チームは混乱を極めており、結構激動の1年だったシーズンでしたずら。
フッキが起用方法に不満を示して退団、ヴェルディへの移籍を早々に決めこんだ序盤戦、その直後に関塚監督が体調不良で療養に入ってしまい、高畠勉コーチが監督に昇格して戦ったシーズンでしたずら。
ちなみにスタメンは
GK 川島永嗣
DF 伊藤宏樹、井川祐輔、横山知伸
MF 村上和弘、菊地光将、谷口博之、中村憲剛、山岸智
FW 鄭大世、我那覇和樹
サブには
GK 吉原慎也
DF 薗田淳
MF 鈴木達矢、養父雄仁、田坂祐介、大橋正博
FW 黒津勝
なかなか熱いメンバーが揃っているずらよね。
ジュニーニョと寺田周平が怪我で離脱しており、その周平さんの穴を埋めるために横山が抜擢されてスタメンとなった流れずらかね。
ちなみに我那覇はドーピング問題が国際スポーツ裁判で無罪となり、晴れて潔白の身として現場に戻ってきたばかりとなっており、その他にも川島、井川、憲剛あたりが日本代表に招集されている時代のメンバーとなっており、寺田、谷口、山岸も代表に呼ばれる選手だったことを考えると、2020-21あたり黄金期と遜色ないスタメンだったかもずら。
ちょっと言い過ぎずらか。
と、そんな中で3センターバックの中央を任されていた横山ずらけど、この試合はそこまで活躍していた印象は無いずらか。
まあ、右隣にいる井川がロン毛の風貌で、相手のブラジル人たちとバチバチやっていたので、そちらばかりが目立っていたというのもあるずらけど。
でも、この頃から横山のプレースタイルは変わらない印象ずらかね。
前述した様に、オラの中での彼のイメージは潰し屋。表情を変えずに相手を削りボールを奪いに行く姿を例えて、殺し屋なんて冗談まじりに言っていたものですずら。
そんな時期に、自身の携帯用の壁紙を作っていたこともあり、横山の壁紙はこんなものに仕上げていましたずら。
だいぶサイズが小さいずらけど、当時の携帯電話なんてこんな解像度ずらからね。
デビューイヤーから18番を背負っており、風貌も現役を引退するまでそんなに変わっていなかった気がしますずら。
ニヒルなヒットマン。プレースタイルに好き嫌いは分かれるところずらけど、オラはこういう選手が結構好きなんずらよね。後のシミッチ推しにも通じるところがあると思うんずらけど、こういう仕事を淡々とこなすタイプの選手が好きなんだろうずら。
ちなみに、フロンターレサポーターからも愛された彼ではあったずらけど、残念ながら応援チャントを作ってもらうことは出来ませんでしたずら。
今では新加入選手に対してもすぐにチャントを作っていたりするずらけど、昔は活躍してからっていうのが普通でしたずら。
それは等々力で初得点を上げたりとか、時代によって色々と条件はあったみたいずらけど、横山に関しては色々とクリアしているはずだとは思うんずらけど、最後まで作ってあげなかったのは残念なところですずら。
ということもあり、横山好きのサポーターたちが勝手に作った彼のチャントを動画にアップしたりもしていましたずら。
飲み会の席でお披露目、その場で録音した粗雑なものずらけど、オラの中では彼のチャントとしてずっと口ずさんでいたりしますずら。
大学卒業後、安定した生活の道を捨て、厳しいプロの世界に身を投じた男は最後に何を想っていたのだろうずらか。
サッカーが好きなのはその経歴からも伝わってくるずらけど、自身の培った技術やサッカー観を、コーチの立場からどう後進に伝えていこうとしていたのか、その志を道半ばで終えなければいけなかったことへの悔しさはあったのか。
最初の手術を受けた時から、いつか近いうちにこの終焉という結末が来ることを覚悟はしていたと思うんずらけど、オラみたいに無駄に健康で何も考えず日々を過ごしている人間には、その濃密な時間は考えが及ばない部分がありますずら。
今はただお疲れ様と言ってあげたいずら。
あなたがピッチで見せてくれたプレーの一つひとつにオラは胸躍らせていましたずら。
フロンターレというクラブを通じてではあったずらけど、一緒に戦い時間を共有できたのはオラの宝物の一つですずら。
ありがとう横山知伸。さようならオラの18番。
では、今日の思い出話はここまで(●´ー`●) ノ