むつ市議会の一般質問で質問者への教育長の答弁の一部「PTAは学校と保護者が協力して、児童生徒にとってよりよい環境づくりを目的とした団体であると認識しておりますことから、会員、非会員により差が生じることは、本来の理念から外れるものであると考えております。会員、非会員であるのは保護者であり、児童生徒ではないことからも、学校教育や学校行事において児童生徒が不利益を被ることはあってはならないと考えております」だけが切り取られ「これが行政の見解です」と先日Xのポストで流れていました。
興味があったのでむつ市議会第258回定例会会議録を読ませていただきました。
拝読してみて、まずPTAは多様な独立した任意団体なので全国共通の法的・公的な理念が明文化されているわけではなく、そもそも理念を掲げること自体が必須でもないことから、これはあくまで教育長の意見か一般的なイメージに基づいた主観的な認識から「理念から外れていると考えている」という感想を述べただけで、教育委員会がPTAに指導や是正できる法的根拠や具体的アクションは何も示しておられません。
また、「学校教育や学校行事において児童生徒が不利益を被ることはあってはならない」のは学校が主催・教育課程として行う範囲において不利益(差別)があってはならないと答弁されただけでPTAが独自に行う活動や、その会員・非会員の扱いについて学校や教育委員会が介入・制限できるとも一言も答弁していません。
さらに卒業記念品の再質問においても「任意団体との関係において、卒業式に係る記念品等に関して、必ずこのようにしなさいということは、ご指摘の任意団体自由性等の関係からも妥当ではない」「私どもが予算として配分しております卒業記念品に関しましては、その使途について校長先生にお任せしている」と答弁されているように、PTA独自の記念品に対し必ずこのようにしなさいということは妥当ではない、行政にはPTAに対して指導権限も口出しする権利もない(任意団体の自由性を尊重する)と明言されています。
ただ学校予算(公費)による記念品は校長に一任しているため、公費である以上当然差をつけることはないという答弁になっています。
これはPTAが独自の予算で会員のお子さんだけに配る記念品について、教育委員会はそれをやめさせる立場にないという姿勢を示している答弁だと思いました。
また「配慮不足により仮に子供たちが不利益を感ずるようなことがあるのであれば~そのように学校のほうにも私どもも周知をしてまいりたい」との答弁も、主語は校長先生にお任せしている予算の使途についてなので周知の対象はPTAではなく学校(校長)だと思いました。
要約すると学校がやるべき公教育の場(学校予算・学校行事)では親の属性で子どもたちに差をつけないし、学校(校長)には配慮を徹底させるが、外部の任意団体であるPTAの独自活動や記念品の中身については教育委員会が指導・介入することはできないし、するつもりもないという答弁だったと受け取りました。
私からみれば質問者に対して行政の完璧なゼロ回答にしか映りませんので、質問者がこの答弁をもって教育委員会がPTAに対して非会員への差別(人権問題)を禁止する指導を行うと約束したと解釈しているとしたら、自分の主張に都合の良い言葉だけを繋ぎ合わせて都合のいいように解釈しただけだと感じました。
ただ議場では文字ではなく口頭でのやり取りですから相手の答弁の意図をしっかりくみ取れず、自分に都合よく解釈してしまうのも分からないでもないですけどね。
気になったのは質問者の「学校内」ではあってはならないという言葉です。裏を返せば「学校外」ならいいのか?だとしたら以前記事に書いたようにPTAの人権問題じゃないことを自ら認めることになります。
人は誰しも何事も自分の読みたいように読み、都合よく解釈しようとする傾向にありますよね。
例えば100%はあり得ない(現実)を主張し、もう一方では100%を要求(理想)する仕草
仕事で、あるいは人間関係などで時々見かけることがありませんか?
