PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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むつ市議会の一般質問で質問者への教育長の答弁の一部「PTAは学校と保護者が協力して、児童生徒にとってよりよい環境づくりを目的とした団体であると認識しておりますことから、会員、非会員により差が生じることは、本来の理念から外れるものであると考えております。会員、非会員であるのは保護者であり、児童生徒ではないことからも、学校教育や学校行事において児童生徒が不利益を被ることはあってはならないと考えております」だけが切り取られ「これが行政の見解です」と先日Xのポストで流れてました。

興味があったのでむつ市議会第258回定例会会議録を読ませていただきました。

拝読してみて、まずPTAは多様な独立した任意団体なので全国共通の法的・公的な理念が明文化されているわけではなく、そもそも理念を掲げること自体が必須でもないことから、これはあくまで教育長の意見か一般的なイメージに基づいた主観的な認識から「理念から外れていると考えている」という感想を述べただけで、教育委員会がPTAに指導や是正できる法的根拠や具体的アクションは何も示しておられません。

また、「学校教育や学校行事において児童生徒が不利益を被ることはあってはならない」のは学校が主催・教育課程として行う範囲において不利益(差別)があってはならないと答弁されただけでPTAが独自に行う活動や、その会員・非会員の扱いについて学校や教育委員会が介入・制限できるとも一言も答弁していません。

さらに卒業記念品の再質問においても「任意団体との関係において、卒業式に係る記念品等に関して、必ずこのようにしなさいということは、ご指摘の任意団体自由性等の関係からも妥当ではない」「私どもが予算として配分しております卒業記念品に関しましては、その使途について校長先生にお任せしている」と答弁されているように、PTA独自の記念品に対し必ずこのようにしなさいということは妥当ではない、行政にはPTAに対して指導権限も口出しする権利もない(任意団体の自由性を尊重する)と明言されています。
ただ学校予算(公費)による記念品は校長に一任しているため、公費である以上当然差をつけることはないという答弁になっています。

これはPTAが独自の予算で会員のお子さんだけに配る記念品について、教育委員会はそれをやめさせる立場にないという姿勢を示している答弁だと思いました。

また「配慮不足により仮に子供たちが不利益を感ずるようなことがあるのであれば~そのように学校のほうにも私どもも周知をしてまいりたい」との答弁も、主語は校長先生にお任せしている予算の使途についてなので周知の対象はPTAではなく学校(校長)だと思いました。

要約すると学校がやるべき公教育の場(学校予算・学校行事)では親の属性で子どもたちに差をつけないし、学校(校長)には配慮を徹底させるが、外部の任意団体であるPTAの独自活動や記念品の中身については教育委員会が指導・介入することはできないし、するつもりもないという答弁だったと受け取りました

私からみれば質問者に対して行政の完璧なゼロ回答にしか映りませんので、質問者がこの答弁をもって教育委員会がPTAに対して非会員への差別(人権問題)を禁止する指導を行うと約束したと解釈しているとしたら、自分の主張に都合の良い言葉だけを繋ぎ合わせて都合のいいように解釈しただけだと感じました。
ただ議場では文字ではなく口頭でのやり取りですから相手の答弁の意図をしっかりくみ取れず、自分に都合よく解釈してしまうのも分からないでもないですけどね。

気になったのは質問者の「学校内」ではあってはならないという言葉です。裏を返せば「学校外」ならいいのか?だとしたら以前記事に書いたようにPTAの人権問題じゃないことを自ら認めることになります。

人は誰しも何事も自分の読みたいように読み、都合よく解釈しようとする傾向にありますよね。

例えば100%はあり得ない(現実)を主張し、もう一方では100%を要求(理想)する仕草
仕事で、あるいは人間関係などで時々見かけることがありませんか?

自身のことだと失敗するリスクを否定できないので100%は不可能だと予防線を張りつつ、部下や他者には100%の成果を求める、また自分に都合が悪くなると絶対はあり得ないと言いつつ相手にはなぜ100%できなかったのかと責任を追及する仕草を。

もしかしたら自分も無意識のうちに都合よく現実と理想を使い分けていることがあるかもしれません、気をつけたいものです。

PTA関連では任意加入の団体なので論理的に全員(100%)加入は不可能・あり得ないと現実を語る人が、一方で任意の周知は全員(100%)が完全(100%)に理解しないと認めないと証明できない理想論を語っているのをネット上で多く見かけます。

中にはPTAを否定しているわけではないから100%の人に周知し全員が理解できている状態が確認出きたら加入してもいいという人もネット上にはいらっしゃいました。

100%は論理的に不可能だと思っているからこその加入してもいいとの主張に見えるし、不可能だと理解していながら組織には厳密な論理(理想)を要求、達成できないと認めないというのは明らかに自己矛盾でしょう。

しかし世の中の議論というものを客観的に見てみるとPTAに限らず多くが正論という仮面を被った感情のぶつかり合いが圧倒的で、勝ち・負け、好き・嫌いからの論破という結論が先にあって、それを正当化する後付けの道具(ツール)として正論やべき論が使われている気がします。

