PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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自分の能力や本音と向き合うのが怖いため環境のせいにして自己防衛してしまうのが人間の性だそうで、失敗が予測されるときにその言い訳になるような外的条件を準備して自尊心を保とうとする現象をセルフハンディキャッピングと云うそうです。

初めて耳にした言葉ですが、その一例である「忙しいからできない」「やりたいけど時間がない」という表現は何度が口にした経験があります。これは誰しも一度は口にしたことがあるんじゃないかと思います。

多くの人が、仕事、家事、育児、通勤、付き合い、睡眠と毎日24時間タスクの連続で一日が終わっていく中、「もっと時間があれば○○できるのに」と思っていても実際には何も行動に移せないまま結局変わらない日々が続いているのが哀しいかな現実ではないでしょうか。

でも本当に私たちが口にしている「時間がない」「もっと時間があれば」は、物理的な時間の不足のことだけを指しているのでしょうか?
もちろん本当に時間が足りないという時もあるでしょうが、自分への言い訳として使っていることが多かったりしませんか?

ボランティア活動に参加しない・できない理由の中でも一番多く挙げられているのがこの「時間がない」だそうですが、同調査によるとボランティア活動に参加している人は時間に余裕がある(暇な)人よりも時間的に忙しい人の方が割合として圧倒的に多いという結果がでています。

AーStudioで「忙しい人には時間があるが暇な人には時間がない」と笑福亭鶴瓶さんが語ったことで鶴瓶語録として取り上げられていますが、アレクサンドル・ビネという神学者の「一番多忙な人が一番多くの時間を持つ」という言葉や「何もすることがない人はいつも誰よりも忙しがっている」というフランスの諺があるようにずいぶん昔から言われていることのようなんですね。

ビジネスで「急ぐ仕事は忙しい人に頼め、暇な人は仕事も遅い」なんて言われるのも、きっとそれらと同じ意味で、忙しい人ほど時間の使い方や物事の優先順位のつけ方に長けていて、かつ自身が社会の一員という自覚や社会貢献への意識も高く持っているということになるんじゃないか、そんな風に思えます。

だとすれば「時間がない」という言葉は、物理的な意味合いよりも「私には時間を管理する能力が足りない」という風に言い換えたほうがしっくりくるかもしれないなあって最近思うようになりました。

また、最近気になるのが、自分の抱えた怒りや不満・不安の出口を、国や政府、地方自治体や大企業などを巨大な仮想敵として設定して、自分(の努力)が報われないのはその仮想敵が悪いからだと怒り、べき論や正論をかざして非難することで発散しているように映る仕草をネットやSNS上で多く見かけることです。

論理的かつ正論を主張されているため、それ自体を否定されることは少なく、仮想敵が巨大であればあるほど賛同・同調する人も多くなるため、自分は正しいと思い、心もスッキリしてきます。スッキリするからよい事をしている気になれるし自己肯定感も満たされ自分の居場所・存在意義もできた気になれます。

日本人が大好きな物語、巨大な権力を持つ悪をやっつける正義の味方、ヒーローって感じですよね。

でもですよ、実際の現場において目的が問題を解決することなら論理的な正しさだけでなく、現実を受け入れて相手の感情や特定の状況、背景事情といった非論理的な相手の立場や感情に寄り添う姿勢(共感)を示して何か策を見つけようとするでしょうが、残念ながらネット上では主張が攻撃的で相手の言葉のわずかな矛盾点をも指摘する、正義気取りの言葉狩りのようになってしまっている人がものすごく多いように感じています。
それでは問題を解決するどころかこじれるだけだと思うし、そもそも問題を解決する気はなくて自分の正しさを証明することや相手を論破することが目的なんじゃないの?と思えて仕方ありません。

これだけ一人ひとりの生き方や働き方、価値観が多様化している現代社会ではかつてのような「これが正解だ」という唯一無二の答えがある世界ではなくなってきています。

加えてデジタル化の進歩によって通信・情報網は、いつでも自分の意見が発信でき、誰とでも簡単に交流ができ、欲しい情報も簡単に入手できるようになりました。
おかげで、リアル社会では日本の伝統的な共同体ともいえる会社でのコミュニティや居住地域の町内会や自治会、PTAなど地縁の繋がり、そんな抑圧的なムラ社会での従属という人びとの意識がどんどん薄れてきていて、敢えて組織には加入しない・参加しない人が増えてきています。

