①納得がいかない時は、相手が誰でもすぐに反論する
②自分が正しければ、言いにくいこともはっきり言う
③自分が悪くないのに、謝ることはできない
④正しいことを言っているのに、相手を怒らせてしまうことがある
⑤自分のほうが正しいと思う時は、決して譲らない
⑥相手を論破して気まずくなることがある
⑦納得のいかない指示には従えない
これが何かというと
正論振りかざし度チェック表だそうで、3つ以上ある人は要注意らしいですよ。
改めてメタ認知(自己客観視)してみると、まあまあ微妙ですね。
正直、場面によって正論振りかざしていることも・・・自分もありますね。
みなさんはどうですか?
ディベートなど机上での議論なら正論はとても強く、筋の通った話し方は説得力があるので、論破して相手は頷かざるを得ない状況、勝ち負けに拘れば「勝った」状態になることが多いと思いますが、日常でそれをやるとはロジハラにもなり得ますので、言い方などに工夫が必要だと痛感しています。
言い方を問題視するとネット上ではトーンポリシングと言われたりしますが、リアル現場では論破することが目的ではないので、正しさが強い、そんな単純じゃないんですよね
逆に実際のビジネス現場で正論を振りかざすと、ウチにもソトにもそれだけでは通用しない、仕事は目先の効率よりも人間関係のほうが重要なことが多いと思い知らされます。現場では言い方ひとつで、言葉一つで相手との関係にしこりが残る可能性がとても高く、次の仕事の依頼が来なくなることだって、仲間が非協力になったり、モチベーションが下がったりということが十分考えられます。
相手あってのビジネスだし、一緒に働いてくれる仲間があって初めて仕事になるしね。
仕事が成功するように業務を進めるには、周囲の人とトラブルなく円滑に進めることが何より大切なんだと思うんです。
そのためには、話し上手は聞き上手と言われるように相手の話や考えを否定せずに聞く耳を持つこと、言いやすい雰囲気を醸し出す、環境を作ることから始めたほうがいいと思います。
自分が納得いかないことだって、もしかしたら自分の経験不足や未熟さ、無知さが原因かもしれないし、人を変えることはできないと言われますが、自分が変わることで相手が変わることだってありますからね。
だけど人って判断に迷っているときは、頭では理解しても心が納得できていない、最終的には行動に移さないことがとても多いと思うんです。
理解は認知的なもの、納得は感情的なもので個人の価値観に近いかもしれません
納得していない=自分の価値観とは違うor自分の知らない領域のこと、だから行動しない、これが否定という形で表面に出てきているのでしょうね。
あるいはできない理由を並び立ててしまったり。
ところが自分の目指すことを実現するために、絶えず結果を出している人は、納得してから行動するのではなく、総じて行動するから納得するという思考を持ってみえるらしいです。それは自分の想定外・知らないことに挑戦するということに他ならないからだそうです。
なるほどですね。
私なんかはその域には全然到達してませんね。どちらかといえば行動は遅い方だと思います。
そして自分のことを自虐的にへりくだって言うのはいいけど、他者からそれを指摘されると素直に受け入れられない、それどころかカチンときてしまうことが結構あります。
先に自分が口にするのは、たぶんそれ以上踏み込まないでと心がバリアを張って保身というか守りのサインを出しているんでしょうね
現在、過去、未来、立場変われば、あるいは時間が経過すれば、それまでと真逆のことを口にすることは多々あります。経験したのちに変わることもよくあります。それが自然だとも思います。
ただ、同じ時間軸の間で事案が違うと主張が真逆になってしまうのはどうなんでしょう?
そして、そのことに本人は案外気づいていなかったりします、みなさんはそんなことありませんか?
ブログを書いているからでしょう、同じような題材の発信をよく拝読していますが、mixiに参加していた頃やX(twitter)が主流になる前に、拝読したブログの記事にコメントさせていただいたことはありましたが、ここ数年は他の人の発信に反応したことがありません。
ブログはじめネット上の記事については、その多くが発信者のリアル現場での事実を前提にした主張だと受け止めています。
中には間接的に見聞きしたこと、データ上、研究用の資料だけという発信もあります。
また、そのリアル現場での事実が私のように過去の場合もあれば進行形の場合もあります。
何より私は書かれているリアル現場を知らないわけですから、それが事実かどうかもわからないし、そういう状態にあるに至った経緯もそういう主張に至った背景も分からないので、感想は言えても安易にコメントしにくいんですよね。
PTAについて語られるとき
子どもたちのために、個人・人権の尊重、多様性、自由、民主主義、少数意見の尊重、差別など、大所から否定できない、ごもっともな主張が多くて、それらができていない・していると非難されるわけですが、その人の他の発信を拝読すると「あなたもね」と返したくなることもしばしば。他者に向けての非難は自分に向けての非難でもあるわけなんですよね。
本当に困っている人への想像や尊重を声高に訴えながら、デジタル環境が整っていない人の切り捨てはやむなしと断言したり、一人でもできると組織不要論や自己責任論を主張してみたり、あるいは「誰も文句は言ってこない」は非難するが、確認してもいないのに「誰も困っていない」と言い放ったり、学歴、職責、肩書、偏差値を引き合いにだして上だ下だと比較したりなど・・・
だから「~べき」「~するだけ」という主張や「勝った・負けた、正解・はずれ」「できる・できない」「上だ・下だ」といったジャッジのような発言は、自己判断の正しいが優先され、机上での話で現場とは距離を置いていると私は感じるので、好きになれないんだと思います。
最近ちょっと気になっている発言が2つあって
一つは「将来の子どもたちのために負の遺産を残したくない」という枕詞。
そう思われるのは全然いいのですが、現実としては今、負の遺産と思うものを自分がなくしたいのであって、未来はその時その時の当事者(保護者)が自分たちで決めることじゃないかと私なんかは思います。
二つ目は「PTAに拘っている」「PTAに執着している」という発言
PTA運営側や会員に対しての発言だと思います。そういう方がゼロではないと思いますが、私は寧ろPTAを退会した人やすでに卒業して直接関わりのない人たち(非会員)のほうがいつまでもPTAに拘っている・粘着しているように感じます。
運営側のほうは、「形」ではなく保護者同士の緩いネットワークや学校と保護者の橋渡し・コーディネートする「機能」があったほうがいいと思っていて、現在存在しているPTAをうまく活用して何とかしよう・したいと思っている人のほうが多いように思いますが違うんでしょうかね。
保護者会に移行しているところはそんな感じのように感じますが、どうなんでしょうね。
嶺町小のように学校応援団というところもあれば
学校から依頼があればそれに応えるボランティア団体というところもある
話し合いを中心としているところもあるし
登下校の安全に特化した組織を別建てしているところもある
PTAのままもあれば保護者会に移行、地域を加えたPTCAもある
もちろん解散して何もないところもある
ご自分たちの決断なら決断を尊重する、それでよくないですか?