だからPTAの問題も論理というより感情、そうみればそれぞれの主張も理解はできます。

批判する側も運営側も行政も、最初からそうした感情によるお気持ち論とお互い認めて話し合いができれば、もっと前に進むのに、自らの主観や個人的な不満を正当化するために法治国家だ、人権だ、憲法や法令違反だ、あるいは理念は、代表は、総意はなどと主語を大きくしたり厳格な言葉の意味などを持ち出して論破しようとするから、それぞれの主張が屁理屈のオンパレードになってしまって前に進まない堂々巡りになっている気がしてなりません。

例えば1人でも反対したらそれは総意ではない、あるいはPTA会長は非加入者がいる以上保護者の代表じゃないという声をずいぶん前からネット上でよく目にしました。
感情としては理解できるし言葉の意味を厳格に捉えてというのも分かります。

一方、実社会ではPTA会長は外部から保護者の代表として依頼されたり招待されたりすることが多いのも事実、また私自身「保護者を代表として」ではなく「PTAを代表として一言・・・」と言っていましたが、仮に保護者を代表してと口にしたとしても、PTAの構成員は保護者と教職員に限定されているので、満更間違っていると言い切れないのでは?と思います。「全保護者の」というと間違いかもですが、そんな言い方や書き方はあまりしないと思います。

PTAの代表は保護者の代表とは言えない、1人でも反対したらそれは総意と言えないと完全否定できる明確な論理的根拠はなく、逆にそれを完全否定できてしてしまったら憲法第1条(全国民の総意)や第43条(国会議員は全国民の代表)」の論理そのものが全否定(自己矛盾)されることになってしまいます。

憲法第1条は当時の国民は誰一人として個別に賛否を聞かれていませんが日本国民の総意と言い切っていますし、第43条は選挙区の投票(多数決)で選出されただけで全国民が賛成したわけではありませんが国会議員は全国民の代表と言い切っていますからね

 

これもまたW(スタンダード)の悲劇ですね。

 

そういえばむつ市連合PTAが少子化や共働き世帯の増加に伴う会員数の減少により、2026年度限り(2027年5月見通し)で解散する、これは「発展的な解散」、今後は学校ごとの「単位PTA」による自由で柔軟な活動に重点を移していくとの報道がありましたね。

 

当事者の決断ですからそれは尊重しますが、市全体の教育を考えると意見集約機能くらいはあってもいいんじゃないかと思います。

 

もし解散の理由が報道されている少子化や任意加入に伴う負担軽減なら、その論理は当然単位PTAにも当てはまり遠くない将来解散や形骸化の道をたどることになるでしょう。

 

その先には自治を手放した完全行政主導(官製化)、よく助けが必要なら学校が直接ボランティア募集をすればいいといわれますが、自治を手放すことはそれこそ批判していた学校の下働き機能に成り下がることになります。

また学校外のことは本来は保護者の責任と原則論に立ち返ることになり、自分の子どもの安全は、各家庭で確保してくださいという自己責任になるんじゃないでしょうか。

 

結果として弱者救済をうたって弱者を苦しめることになるという構造的な矛盾(ねじれ)が生じる気がしてなりません。

 

そうならないことを願うばかりです。

 

 

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PTAに肯定的な人も批判的な人も、そして行政もPTAはボランティアであることを前提してい三者がそれぞれ自分たちに都合よくボランティアという言葉を使い分けていることがPTA問題の大きな要因だと感じています。

肯定的な人は自治の視点で自分たちの子どものために皆で負担を分担しようという一方で無償の奉仕(ボランティア)という表現も使いますがPTAが純粋なボランティアなら不参加の人を責めるのは筋違い否定的な人はあくまで自治の視点を無視してボランティアの自発性と無償性を前面にやりたい人がやればいいと責任の伴わない自由を主張します。行政自治と認識しつつも保護者による善意のボランティア団体といい、無償で学校支援活動をしてもらっている必要不可欠な団体と言います。

PTAはボランティアか?活動対象を比べればPTAがボランティアではなく自治や互助組織に近いことが論理的に説明できます。逆にPTAがボランティアといえる理由を論理的に説明している人はいらっしゃいません、なぜでしょう?

 

自治組織だとしても任意団体なので加入の強制ができないのは同じです。

それは自治会裁判でもPTA裁判でも認めています。

PTAに対する批判や疑問の声としては
自動加入=強制加入=同調圧力=ムラ社会=違法、差別=人権侵害、活動の非効率
などが挙げられ、個人の事情や権利よりも最優先される限定された空間に対する強い嫌悪感とそれら(強制加入役員の強要、強制徴収)によるムラ八分という時代錯誤で法治国家ではあり得ない違法行為と主張し、法で裁かれるべきだとして実際に裁判起こたと認識しています。

しかし、それら裁判で違法とはいえない(不法行為は成立しない)と判断されました、好む好まざるにかかわらずそれが現時点の国の法的評価となります。

任意団体内での手続きや運営上の問題のため、法律で解決するほどの悪質性はないから当事者間の話し合いで解決しなさいという判決だとの見方がありますが、裁判所が違法性を認めなかった(棄却した)というのは厳然たる事実で、判例として今後も残ります

