話が通じない | PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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ネット上でもリアルでもよく見聞きしますし、自分も何度かそう思うことがあります、ありました。

そのとき、自分もそうですが、自分の説明の仕方が悪かったかな?(自分の責任)と思うのはほんのちょっとで、大半を相手の理解力やコミュニケーション能力の問題(相手の責任)にしてしまってはいませんか?私だけかな?

 

 どうしてこんな(簡単な)ことが分からないんだ?

 正しくないと分かっているのに、どうしてやめられないんだ?

 あ~言えば、こう言ってばかりで何もしない。

 

 以前読んだ本に書かれていたこと

 

「どんな人も、たとえ罪を犯した人であっても、自分が間違っているとは決して認めないものだ。批判をされたり非難をされたりしても、心から自分の行動を変えることはない。逆に批判すればするほど、頑なに自分が正しいことを主張するだけで、望ましい行動を取らなくなる。自尊心を傷つけられた人は、反抗心をおこす危険な存在となる。」

 

を思い出します。

 

確かにそうかもしれませんね。

年代や性別、国籍、それぞれ育った環境や今置かれている環境などが違うため、それぞれ価値観が違うのは当然といえば当然かもしれません。

そもそもベースが共有できていないのに単純に自分が発している言葉は、誰でも理解できると大きな勘違いをしていることも多々あります。小難しいことは分からない。そんなセリフを返されたりします。

自分にも思い当たる節はあります、ありました。

発する側であったり、逆に言われた側であったり。

振り返れば、確かに批判や非難をされて、心から納得する、心動かされるってあまりないのかもしれません。

どちらかと言えば、話を聞いてくれて、その時の自分を認めてもらったときに、心が動き行動に移せたことのほうが多いような気がします。

 

これは自分に限ったことではなく、人には誰にも承認欲求はあって、どんなに突っ張っていても心の中では自分を評価してほしい、認めてほしいという気持ちを持っているんじゃないかと思うきっかけにもなりました。

 

承認欲求、例えばPTA会長をしてきた人(自分も含め)やPTA改革とか適正化とか実践している・考えている人も結構強く持っていると思います。

あんなことこんなことしましたってアピールしていますし、それに対し「たまたまじゃない」とか「結局肝心なことは何もしてないじゃん」なんて返されると感情的にヒートアップして自分の行動の正当性と相手の行動の否定に一生懸命理由付けをしたりします。

 

 人の話を聴くというのは、つまりは「認める」ということなんだろうけれど、こうなると「話を聴く」姿勢ではなく、とにかく理由をつけて相手の主張を否定することと自分の主張の正当性に懸命になってしまう。

 

 また、話が通じないのは相手が、多数派に流されている(同調)から、思考停止しているから、理解しようとしない。聞く耳を持たない。事実上の強制だ。自分の意思で行動できない。

 

 そんな言葉も目にします、特にPTAや地域、学校関係の話題でよく見聞きします。

 

 私の経験から言えば、まず法律とか任意とかの言葉にはほとんどの人が反応されません。ただ、人というのは自分のまわりの雰囲気というものにはそれなりに敏感なので、例えば連絡先をむやみやたらに教えなくなった・教えてもらえないようになったっていう日々の暮らしの中から徐々にというか、いつの間にか感覚的に理解が広がっていった気がします。

 一方、同じように習慣というのは恐ろしいもので、たとえば、誰かに何かをしてもらうと、そのお返しとして、望みを聞いてあげようなんて心理も働いたりします。

 職場でのお土産とか、持ちつ持たれつ、困ったときはお互い様、以前触れた「互譲互助」の考えは最たるものじゃないかと思うのですが、そうした生活圏域の中で自然と培われてきたものが、時代が進むにつれて崩壊している、しかけている。本当にこれがあるべき姿なのかと思うとなかなか納得できない部分が自分の中には正直あります。

 難しい言葉ではなく、正しいといわれることでもなく、あるべき論でもなく、目の前の現実をどうするか、自分がこの場所で幸せに暮らしやすくするにはどう行動したらいいのか?多くの方はそれだけなんだと思います。

 