自身のことだと失敗するリスクを否定できないので100%は不可能だと予防線を張りつつ、部下や他者には100%の成果を求める、また自分に都合が悪くなると絶対はあり得ないと言いつつ相手にはなぜ100%できなかったのかと責任を追及する仕草を。
もしかしたら自分も無意識のうちに都合よく現実と理想を使い分けていることがあるかもしれません、気をつけたいものです。
PTA関連では任意加入の団体なので論理的に全員(100%)加入は不可能・あり得ないと現実を語る人が、一方で任意の周知は全員(100%)が完全(100%)に理解しないと認めないと証明できない理想論を語っているのをネット上で多く見かけます。
中にはPTAを否定しているわけではないから100%の人に周知し全員が理解できている状態が確認出きたら加入してもいいという人もネット上にはいらっしゃいました。
100%は論理的に不可能だと思っているからこその加入してもいいとの主張に見えるし、不可能だと理解していながら組織には厳密な論理(理想)を要求、達成できないと認めないというのは明らかに自己矛盾でしょう。
しかし世の中の議論というものを客観的に見てみるとPTAに限らず多くが正論という仮面を被った感情のぶつかり合いが圧倒的で、勝ち・負け、好き・嫌いからの論破という結論が先にあって、それを正当化する後付けの道具(ツール)として正論やべき論が使われている気がします。
だからPTAの問題も論理というより感情、そうみればそれぞれの主張も理解はできます。
批判する側も運営側も行政も、最初からそうした感情によるお気持ち論とお互い認めて話し合いができれば、もっと前に進むのに、自らの主観や個人的な不満を正当化するために法治国家だ、人権だ、憲法や法令違反だ、あるいは理念は、代表は、総意はなどと主語を大きくしたり厳格な言葉の意味などを持ち出して論破しようとするから、それぞれの主張が屁理屈のオンパレードになってしまって前に進まない堂々巡りになっている気がしてなりません。
例えば1人でも反対したらそれは総意ではない、あるいはPTA会長は非加入者がいる以上保護者の代表じゃないという声をずいぶん前からネット上でよく目にしました。
感情としては理解できるし言葉の意味を厳格に捉えてというのも分かります。
一方、実社会ではPTA会長は外部から保護者の代表として依頼されたり招待されたりすることが多いのも事実、また私自身「保護者を代表として」ではなく「PTAを代表として一言・・・」と言っていましたが、仮に保護者を代表してと口にしたとしても、PTAの構成員は保護者と教職員に限定されているので、満更間違っていると言い切れないのでは?と思います。「全保護者の」というと間違いかもですが、そんな言い方や書き方はあまりしないと思います。
PTAの代表は保護者の代表とは言えない、1人でも反対したらそれは総意と言えないと完全否定できる明確な論理的根拠はなく、逆にそれを完全否定できてしてしまったら憲法第1条(全国民の総意)や第43条(国会議員は全国民の代表)」の論理そのものが全否定(自己矛盾)されることになってしまいます。
憲法第1条は当時の国民は誰一人として個別に賛否を聞かれていませんが日本国民の総意と言い切っていますし、第43条は選挙区の投票(多数決)で選出されただけで全国民が賛成したわけではありませんが国会議員は全国民の代表と言い切っていますからね。
これもまたW(スタンダード)の悲劇ですね。
そういえばむつ市連合PTAが少子化や共働き世帯の増加に伴う会員数の減少により、2026年度限り(2027年5月見通し)で解散する、これは「発展的な解散」で、今後は学校ごとの「単位PTA」による自由で柔軟な活動に重点を移していくとの報道がありましたね。
当事者の決断ですからそれは尊重しますが、市全体の教育を考えると意見集約機能くらいはあってもいいんじゃないかと思います。
もし解散の理由が報道されている少子化や任意加入に伴う負担軽減なら、その論理は当然単位PTAにも当てはまり、遠くない将来解散や形骸化の道をたどることになるでしょう。
その先には自治を手放した完全な行政主導(官製化)、よく助けが必要なら学校が直接ボランティア募集をすればいいといわれますが、自治を手放すことはそれこそ批判していた学校の下働き機能に成り下がることになります。
また学校外のことは本来は保護者の責任と原則論に立ち返ることになり、自分の子どもの安全は、各家庭で確保してくださいという自己責任になるんじゃないでしょうか。
結果として弱者救済をうたって弱者を苦しめることになるという構造的な矛盾(ねじれ)が生じる気がしてなりません。
そうならないことを願うばかりです。