真っ白ではなく限りなく黒に近いグレーかもしれませんが法的には黒(違法)ではないのだから、白(適法)の扱いであるというのが司法の判例が持つ重みです。

だから法治国家なのに不当な判決だ、違法だと未だにバッシングで異を唱え続ける姿勢は、自ら主張している法治国家の否定(ダブルスタンダード)になってしまい本末転倒だと思います。

裁判の結果を受けて改めてPTAの問題は法ではなくお気持ち論(感情論)であると感じました。

先の三者が自分の主張もお気持ちとして捉えることができれば、それぞれが抱く感情十分理解できるのではないでしょうか。


だから裁判所はそういう判断(よく話し合いなさい)を下したんだろうと私は思います。

ただ批判する人たちはもともとPTA運営側の「子どものため」「みんなやってる」という言葉を根拠のないお気持ち論(道徳の押し付け)だ、同調圧力のムラ社会だと激しく非難してお気持ち(感情や道徳)論での運営を悪と決めつけ法的な白・黒を求めて裁判を起こされました。しかし司法判断はにそぐわない違法性は認められないという判決でした

すると今度は非加入の子に記念品を配らないことや登校班から外されることは差別、子どもがかわいそうだと自分たちが最初に非難し、悪と決めつけた道義的・教育的・感情的なお気持ち論を教育的配慮という言葉を使ってPTA批判をするというダブルスタンダード(二重基準)の行動に変容します。

違法性が認められなかった以上、ご自分たちの主張がお気持ち論であることを受け入れ話し合いに進めれば、泥仕合から抜け出せるのではないかと思いますが、そのためには高いハードル「ズルい」という感情も受け入れる(それが個の尊重ということですが)必要があります。ネット上の机上論者は心理的に屈辱でしょうから受け入れるのは難しいかもしれません。

でも「ズルい」の正体は自治の視点からみんなで負担しようなのでリアル現場では十分受け入れる可能性はあると思っています。

例えば通学班の問題も排除ではなく緊急連絡先がないと有事に責任が持てないからなので、連絡先の共有に同意できれば全然大丈夫だと思いますがどうなんでしょう?

また学校とPTAは別組織なので学校の外で活動すれば文句はない、任意団体なのでご自由にどうぞというご意見を今も多く見かけますが、本当にそうお考えなのでしょうか?

確かに正論のように聞こえますが、仮にPTAによる学校の外での会員(とその家族)限定のイベントやコサージュはじめ諸々の物品配布を容認したら、非会員のお子さんは参加できない・受け取れないことを容認、つまり会員限定の活動はこれまで主張してきた人権(侵害)問題ではないことを自ら証明するというダブルスタンダードになりますがそれでいいのでしょうか?

結社の自由を錦の御旗にしてPTAへの強制・自動加入は法的に無効と提唱した学者先生たちも、あるフォーラムでは遅々として任意加入が広がりを見せない、事実上の強制が続くならPTAを作るのを禁止する法律でも作ってはどうか?保護者懇談会さえあればPTAは必要ないなど、自らが主張した結社の自由否定する発言をされています。個の尊重はどこに行ったのだろう?

ただ個人情報の無断提供は違法になるので学校側も提供を受けるPTA側もどうやって会員さんの個人情報を提供していただくか? はちゃんと考えなくてはいけないと思います。


私が所属したPTAでは法施行以降、学校からの個人情報の無断提供はありませんでした。現場は困惑されたと思いますが法施行当初から順守されていたんですね。


幸い小規模校だったことや通学班の必要性は共有されていたので、毎年末に口頭による確認と連絡先の提供を町内単位で行うことができていました。その場合、確認ができないご家庭は非会員とせざるを得ませんでしたが

現場感覚では会員さんは提供にはそれほど拘りはなく、とにかく煩雑で(面倒くさく)ないほうがいい、学校が一括管理してくれたほうが合理的だと考えておられる人が多かったのが現実でした。

会費についても現金を扱う手集金安全面から廃止され、原則口座引き落としに変更する際に合理性の観点から学校徴収金との抱き合わせを望んだのはほかでもない当時の保護者の皆さんでした。

批判される人が言われる手続きの厳格化やPTAと学校との完全分離化は机上では正しい、でも会員の皆さんが本当にそれを望んでいるのか?と問えば、違法にならない範囲でできるだけ簡単で効率的な方法で行ってほしいというのが本音、理屈なんてあまり関係ないんですよね。裁判所もこれまでの慣行と現実に理解を示しての判決だったと記憶しています。

また、PTAの運営や活動を時代遅れだ、思考停止だという声をよく目にします時代に即した運営と活動、スリム化・スマート化を進めるべきだと。これはコロナ禍を経て多くのPTAではずいぶん進んだと思いますよ。そも代償として合理性・効率性を優先した結果、最も手間がかかり面倒くさいけれど最も大切PTAの肝ともいえる話し合うという機会や場の提供さえもいち早く手放してしまったPTAが多いように感じています

それはいいことなんでしょうか?