こうした地縁や社縁などの関係性が希薄になり従来型のコミュニティから離れていく人たちが増える一方で、ネット上では目的や思考の近しく同調してくれる人同士で新しいコミュニティ、ムラ社会を形成して、ウチとソトという壁を作り上げ、ソトと称する仮想敵を攻撃したり排除したりしているというのは、自分たちが忌み嫌ってきたことと同じことをしていて、とても滑稽な感じがします。

 

 

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今の時代に合った○○
私も時々口にしていますが働き方から日々のライフスタイル、服装や考え方、技術、ビジネス戦略など実に様々なジャンルでよく使われています。

その時代の社会の風潮や流行、価値観、その状況などにちゃんと適合・調和していること、時代のニーズやトレンドに沿っていることを意味していて、今だとワーク・ライフバランス、DXやSDGsなどがまさにそうじゃないかと思います。

でもそれって「今」であって「未来」に合うかどうかは分からないですよね?

先日、大阪万博が成功裏に幕を閉じましたが、万博はいつの時代も人々が新しい技術に触れて体験できる場、未来社会の実験場で、これまでも電話や蒸気機関、エッフェル塔やエレベーターなどが、1970年の大阪万博では「人類の進歩と調和」をテーマに未来の技術として携帯電話、電気自動車、動く歩道、モノレール、電波時計やテレビ電話、缶コーヒーやファミレスなどが初めて紹介されました。それらが当たり前の時代が来るのかと思った人も多かったでしょうが、どれも今の社会生活には不可欠な技術やサービスとして実用化され広く普及しています。

また2005年の愛・地球博は環境万博と呼ばれドライミストやバイオマス建築、燃料電池や太陽光発電、風力発電などの新エネルギーの展示紹介や実証実験、無人バスの運行やICチップ入り入場券などICT技術も広く活用され、こちらも現在は広く普及しています。

かつては10年ひと昔と言われていたこうした技術革新や進歩も、デジタル社会の現代はものすごく速いスピードで進化を続けているため、5年ひと昔と言っていいくらいになってきているのではないかと思います。

私たち世代はこうした今の時代の移り変わりのスピードに気づけない、あるいは追いつけないまま、その時代の渦や風潮に飲みこまれた状態で「○○の時代だ」「今の時代に合った」などと安易に口にしてしまっているのではないだろうか、最近そんな風に考えるようになりました。

もちろんそうした時代のトレンドに対応できる柔軟性を持っていないと社会に置いていかれてしまうという不安(実際に置いて行かれている)はありますが、だからと言って移り変わる時代にすべて合わせる、ついていけばいいのかといったら、逆にトレンドに振り回されてしまって本来の目的を見失いトレンドを追うことが目的になってしまうという懸念があります。

じゃあどうすればいいのか?と考えるとオーソドックスですが目的と手段を間違えないこと。目的をぶれない自分軸と言いますか自分の中に芯としてしっかりと立てておくこと。

その目的を達成するための手段として、トレンド含め時代に合わせてできる選択をしていく それを絶えず意識しておくことだけかもしれませんね。

自分の中で軸(芯)がしっかりしていれば、ものすごいスピードでトレンドや新しいものが移り変わっていっても、現実を客観視・俯瞰でき、今のトレンド(今の時代に合ったこと)はすぐに過ぎ去っていくことにも気づけるし、今の時代に合わせても未来永劫続かない、先の未来が今とは全く違う、想像できない社会になっている可能性があることも理解できるのではないかと思います。

ビジネスの世界でよく使われる「不易流行」という言葉と同じ意味合いでしょうか?

