新型コロナウィルス感染症やインフルエンザなどの流行はパンデミックで大変なことがあっても時間とともに収束していきますが、人が生み出した人を惑わすような伝染については、情報が洪水のように絶えず流れているデジタル社会の現代では、終わりを迎えることはないかもしれません。
「ノイジー・マイノリティ」直訳すると「声高な少数派」となり、「ノイジー」の名のとおり、印象としては発する抗議の声は少ないけれどもとてもうるさくてしつこい。
しかしSNSを使えば、スピーカーのごとく大きく、そしてどこまでも広がりをみせるので、多数の意見だと勘違いしてしまいがちです。
実態はSNS、特にTwitterでネガティブな発信をしているのはユーザー全体の0.00025%、概ね40万人に一人という調査結果があるように、割合としてはものすごく少ないんですよね。
何かの記事で読みましたが、SNSで誹謗中傷を受けた人が裁判を起こしたら、被告はTwitter上に200以上のアカウントを作って攻撃していたらしいです。ここまでの人は珍しいかもしれませんが、一人が複数のアカウントを持ち、同じようなネガティブ・攻撃的な発言を100回くらい書きこむこととはごく普通、人数こそ極少ないノイジー・マイノリティですが、オレたちの意見こそが世論だと普通の人の100倍も騒ぐので、あたかもその人たちがマジョリティであるかのように見えてしまうらしいです。
一方で、本当は興味がない、あるいは反対や異なる意見を持っているけど、それを言ったら自分が攻撃されるかもしれないと委縮して声をあげないサイレント・マジョリティの人たちが多く存在しているわけですが、人は、基本的には自分の見える世界でしか物事を判断できないようなので、ネット言論の世界では、サイレント・マジョリティは存在していないかのようにノイジー・マイノリティの人たちだけが可視化されてしまうということなんでしょうか。
そんなことを考えていたら先日、的を射た発信を見つけました。
SNS中心にはびこる「ノイジー・マイノリティ」について、「彼らの発信は食べ放題のビュッフェに行って嫌いなものをつまみ、“なんでこんなまずいもの置いているんだ!謝れ”と言っているようなもの」で、それをメディアが受け入れ、世論が沈黙してしまうので「万人が食べるであろうごはんとパンだけが残ったつまらないビュッフェになっているのが令和」なんだそうです。
思わず頷いてしまいましたが、そうしたノイジー・マイノリティの声がネット上だけのことならいいんですが、時にリアル現場でも見聞きしたりするので、その場合はちょっと気になります。
主張に対する数の多少ではなく、声の大小と他の意見や考えを受け入れずにひたすらに正論をぶつける粘着性と攻撃性が周囲から理解を得られない大きな要因のように感じます
今日から新年度が始まりましたが、年度末には多くの会社で人事異動が発表され、異動される方も引き続き留まられる方も発表を受けての思いは悲喜こもごもで、異動発表後の皆さんから出てくる言葉から感じたことは、制度・仕組みやシステム、理屈はもちろん大切ですが、仕事を円滑に進めていくにはやっぱり「人」次第なんだということです。
これは仕事、職場だけでなく、学校のクラス、部活、または趣味のサークルや市民活動、ボランティアや地域活動など、自分以外の人と関わって何かを進める場合にはみないえることだと思います。
明らかに間違ったことを言っていない、正しいことを言っているのに反応がいまいちだったり、きちんと理解してくれなかったり、逆に反発されてしまうのはなぜなんでしょう?
例えば
あなたの言っている・やっていることはおかしい。間違っていると非難したり責めたりしていませんか。
どうして〇〇なことをしているんですか。どうして□□しないんですかと詰問していませんか。
行動の理由の説明や弁明の機会など、相手の話に耳を傾けもせず、一方的に非難していませんか。
もし、そうだとすると、先日の記事でふれたように「知」「勇」「仁」、特に「仁」の思いやりの心が欠けてしまい、せっかくの「正論」も相手にとってはただの「暴論」になってしまっているんじゃないかと思います。
加えて、その反応を受けて理解できない奴が悪い、馬鹿だ、あほだなんて思って態度に表したら、周囲は理解してくれるどころか離れていき自分がどんどん孤立していくだけじゃないかと思います。
新たなメンバーで始まる新年度、いいスタートを切れるかどうかは自分次第、十分に気をつけたいものです。