一方、施行当初からずっと現実とは大きく乖離し続けている地財法や寄附採納の手続きの煩雑さについては異を唱えず、逆に極めて官僚的というか時代遅れな法律の解釈と運用を頑なに守れと現場に強いているように感じます
思考停止しているのは、時代遅れなのは一体どちらなんでしょうね。

これは義務教育はすべて公費で賄うべきだという主張通じるものがあるのではと思います。
確かにド正論ですが、本当に公費だけですべてが賄えると本気でお考えなのでしょうか?
それこそお花畑ではないでしょうか。理念(理想論)としてはとても美しそこを目指すことは素晴らしいが、実務や経済の現実とは大きく乖離した机上の空論に思えます

このように自分の正しさを認めさせようと理論武装しようとするから、自分が最初に掲げた大前提を自ら踏みにじるというW(スタンダード)の悲劇になっているのが今じゃないでしょうか?

客観的な現実を直視しないで、自分の正しさを証明するために相手を論破することが目的になってしまって、法律や正義の言葉を都合よくつまみ食いして机上の空論をぶつけ合っていることに終始していませんか。

 

それって他責を正当化するための言い訳合戦のように私には映りました。

 

 

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私たちは共通の目的をもって集まった複数人を集団、サークル、グループ、そして団体などと呼んでいますがそれぞれ違いはあるのでしょうか?

ちょっと気になって調べてみると、大まかに集団は目的の有無すら関係ない人の集まり、グループは一時的な役割や共通点で括られた集まり、サークルは趣味などを楽しむための言葉どおり対等な集まり、そして団体は社会的な共通の目的を持つ人の集まりで組織としての運営が不可欠という感じの分類になるように思います。

記事に書いてきたPTAがボランティア団体か否かを考えているときにふと、そもそもボランティア団体というのは論理的に成り立つのだろうか?と理屈っぽいですが気になってしまいました。

ボランティアというのは、他者や社会(不特定多数)のニーズ(困りごと)に対して誰かに強制されることなく、自分の意志で手を挙げて活動する人

これはよく分かります。

ではよく目にするボランティア団体というのはどういう団体のことを指しているのでしょう?

イメージとして共通の社会課題の解決を目的に自らの意思で活動(ボランティアを)する人たち集まりのことをボランティア団体と呼んでいるのかなと想像します。

ただここで大きな問題が。

団体という枠組みにしてしまうとどうしても団体の維持・管理という運営(マネジメント)業務が発生してしまうことです

共通の目的、例えば囲碁や将棋などの趣味、野球やサッカー、バスケなど各スポーツを楽しみたくて加入した人たちは組織の運営(バックオフィス業務)をしたわけではないのと同様にボランティア活動をするために加入した人は団体を運営したいわけではないと思います。

だから趣味やスポーツを楽しむために集まった人たちは団体ではなく、もっと緩やかな集まりのサークルやグループとして活動しているケースが多いと思います。

ボランティアも最近では組織の運営が必要な団体をあえて作らずにその場限りで完結する、運営を必要としないプロジェクト型(集団・サークル・グループ)が増えてきているようです。

ボランティア「団体」としてしまうと団体の維持・運営が不可欠となり、その業務は本来の意味でのボランティア活動(社会貢献や他者救済)とはいえず、経理や総務など一般の組織運営と同じ業務をする必要があり、それはボランティア活動をする団体とは言えないのでは?と私は思ってしまいました。


では何をする団体になるのでしょうか?

例えばスポーツ界でいえば、所属(登録) しているのは選手(プレイヤー)ですが、協会という「団体」の仕事は、試合のブッキング、ルールの整備、スタジアムの管理などプレイヤーが安心してプレイに集中できる環境を整えること、協会自体がサッカーをプレイするわけではなく選手を支える組織ということです。


また、文化芸術界でいえば棋士や役者というプレイヤーが所属しますが、団体の役割は段位の認定や大会の運営、著作権の管理などです。


経済界でも経済団体や経団連に企業(プレイヤー)が加盟しますが、団体としての仕事は、企業活動そのものを行うのではなく、政府への提言や国際的な調整など企業が活動しやすい環境を支えることです。

客観的にスポーツ、芸術、政治や経済界など色々な分野の「団体」の構造を分析していくと、どの分野においても、団体はプレーヤーの集まりというよりも「プレーヤー(活動者)を支える後方支援組織」ではないかという結論に私は行き着きました。

ボランティア団体に置き換えてみると
ボランティアをする人たちが自発的に作る恒常的な団体があるとして、その目的は何になるのでしょう?