「不易流行」は時間が経っても変わらない普遍的なもの(不易)と、時代や状況に応じて変化するもの(流行)を調和させる概念で松尾芭蕉の理念として知られています。

「不易」だけでは世の中の価値観と合わず廃れてしまうが「流行」だけでは世の中に合わせすぎて早く忘れられてしまうけれど

「不易」があると確固たる意思が確立できるし「流行」があるといつの時代も世の中に受け入れてもらえる。

つまりは両方が大切だということなんですけど、そのバランスをどうとるかですよね。

先日、勤務地の支店のある地域でふれあい祭り(通称そばまつり)があって参加してきました。

まず最初になぜ「そば」祭り?って思ったんですが、お祭りの冒頭に主催者あいさつでこの地域は山と山の間に流れている川の両岸に農地が広がる山と川に挟まれた農村地帯、市街化が進む平成の時代にまちづくり協議会が立ち上がり、目立ち始めた休耕田を何か活用できないかと試験的に花とそばの種を蒔いたのがお祭りの始まりだと成り立ちに触れられていました。

なるほどです。種を蒔いた記念に、そして以降は収穫祭的に、今この地域では区画整理が進行していて、地域としては花もそばも育ててはいないようですが、お祭りは地域内を転々としながら継続されていて、ここ数年はコミュニティセンターの駐車場を会場としてお蕎麦、お餅、ぜんざい、五平餅、アユの塩焼きや野菜の直販や障害者施設の製品販売などがあって、私の想像以上に老若男女問わず多くの人が来場されていて少し驚きました。

昨年まではまちづくりの一環としてゴミ拾いをしながら会場まで歩き、集めたごみとお蕎麦券を交換するクリーンアップ大作戦を同時展開されていたそうです。

きっかけは蕎麦と花だったのかもしれませんが、お祭りの真の目的が一貫して「ふれあい」と「交流」ということなので、「蕎麦」も「花」も「ゴミ拾い」も目的達成のためのツール(手段)の一つということですね。

当初はまちづくり協議会だけで始めたお祭りが、趣旨の賛同する農協さんや地域内にある障害者福祉施設、企業などに加え、小中高学校の吹奏楽や和太鼓チーム、地区社協、○○の会、婦人部や子ども会など参画する団体はその年によって違うし出展品目も違うようですが、目的は一貫しているのでふれあい祭りとして現在まで継続して開催できていると説明されていました。

お祭り開催の目的がずっとぶれていないということですよね。
ステージ部門も当初はお祭りメニューになかったようですが、活動されている団体からの発表の場が欲しいという要望に応えて数年前からプログラムを用意されたようです。

その一つである和太鼓グループも地域の伝統継承を目的に大人たち中心で立ち上がったものの、一時期は存続の危機を迎えたそうですが近年、子どもたち中心に人数も増え、先の大阪万博においても会場で演奏を披露する機会をいただいたそうです。
ふれあい祭りでも3歳の子が一生懸命太鼓を打っている姿が本当にかわいかった。

また地域の伝承事業として石臼を使って餅つきも実演、体験がありました。
蕎麦打ちや餅つきなど日本の季節の風物詩も、そんなに遠くない将来にできなくなる可能性が高いんじゃないかと思います。
でも目的がふれあいと交流ならば、時代に合ったツールを活用すればいいんじゃないかと思いますが、伝統行事の継承が目的になると…全然話は違ってきますよね。

目的をはき違えたり混同させたり、あるいは手段が目的になったりすると先が見えにくくなってしまう、そんなことを考えた初冬の一日でした。

 

 

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高市総理の台湾有事の国会答弁が物議を醸していて、メディアもネットやSNSでもその発言について賛否両論分かれて連日報道されています。

この問題の他にもロシアのウクライナ侵略やイスラエルのパレスチナ問題などの国際問題だけでなくコロナ禍の自粛警察や著名人の不祥事など、私たちの日常においても、「正しい(正義)」って怖いなぁと思う時が自分の中で増えてきていると感じています。

正義の反対は?と聞かれると「悪」となりがちで、ある事案に対して実際に自分が正しいと思えば思うほどネットやSNSなどでは自分とは違う考えの人を「悪」と認識して過剰な攻撃をしている発言や発信が増えている気がします。

正義の反対は別の正義という考えに納得している私ですが、現実社会では自分が正しいと信じるがゆえに違う考えが「許せない」と正義の怒りがエスカレートしていく、正義を掲げれば何でも許されると思い込んで人を傷つける言葉を相手にぶつけていく。さらには被害者意識さえ振りかざして自分の正しさを守ろうとする。そんな行為の方が圧倒的に多く日常でもよく見かける仕草です。

だからなのか最近、人権を尊重し多様性を尊重することが「正しい」という主張をみると、人権や多様性を尊重しないことは「間違い・悪」だと言っているように聞こえてきます。

