自由と多様性と個人の時代に大切なのは・・・繋がること | PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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自分の周りにはたくさんの人がいて、その人と人とが繋がることで社会を形成しています。自分が通っている学校も、毎日練習している部活も、勤めている会社も、趣味のサークルも住んでいる街もみな社会の一つ、誰もが色々な社会に属しながら生活をしています。

加えてインターネットやSNSを活用して、遠くにいる知人や顔も知らない人とも会話やチャットをしたり、情報を共有し合ったりと、身の回りとは違った社会とも繋がっています。

人は様々な手段を使って、色々な社会と繋がることで、自分の知らない情報を得たり、体験をして、自分とは違う価値観に出会うことができます。一方で、リアルでもネットでも繋がりが強くなり過ぎることで繋がることが負担になったりもします。

社会との繋がり方で自分にとってちょうどいい感じっていうのもやっぱり一人ひとり違うんでしょうね。

だから社会というプラットフォームを上手に回すためのルール(法や規則)があるのでしょうが、ルールがあればすべてがうまく回るのかと言えばそうでなく、自分にとって都合の悪いルールならば、従わないか変えてしまおうとするんですよね。

私たちの生きる現代社会を象徴する究極のパワーワードは「自由」「多様性」「個人」

この言葉のおかげで多くの人が救われ、生きやすくなったその一方で、多くの人が苦しみ生きにくくもなったように思います。

先日、哀しいニュースが飛び込んできたように・・・

「自由」「多様性」「個人」とても耳障りのいい言葉ですが、実は複雑で、センシティブで、正解などない簡単には語りきれない概念なので定義するのも難しく、かといって放置もできず、さらに最近は「自分らしさ」という言葉も加わって、否定することのできないパワーワードになってしまっているように感じています。

例えば自由というと、自分が何を言っても・何をしてもいいと思ってしまいがちで、事実ネット上では自分も含め多くの人が言いたい放題、匿名ならば尚のことなので、自分の自由を守ること自体はそんなに難しいことではないように思います。

しかし自由というのは、自分だけでなく相手の自由も許すことであり、相手の自分に対する批判や多様な意見を容認する・守ることに他ならないわけで、これが実に難しい。

多様性も同じで、聞こえはいいですが、共通認識もなければ前提もない、もちろん価値観も合わないことを容認するわけです。
もともと多種多様な生き方をしている人は違和感なく受け入れられる言葉や価値観でしょうが、そうではない生き方をしてきた人もいるというか私も含めそちらのほうが多いので、世界の基準がそうだからみんな合わせよう、周りに合わせているだけの本質的ではない言葉だけの多様性ではあまり意味がないし、現実はまだまだそちらの発信の方が目立っている気がします。

社会全体が変わっていくにはまだまだ時間がかかるように思うので、やっぱり自分が自分らしくいられる環境は、今の段階では誰かが用意してくれるものではなく自分の手で作り出すしかないのかなって思うので、本質的な努力なしに、「自由」や「多様性」という聞こえのいい言葉を振りかざしているだけでは自分が自分らしくいられる環境は享受できないと感じています。

自分がやりたくないことを避け、やりたいことしかやらないのか?

都合の悪いことからは目を背けて向き合わず、都合のいいことばかりに耳を傾けるのか?

自分という人を理解してもらう努力も、周囲からの信頼を得る努力もなしに、自分がやりたいことをまず主張するのか?

今あるのは、先人たちのたゆまぬ努力で、先人たちが数々の犠牲を払い、その結果として獲得してきた権利であり環境であるはずなのに自分たちが享受できる当然の権利だと思っていないか。

先人たちの努力へのリスペクトはあるか?
そこに胡座をかいて、勘違いしていないか?
過去の努力を知ろうとするアクションはあるか?
目に見えない成果に対して、理解を示そうとしているか?

私たちは多様性と自由を得る代償として、常に前提や価値観がちがう人や理解しえないモノゴトに対して、きちんと向き合って「対話」し続けることを避けては通れない気がします。
自分と相手がどれくらいの温度差で、距離感で、どう接すればいいのかをお互いが教え合わないといけないはずなのに、誰かとコミュニケーションを取ることがものすごく頑張らないと上手くできない、繋がり続けることが本当に難しい時代になったようにも思います。

よほど意識していないと人は自分に都合よく解釈するので、自由を守るべき側が、率先してそれを破っているということはよくあることで、例えば政治の世界でリベラル派が訴える自由はあくまで「権力に対する自由」で、政敵に対してはなんでも批判しますが自分たちに対する批判は許さないみたいな・・・ね。

ネット上でそうした批判合戦を目にすると、よく古き日本のことを「ムラ社会」と呼び揶揄されていますが、今またその「ムラ社会」に突入しているように感じることがあります。

ムラ社会はあまり大きくない数十人くらいの単位、価値観や前提が共有できていて、お互いに協力して物を作ったり、まあまあ助け合って生きてきた社会。

今の時代、それを私たちはリアルでもネット上で、LINEグループだったり、○○派と呼んだり、「チーム○○」と呼んでいたりして、似たような価値観の人だけで徒党を組み、他と区別化していないだろうか。

ある人が教えてくれましたが、どんな社会にいようとも、どんな組織に身を置こうとも、常に求められるのは「適応」であって「適合」ではない。
自分の軸は持ったまま、その周りの情報を環境に応じて変化させていくだけ。
そうすれば必ず、残しておいた自分の軸は前よりも生き、相乗効果が、化学反応が起こり新たな発見に繋がる。この適応と適合を勘違いしている人が多いのではないかと指摘されていました。

世の中には100%自分の思い通りになる社会(コミュニティ)はなく、価値観が真逆になることやぶつかり合うことも、平行線のときもあって、それはどの社会(コミュニティ)においても起こり得ること。その中で合意形成を図るために何が必要かを考えたときに、どこまでお互いの意見を譲歩できるかに係っていて、その手段は対話、コミュニケーションしかないように思います。

ただ念頭に置きたいのはどんなコミュニケーションの取り方をするかが大事で、人の意見は交じり合えないのを大前提に、双方の意見を聞き、相手を思いやれるコミュニケーション。難しいけれどトライ&エラーを繰り返しながら継続して行っている間に相手の思いがわかってくるので、そうするとお互いが譲歩できる幅が見えてくるような気がします。

繋がるって簡単ではなく、繋がり方にもいろいろあって、太さや長さや強さにもいろいろあると思います。
繋がりを切ることはそれほど難しくはないかもしれません。
でも誰かとコミュニケーションを取ることがものすごく頑張らないと上手くできない今の時代繋がりを切ってしまったら自由も多様性も個人も容認しないことになってしまう気もします。

 

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