団体として現場でボランティア活動するのではなく、個々の活動に必要な技術を磨く、活動の質を高めるための研修や勉強会などの学習機能や情報交換をするなどのボランティア同士の横のつながり(ネットワーク)の構築になると思われますが、これをボランティア団体と呼べるかというと語弊がある気がします。

あるいは困っている人(ニーズ)と助けたい人(供給)を繋ぐプラットフォーム(市場・窓口機能)や活動分野ごとにまとめるといった中間支援機能はボランティア活動には必要不可欠です。

いわゆるボランティアセンターですが、行政や社会福祉協議会、あるいはNPOが担うことが多く、仮にこれらのマネジメント業務を任意団体が担うにしてもボランティアと呼ぶには無理がある気がします。

こうして考えてみると実際に多くの人がイメージしている恒常的に現場でボランティア活動することを目的とした集まりなら、それは団体ではなくその場限りの集団・グループの方がしっくりくると思います。

改めて整理みる団体は、団体を形成した瞬間から本質のやりたい活動から離れ、組織の維持運営や後方支援に変容していく宿命なので、ボランティア団体というのは論理的に成立しない、実態に合わせるなら後方支援組織や学習支援ネットワーク、あるいは中間支援組織と呼んだ方がふさわしいように思います。

改めてPTAはボランティア団体か否か?に話を戻すと

活動の対象が自分や自分の子どもを含んでいるので、本質は自治組織や互助組織に近く、活動内容についても、ボランティアは「居場所づくり」「道路清掃」「高齢者の見守り」などそれぞれピンポイント(点で限定的)ですが、PTAはピンポイント(点)ではなく学校生活における子どもたちのこと包括的(面的)に関わっていることからボランティアとは明らかに違うと思います。

また、そもそもボランティア団体自体論理的に成立しないならPTAボランティア団体ではないということになるという考察でした。

 

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PTAは任意団体(法に規定のない法的根拠のない団体)
PTAは社会教育関係団体と言われている(法に明記されているわけではない)
ここまではほぼ共通の認識ではないかと思います。

PTAはボランティア組織か?
PTAに批判的な人も肯定的な人も、日Pはじめ各PTA自らもそう言っているしwikipedia先生もそういっていますが、私はボランティア組織ではなく自治組織や互助組織に近い組織と考えています。理由はどちらも法に規定はないが活動の対象(他者のためか自分(家族)のためか)が明確に違うから。

PTAの違法性
今もなおPTAに対しては、特にネットSNS上で違法・ブラックという声が絶えませんが、司法はPTAの違法性を認めるような判決を下していないというのが現実です。

熊本のPTA裁判 鹿児島の給与天引きの裁判
自動加入=強制加入=違法(入会申込書なし)という訴えは認められませんでした。

書面による明確な同意(入会届)がなくても、手続きが自動(慣行)であっても、それを黙認して恩恵を受けていたなら契約(黙示の入会)は有効に成立しているという判断

裁判所は自動加入を現場の事務手続きの合理性による慣行に一定の理解を示し、退会の自由がある状態なら結社の自由にも、契約原則にも違反しないとの判断。

しかし退会を認めないとなれば違法性が問われるでしょう。


学校側が保護者の個人情報を本人の同意なくPTAに渡すことはまた別の問題で、それは学校側が違法性を問われる可能性は十分あります。

PTAコサージュ裁判
未加入者の子どもの不利益や差別についての訴えも棄却
退会した保護者の要望をすべて受け入れる義務はなく配布しないのは違法ではない。
任意団体である以上、構成員の子どもと退会した保護者の子どもとの間で取扱いに差異が生じるのはやむを得ないとの判断。これはPTAが受益と負担を原則とする自治組織であることを司法が認めたと受け取ることもできます。

PTAは「たかが」とか「ただの」とか「PTAのくせに」などと言われる私的な任意団体。
世の中の大半の団体が任意団体なので失礼な表現だと思いますが、どこも結社の自由に基づき、誰を会員とするか、集めた会費を誰のために使うかは、団体が自主的に決められ(自治権がある)ます。

教育的配慮

教育的配慮というのは学校という公教育の場で活動する団体が親のステータスによって子どもを差別するのは道義的にどうか?
子どもの健全な育成を目指すという理念を掲げている団体が、一部の保護者や子どもを排除したりするのは言行不一致でまずくないか?

法的根拠はないので法律の話ではなく、理念に反する、不誠実など倫理的・道徳的・道義的なマナーといったお気持ち(感情論)の領域になると思います。

これを人権問題に結びつける人もいらっしゃいますがさすがに無理があるでしょう。
授業に参加させない、入学・卒業を拒否したなどの場合は教育を受ける権利や人権侵害が成立すると思いますが、教育課程外の任意団体による私的な給付を受け取れないことは、あくまで法理的な裏付けのない個人の主観や道徳論(感情論)だと思います。

学校や教委、文科省も親の属性に関わらず子どもたちは区別しないよう配慮されたしと曖昧な表現をしていますが、全員に配布しろ、配布しないと学校施設を使わせないなどと言ったら任意団体に対する強制や財産権を侵害することになっちゃいますものね。

ただ熊本も遠藤教育長の出した通達はかなりやばかったと思います。

また別の角度からPTAは学校とは別機関なので学校内で活動(配布)しないで、学校の外で学校を関与させずに自分たちで配布すれば問題ないという主張もよく目にします。

確かに学校との切り分けは明確になります

ただ仮に学校外で配布しても卒業式のコサージュ(記念品)が会員のお子さんにしか配布されないという事実は変わりません。それを容認するということは、コサージュ問題が子どもへの差別、人権の問題ではないと自ら宣言したことになるように思いますがいかがでしょう?