でも、一人ひとりの自由が尊重されるということは、私の「自由」が必ず誰かの「自由」とぶつかるということになります。

それなのに誰かの自由を「悪だ」「間違っている」と言いきるのは本当に正しいのでしょうか。

人権を尊重し多様性を尊重することを否定するつもりはありませんが、それが「正しい」ことだという客観的な根拠はどこにあるのか?を考えてみても、根拠をきちんと納得できるように説明できているものに出会ったことはこれまでにありません。

当たり前だ、社会の常識だ で片付けられたり
日本国憲法に書かれているから
アメリカ独立宣言に書かれているから
フランスの人権宣言に書かれているから
それらがあたかも根拠のように主張されているのは見聞きしきますが、それは「人」が後から作ったもの。

人間が生まれながらにして持つとされる「人権」の根拠は自然権にあると言われていますが、その存在を証明する客観的な根拠や証拠はなく、また社会契約説でいう自然状態がどのようなものなのかを客観的に証明することも残念ながらできていないようです。

しかし、客観的な証明はできていないにもかかわらずこれが日本の憲法や世界人権宣言、国際条約などの基になっているのは紛れもない事実です。

人は誰しも欲望や自由を優先したいと思う本性をもっているので、正しさ含め自分の思いをそれぞれが主張すれば、他人との対立や争いが起きてしまうのは必然です。

だから実際の現実社会には人権尊重や多様性尊重といった「正しさ」を強く訴えれば訴えるほど「わたしはそうは思わない」と頑なに否定してしまう人が一定数いらっしゃると思うんです。

その時、お互いが自分の欲望や願望を譲らずに自己主張を続ければ、最悪の事態に至ってしまうことだってあり得ると思います。

お互いに相手を傷つけずにイキイキと生きていくためには、他人との間の対立や争いを和らげたり解消したりすること、今のところお互いの自由を認め合える約束事を決めることしか方法がないのではないか。

そのことを日本国憲法では曖昧だけど「公共の福祉」という言葉で表しているのでは?

そんな気がしている今日この頃。

 

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近年、若い世代、特にZ世代は会社での昇進(出世)を望まない・したくない人が増加していると言われています。

主な理由としては
責任が重くなるから、プライベートを重視したいから、仕事量と給料が合わないから等が挙げられています。

この理由だと私たち昭和世代にはやる気がないとか現実から逃げているなどと受け取れてしまいます。

でも何人かと話をしてみるとやる気がない人もいる一方、ちゃんと考えていて、例えば自分の判断によってチームのみんなに迷惑をかけるかもしれない、他人の人生に影響を及ぼすかもしれないと思うと不安だからと責任に対して慎重になっている、そんな面を持っている人が案外多いように感じました。

またプライベートを重視したいというのも、高市総理の発言で話題になっているように今の時代にあった誰もが幸せに暮らしていくために必要なライフ・ワークバランスをしっかりと意識しているということでもあります。

一緒に働く同僚や部下の視点でいえば、肩書などに拘らず、利己的でもなく、全体を見渡し着実に業務を実践している人こそ、管理職になって指導してほしいと思っているんじゃないでしょうか。

その人の持つ役職や称号で社会的地位や評価を決めるという価値観、肩書がステータス、肩書が自分のアイデンティティの一部という時代を生きてきた私たち昭和世代の発想はもう完全に時代遅れなのでしょうね。

とはいえ、じゃあ管理職、部長や取締役などの役員は本人がなりたいと思えば誰でもなれるというわけではなく、さらには優秀だから、実績があるからというだけでなれるものでもないというのも紛れもない現実。

これって、会社だけでなくサークルなどの任意団体、あるいは同業種の連合会や協議会のような組織の運営役員、特に組織のトップの場合、学生時代の部活のキャプテンを選ぶ時だって今思い返せば同じだったような気がします。

以前私の友人がある人から「○○連合会(協議会)の長になりたいけど、どうしたらなれるだろうか?」と相談されたことがあったそうです。

友人は相談者に「そういう組織のトップは就きたい人が就けるものではなく、周囲の人から請われた人がその任に就くものだ」と返したそうです。

その相談者は「どうせ役員になるならトップ(長)じゃなきゃ意味がない」という考えの人だったらしく、友人曰く「彼は色々なことに興味があって視野も広い、意見は的を得ていることが多くてとてもいいことを言うんだけど、如何せん実行が伴わない。だからなのか残念なことに周囲からの人望がないのでああ答えたが本人はきっと気づいていないだろう」と。