 例えば、新型コロナの関係でなかなかマスクが市場に出回ってきません。

 専門家もWHOも感染予防に向けて、せきやくしゃみといった症状がない人は予防目的で学校や駅、商業施設など公共の場でマスクを着用する必要はないと言っていて、毎日のように報道していますが、実際にマスクなしで接客したり、電車に乗ったりなんかすると、すごい視線が集中します。花粉症でくしゃみをして叱責されたという事案もいくつも発生しています。

 悪いことをしているわけではないのに、悪いことをしているような感覚に陥ります

 

 他にも、「人気No.1「売上No.1」「今だけ限定○○に」なんて広告を見ると、他の商品よりも良い商品、またはプレミアム商品だと思って慌てて買ってしまったことはありませんか?その商品の良し悪しが真実かどうかも確かめずに。

 人って、案外多くの人がしていることは無意識に正しいことだと思い込んでしまう、信じてしまう習性を持っているんですよね、誰しも。

 

 その理由の一つに、失敗したくない・間違えたくないというリスク回避の心理が働いているのではないか(自分だけの判断に自信がない)。

 また、一つひとつの事案すべて、自分の考えに基づいてゼロベースから検証して意思決定するには時間がない、より確実で、より効率的かつ安心できる道を選択するための手段として無意識に使っているのではないか。

 

 だから私たちは多くの人の行動や著名人や権威ある人の発言を高く評価したり、自分にとって魅力的で好意をもっている人の言動を無意識のうちに支持しているなど、知らず知らずに誰かの影響を受けながら、自分も行動していることが多いのかもしれません。決してそれがいけないのではなく、それらと違う意見を受け入れようとしない心に問題がある。

 

 今の新型コロナウィルス感染防止対策に対する反応も

 イベントや臨時休校、不要不急の外出自粛の要請に対して、色々不平不満も言いながらも大部分の人が従っています。もちろん要請なので自己判断で、体制を整えてイベントを実施している、普通に外出している人もいます、法的拘束力はありませんし。

 

 現在の東京を中心とした感染者数増から、緊急事態宣言、またニューヨークやロンドンなどのように “ロックダウン”(都市封鎖)を発令すべきでは?との意見が多くあります。しかし日本では特措法による緊急事態宣言をしても諸外国のような都市封鎖はできません。

 住民の外出規制については「要請」まで。イベントなども中止の「指示」まで。交通機関の遮断については、法律上何も規定がありませんので、欧米のような強制力を伴ったものにはならないんですね。

 

 これらに対し賛否様々な玉石混合の意見が飛び交っています、イライラする面もありますが、でも民主主義としては正常な状態と言えるのではないでしょうか。

 私は、別の視点で普段は現首相や政府の権力が増強していくことや行政主導に強い嫌悪感・拒否感を示している人たちが、こういう時に強権発動を求めているのはちょっとどうか?自分の考えに沿うように、これは強権発動しろ、あれは強権発動であり全体主義だと言っているのが疑問でなりません。

 

 民主主義って強権発動する独裁が起きないようにっていうことで発展したんですよね、日本が平和だ、平和ボケしているっていうのは、ある意味、強権発動できる独裁のシステムがないからじゃないかなって思ったりします。これって非難されるのではなく、褒められることじゃないでしょうか。

 

 先日、町内会の組長会議は行いましたが、慰労会は前日に中止を決定、お店にはドタキャンをしてしまいました。

 自治会では、屋外での防犯パトロールと清掃活動はルールを決めて実行、年度替わりの定例会や総会は紙面会議にされたようです。

 私の所属している団体も定例会は中止、総会は紙面会議がほとんどです。PTAも話によると新年度に開催予定の総会も紙面総会になりそうだとのこと。

 もちろん賛否あるでしょうし、IT環境も整っているわけではありませんが、自分たちで判断して決めたことです。

 

  要請はするが主催者が主体性と責任をもって判断してほしい。

 専門家会議の結論でした。

 

 指針だマニュアルだ、ガイドラインが曖昧だって、示されなくたって

 時は過ぎていくし、現実は目の前に迫ってきています。

 自分たちで決める

 多くの団体は決断をしています。

 

 参加・不参加は個々が判断するしかない。

 

 どんな決断をしたって100%の賛同は得られません。

 だから学校再開も悩んでいるのだと思います。

 入学式・卒業式の開催も苦渋の選択をし、これからするんだと思います。

 

 

話が通じないのは、どちらか一方だけのせいではありません。

もしそう思っているとしたら、思考停止しているのはあなたかもしれません。

 

 

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