こうして改めて整理してみるとPTA問題のほとんどは、お互い全く違う土俵に上がっている、同じ土俵上で面と向かって組み合わないまま自分たちの主張を繰り返している状態が延々と続いてきたと感じました。

裁判結果により違法性が問えなくなった以上は、PTAを批判するなら「違法」「ブラック」ではなく法とは別のいわゆる道徳、マナー、モラルなどお気持ち面(感情論)だと認めて今の運営方法でいいのか?うあるのが望ましいかを直接話し合えれば少しは前に進むのかもしれないと感じました。

PTA側も自動加入方式が違法ではないにしろ、任意加入であることの周知や入会意思の確認は司法からも求められています(努力義務)。申込書に拘る必要はありませんがトラブル回避には極めて有効です。

ただお気持ち(感情論であることを前提にするなら「子どもがかわいそう」という感情も「協力しない人はズルい」という感情もお互いが受け入れなければ成り立ちません。

そんな大人の事情が渦巻く中、部活動の問題はもっと混とんとしています。

学習指導要領には教育課程外の生徒の自主的・自発的な任意な活動だと言いつつ学校教育の一環という曖昧な表現をしています。

そのため公立では部員からの部費とは別に部活支援(金銭的支援)をしているPTAが多いですが、支援を批判・反対する人たちもいらっしゃいます。

確かに受益者負担が正論ですが、その主張はご家庭の事情で入部できない弱者切り捨ての冷酷な自己責任の法則になります。一方で同じ人がPTAの記念品は全員配布すべきと主張されているのも興味深いです。

逆に記念品は受益者負担の原則で会員のお子さんに限定配布しているのに、お子さんの加入の有無に関係なく部活動に金銭的支援をしているPTAが多く存在しているのもこれまた事実。

また学校協力金に部活動支援の費目が設けてある私立学校があるようですが、昨今協力を拒否する人も増えてきていると聞きました。

弱者支援を謳って任意加入の徹底を要求してきたのに、他方では受益者負担の自己責任論に終始するというように、双方が自分に都合の良い時だけ受益者負担を叫び、都合の悪い時は教育的配慮(または自己責任)を叫ぶというダブルスタンダード、このある意味人間らしい泥仕合が繰り広げられているのが現在のPTA問題の実態じゃないかとこれまで整理してきて感じています。

また最近ではPTAの入会申込書になぜ児童名が必要か?(必要ない)という主張をSNS上で見かけまもちろん個人考えは尊重しますが入会申込書の記入事項も任意団体の自由、でもあえて理由を言うなら会員資格の有無を確認するためだと思います。
PTAは誰でも入れるサークルではなく、その学校に在籍する児童の保護者(および教職員)が有資格者の団体というのが大半です。会員資格を確認するために在籍する児童名・学年・クラスを確認し保護者と紐付けておくのは任意団体として当然のような気がします。

いずれにしても任意団体なので自分たちのことは自分たち(構成員)で決める、決めたことに責任は負う、押さえておくのはこれだけでいいと思います。

近年、PTAを解散したところも全国には多々あるようです。構成員の皆さんが決めたことなのでその意思決定は尊重できます。

 

個人は自ら自治組織を手放してすべてを国や行政に委ねてしまってもいいのか?学校が募集するボランティアというのはそれこそただの下働き、お手伝いになっちゃうけどいいのか?と思いますけど、当事者が決めたことですから

ここからは完全な私見です。
理想を追い求めることは素晴らしいがPTAひとつとっても多くの矛盾を抱えているように何事も論理的に100%正しい完ぺきなリスクゼロの仕組みやシステムは存在しない、社会はyesかnoか二極でかないという現実を受け入れることがとても大切。

 

こうした理想と現実の違いをどこまで容認できるかが社会で生きるということのような気がします。

だから多くのPTAは様々な矛盾を抱えながらも、毎年少しずつなんとか折り合えるグレーで現実的な妥協点を探りながら変えるところは変えながら活動をされてきたから継続できているんだと感じています。

例えばいち早く任意加入を宣言してメディアでも取り上げられた岡山西小では任意加入のPTAとは別に全員加入の登下校を見守る「西小子どもを見守る会」を立ち上げておられます完全に矛盾していると思います。

私は組織は生きものだと思っています。その中でもPTAは毎年一定数の構成員が必然的に入れ替わるとても稀有な組織なので、いつもベクトルが同じ方向を向いているなんてありえない。今年は右、来年は左かもしれない、組織の方向性は構成員が決めることだから。

では方向性を決めるためには何が必要なんでしょう?
唯一無二の正解なんてありませんが、私は一番面倒で手間がかかる、そして成果が目に見える形として表れないため、多くのPTAが効率化・合理化・スリム化の名のもとに一番最初に手放してしまった会員の皆さんのご意見を聞く・いただいたご意見を集約する・話し合いをする・結果を共有・フィードバックするというプロセスだと思っています。