なるほどねえ、確かにいらっしゃいますね
トップになりたいと思っている人で主張はごもっともだが行動が伴わない、なぜか人望がない、私もこれまでそういう人に何人かお会いしたことがあります。

PTAの話題でも同じような話を見聞きしたことがあります。

PTAの加入は自由、役員・委員も同様なのでやりたい人がやればいいと多くの人が言われる一方で、同じ人が実際に手を挙げて役員をしている人のことを「目立ちたがり」「偉くなったと勘違い」「PTAにしか居場所がない」と非難・酷評し、それがあたかも役員になる人すべてに当て嵌まるかのように一般化して発信されている人がまあまあの人数いらっしゃいます。

事実そういう人がいらっしゃるとは思いますが、自ら手を挙げた全ての役員・委員がそうかと言えば、それは全然違うので一般化するのはどうかと私は思うんですけどね。

また最近ネット上ではコミュニティスクール(学校運営協議会)委員のことが話題に上がってきます。

コミュニティスクールの設置は平成29年から教育委員会の努力義務として法律に位置づけられましたが令和6年度の設置率は全国平均で58.7%に留まっています。

居住市を調べると今は全学校にコミュニティスクールが設置され、中学校ブロックごとに連絡協議会を立ち上げ小中一貫教育を推進しているとされていました。

法律上コミュニティスクール委員は地域住民、保護者、学校運営に資する活動を行う者、その他教育委員会が必要と認める者で教育委員会が任命するとあるだけなので、各種団体の長へのあて職にはなっていません。

しかし実際には自治会長、公民館長、PTA会長といった組織の長が任命されていることが多いのも事実、それもあってかPTAは任意団体で全保護者が加入しているわけではないのでPTA会長が保護者の代表とは言えないのになぜ委員に任命するのか・・・といった意見が散見されます。

PTA会長もきっと在籍児童の保護者ですから保護者の中から選んだことにはなりますので保護者の代表と言えないこともないと思います。
PTA会長だから「ダメ」なの?
市教委によっては公募制をとっているところもあるとは聞きます。
また、団体の長ではなくその団体の一般の会員さんが委員に任命されているところもありますが、いずれにしても任命権は市教委、委員になりたいと自薦しても簡単になれるわけではないようです。

その理由としては、運営協議会が権限と責任を有する会議体であり、かつ目的が地域と学校が繋がり協力してみんなが幸せになることだと鑑みれば、委員には会議で意見を言うだけに留まらず、実際に自ら町内会や学校、PTAなどさまざまな地域活動に参画していて、学校区の中で色々な人と顔が繋がっている人、顔見知りであることが求められているんじゃないかと思います。

キーマン、キーパーソンと呼ばれるような感じの人ですよね。

コミュニティスクールについては、地域の会議や行事に学校の先生や子どもたちが参加していたり、時には行事を協働で行っているなど、学校と地域の皆さんや委員さん同士の距離が元々近い場合は比較的うまく機能していて、運営協議会の会議だけでなく地域学校協働活動も活発だと聞きます。

逆に学校と地域の接点が少なく一定の距離があるところは、せっかく集まっても顔も知らない同士で状況も共有できなくて、意見交換も活発ではない、何より状況が共有できないため形式的な会議体になってしまうことが多いと聞きます。

会社でも任意団体でも部活でもサークルでも
キーマン、キーパーソン的な人がいると他団体や他部署との連携や行事・事業などの物事がスムーズに進んでいくことが多いのは確かです。

役員や組織のトップは、本人がなりたいと思っている人と周囲がなってほしい人が一致すればそれが一番いいんでしょうが、現実はなかなかうまくはいかないものですね。

 

 

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昨年2月にNTT関連の研究所がSNS利用者のうち15~59歳に行ったインターネット調査によると
SNSで気軽に本音が言えると回答した人の割合は全体の40%
年代別では15~24歳の男性53%、女性48%、
40~59歳は男女ともに約30%
という結果で、若年層のほうがSNSで気軽に本音が言えると思っているようです。
また発信率は本音が言えると思う人の方が高いという結果も出ているそうです。