いただいたご意見や要望がすべて叶えられるわけではありませんが、きちんと受け止めることが合意形成をするうえで一番大切だと実感しています。

 

だから目に見えるような成果や変化はないと思っていて、失礼を承知で言えば、「改革」という大それたフレーズを使っている人をあまり信用していません。プロセスより目に見える成果を求め、大切なものを切り捨てているように感じているからです。

 

 

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昔から自由には責任が伴うとよく言われてきました。

 

これに納得できず、それは自由じゃないと反発したい気持ちがありました。

 

しかし、自分の自由を主張することは、同時に他者の自由を認めて侵さないということ、また自由な選択(行動)には必ず結果が伴い、その結果を引き受ける責任があるといわれると納得せざるを得ません。

 

個の尊重と同じですね、社会の中で生きる以上、自分も他人も尊重するという責任う。責任が伴わない自由は単なるわがままや他者への侵害と受け取られてしまいます

 

ただ、思想・信条の自由のように心の中で何を考え、何を想像し、何を望むかは誰にも制限されない、行動として表に出さない限り誰に対しても責任を負うことはない。確かに。

 

それでは時々目にする税金を納めていれば社会に対し責任を果たしたことになるのでしょうか?

 

税金を納めることは憲法が定める納税の義務をクリアしていますが、他者への配慮コミュニティの維持民主主義への参加など社会生活を営む上ですべての責任を果たしたことにはならないというのが通説のようです。

 

私はPTAはボランティア団体ではなく自治や互助、相互扶助組織に近いという認識です。

理由は活動の対象に自分や自分の家族が含めれているが、ボランティアは自分を除く他者、もしくは社会のための活動だからPTAは全く当てはまらない。

 

そして肝は自分たちのことは自分たちで決めることができる。その代わり責任は引き受けるという認識でいます。

 

これらを前提に、最近記事に書いてきたPTAや自治会に関する考察について、自分の中で少し整理をして見たいと思います。

 

日本のPTAは設立当初から今も法に定めのない任意団体であり、任意加入の団体であることは断然たる事実です。

 

その根拠として憲法学者が憲法第21条の「結社の自由」を挙げられました。

結社の自由には、共通の目的を持った人々が「集まる自由」「その集団のルール(規約)を自分たちで決める自由(積極的結社の自由)と特定の団体に「入らない自由」「強制されない自由」(消極的結社の自由)があり、入退会の自由は後者に当てはまるという主張です、確かにそうですよね。

 

このことは先日記事に書いた自治会裁判の最高裁判決や昨今の自治会のゴミステーション裁判、熊本のPTA裁判、大阪堺市のPTAコサージュ裁判の棄却理由などでも言われています。

 

自治会もPTAも加入しない自由100%保障される。また規約に規定がなければ退会も自由。

一方、加入しない自由を選択した時点でその団体によって成り立っている利益(サービス)を享受できないという結果も引き受ける責任が伴う。

また団体側には加入しない人の要望をすべて受け入れる義務はない。

 

つまりは団体が加入しない人(や家族)に物品を配らないという選択をしても、原則として団体の自由(不法行為ではない)という非常にシビアな境界線を司法が示したことになります。

 

また、自治会裁判では加入しないのは自由だが自治会が管理する共通のインフラを維持するために必要な相応の対価は支払う義務があるとしました。

 

受益者負担という民主主義の原理原則ですね。

 

これも双方にシビアで合理的な判断を司法は下したという印象を持ちました。

 

ただ自治会が管理していても、行政からの委託業務(ゴミ収集そのもの、災害時の避難所、広報誌の配布など)は、加入非加入関係なく排除することは法律上・人道上できないことは承知しておく必要があります

 

任意だから何をしても自由(ノーペナルティ)というわけではなく、加入しない自由があるのと同時に、組織側にも加入しない人活動の対象から除外する自由がある、片方の自由だけを認めというのはダブルスタンダードになってしまうから司法がそれを避けたように受け取れますが、自由と責任、受益者負担の原則に則っての判断とも思えます

 

因みに私の関わったPTAは、全く別の視点から芸術鑑賞会は全児童と希望する保護者、キャパが許す限り地域住民の希望者にも参観いただけるよう企画しましたし、地区の懇談会には入学する可能性のある未就学児童の保護者も参加いただけるよう幼稚園・保育園にご案内をしていましたので、児童生徒の記念品や案内チラシ、広報等ももちろん全世帯配布をさせてもらっていました。

 

町内会では津島神社の祭礼や神社の例大祭(お獅子)は町内会のPRも兼ねて外孫さんはじめ町内の非会員大歓迎として、参加者にはお菓子を配っていました。同じ地区内の違う町内会では配布を制限をされているところもあると聞きましたが、それぞれが自分たちで判断し決めて実践したことなので、それぞれの判断がその時の最適解だったと私は思います。

 