若い世代では約半数、ミドル世代は約3割
この割合を多いとみるか少ないとみるか・・・微妙


別の視点では全体の約70%がトラブル回避のため文面や写真など発信内容を気にするのが面倒だと思っているという結果が出ているみたいです。

また、上記の調査とは別に行ったZ世代と呼ばれる大学生たちへのSNS利用実態調査では発信内容を気にすることを裏付ける結果が報告されています。

この調査では参加した学生の約半数がメインアカウントとは別に匿名の「裏アカ」を持っていてメインアカウントでは言えない本音を自由に発信しているとのこと。
匿名だからこそ吐露できる本音、SNSは人の本音を引き出す一方でその本音と向き合うことの難しさ、複雑な心理を浮き彫りにしたと言えるかもしれませんね。

調査分析では裏アカを利用している学生の特徴として人生満足度が低く、悲観的で、就職に不安を感じている傾向が見られるとの分析が示されていました。

SNSの普及で人は自分の感情や意見を自由に表現できる場・プラットフォームを手に入れたはずですが、同時に自由ゆえに本音を隠さざるを得ない、自由の影に潜んでいる監視される自分、本音をつぶやくことで炎上・誤解・排除というリスクが潜んでいるため言いたいことが言えないジレンマも一緒に抱えこんでしまった。

これは現代の日本社会の持つ「相互監視の心理」と「承認欲求の肥大化」が関係しているとの指摘があります。

SNSは人々の欲求を満たすツールとして有益である一方で、他者から共感を得なければ「ならない」という、これまでになかった「圧」を生んだ気がします。

自身の欲求を満たすために共感を得るということが本来の「任意」から「義務」に変わってしまい、そのことで異なる性質の意見は排除されやすくなってしまったという現実。

つまりは裏アカであっても本音を語ること自体がリスクになる構造が現在の日本社会にあるということになります。

現にSNSでは価値のある情報がリアルに流れ拡散されている反面、言葉一つや行動の一挙手一投足も瞬時に拡散されていきます。
人の発した言葉の端々を指摘して鬼の首を取ったかのように吊し上げ、鬼ごっこのようにそのストレスを受けた人が今度は違う人を攻撃するということが日常的に起こっています。

有名人や公人のプライベートや暗黙を暴露することで注目を集める「晒し文化」や「吊し上げ文化」、コロナ禍においての「自粛ポリス」などはその顕著な例と言えます。
・なぜあの行為を取り締まらない?
・なぜ日本人に危害を加えた外国人が釈放されている?
・悪質な体制を続ける企業が、なぜ今も残っている?
・裏金問題に適当に決着をつけているのに、どうして税金を納めなければならない?
などネット・SNS上に存在するこうした社会の監視者としての役割を果たしていると思っている少数の声高な批判者(ノイジーマイノリティ)の発信が社会に与える影響力は決して侮れないと思います。

そんな現代社会だからこそ近年の若者は「安心して語れる空間」を探し求めているのではないかとも言われます。

ある機関が行った「友達とのつながり」の調査によると、
「なんでも言い合える友達がほしい」「仲の良い友達とはずっとつながっている感がほしい」という回答が、社会人より高校生の方がかなり高いスコアになっていて、そこからはSNSのフォロー・フォロワー数の見える化によって繋がりを定量的に測ることに慣れている若い人たちこそ、繋がりの「量」ではなく「質」を求めている・価値を見出している傾向があることが見て取れるという分析をされていました。

以前は簡単ではなかった世界中の人との繋がりや世界を知ることがネット・SNSの普及で気軽に繋がる・知ることができるようなった、というか今さら広い世界との繋がりを遮断することは不可能という現代だからこそ、より身近な人と繋がっている実感や特定の相手とどれだけ深く繋がれるかに価値を見いだしているのかもしれません。

深く繋がる相手というのは、つまりは本音が言え合える関係とも言えますが
それを構築できるツールは?というと
これまでの調査結果の分析などから推察すると

広く公開されている空間よりも、制限されたクローズドな空間で
小規模であり、かつ信頼関係のある共感共同体で
承認よりも受け容れを軸にした関係性の中での対話ができる空間

ということになるでしょうか?

これはネット・SNS上に限ったことではなくて
リアル社会においても同じだよなって思います。

 

 

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