一方で、保護者が会員かどうかにかかわらず、学校内では子どもは平等に扱うべきという、法的な根拠はなくても子どもに罪はないという教育的配慮、人道的な配慮という視点があります。

 

他人には論理的根拠・法的根拠を強く求める割にPTAがボランティア団体だとか全児童生徒が対象だとか、またこの教育的配慮とかはどちらといえば感情論に近く、拡大解釈かなと主張に矛盾を感じますが、この点については一理あると思う人は多いので関係者で議論が必要だと感じています。

 

客観的にみて、本当なら学校や保護者は、差別だとあたかも団体に非があるような主張するのではなく、サービスや利益(受益)を受ける者が、そのコストを負担するという民主主義社会の基本原則や責任を果たすことの大切さを教える立場にあると思うんです

自分の選択には、どのような結果と責任が伴うのかを身をもって学んでもらうことこそが、生きた教育であり、学習指導要領に謳っている「生きる力」「生き抜く力」だと思うんです。

 

それを学校も保護者も教えないで、責任の伴わない自由を容認するというのは教育の怠慢と言われかねないと思うばかりか、仮に全児童生徒への配布を学校や教委、非会員が要求したとしたらPTAという私的な機関の財産権の侵害になってしまわないかと思ったりします。

PTA会費は、会員が目的を持って出し合った団体の私的財産になりますそれを学校や第三者が、その財産を会員以外のために使えと要求・強制することは実質的な私的寄付を強制している状態になり民法上の契約(贈与)の原則団体の財産権や処分権を侵害することになる可能性は否定できない気がして、大丈夫かなあって思ったわけです。

 

もちろんPTA会員の皆さんが意見を聞気話し合ったうえで、そうだねと自分たちで出した判断なら問題ないと思いますが。

 

また最近気になるのはPTAの話題になると支援対象という表現を使う人が多いのです、そもそもPTAは誰かを支援する団体なのでしょうか?その根拠はあるのでしょう?

 

日本全国のほぼすべての単位PTAが準拠しているだろうPTA規約(会則)」や定義を見てもPTAは会員である保護者と教職員が、対等な立場で相互に学び合い、協力し合う団体との記載があるだけで、誰か(児童生徒)を一方的に支援するボランティア団体であるという記載はほとんど見かけません。しいて言うなら本来の目的子育てや教育環境について共に学び、向上するための団体、支援ではなく相互学習と環境改善を目的とした団体だったはずです。

 

ただ、何度も書いてきたように法的根拠がない団体なので、学校全体を応援する団体でもいい、全児童生徒を支援する団体でもいい、何をする団体かは自分たちで決めることができる、それが最大の特徴だと私は思います。

 

学校教育法第137条の誤解釈をしている人もまだまだ多いですね。

この条文は学校教育上支障のない限り、学校施設を社会教育その他公共の目的のために利用させることができると定めていて、法の読み方つぃては「社会教育またはその他公共のため」で、「公共のため」というのは

公職選挙法に基づく「投票所」の設置(国政選挙や地方選挙)

災害対策基本法に基づく「指定避難所」の開設

自治体や警察が主催する、住民全員を対象とした公的な説明会が想定される

と逐条解説にあります。

 

「または」を「かつ誤解釈しているから、PTAが学校施設を特権的に使えるのは「公共のために」という条件があるからで、会員の子どものためだけに活動するなら、それは公共性に反する私的サークルになるため、学校長は施設を使わせてはならなくなる。

という主張になっていくわけです。

 

法律に明記はありませんが一般的にPTAは社会教育関係団体と言われていて、その点では趣味のサークルやスポーツ団体と同じ位置づけになります。

社会教育関係団体だから公共性とは関係なく学校施設の使用が可能なわけです。

 

実は自動加入=強制加入=違法という論法も暴論ではないかと最近気づかされた事案があります。

 

昨年の鹿児島地裁で高校教員が「同意なくPTA会費を給与天引き(自動加入・自動徴収)されたのは違法だと会費の返還を求めた裁判で、地裁は教員の訴えを退け、PTA側の正当性を認めていて、書面での明確な同意(入会届)がなくても、手続きが自動(慣行)であっても、それを黙認して恩恵を受けていたのであれば、契約(黙示の入会)は有効に成立しているという判断だったようです。熊本の裁判も黙示の合意はあり得るとの判断でしたね。

 

入学や就職と同時に手続きが自動で進んでも、やめたい時にいつでもやめられる(退会の自由がある)状態であれば、憲法の結社の自由にも、民法の契約原則にも違反しない、これは裁判所が現場の事務手続きの合理性による自動加入に一定の理解を示したうえで、退会の自由(やめる自由)が担保されているかを組織の正当性を測る重要な基準としているからだと教えてもらいました。

 

任意加入の団体であることはずいぶん周知されたものの、まだまだ自動加入のPTAは多いと聞きますし、個人情報漏洩も多いように見受けられトラブルも絶えない現場は多いかもしれません。

 

そういえば7~8年くらい前に強制加入は違法個人の入らない自由は保障されている(結社の自由)強く主張する一方で、一向に改善されないならいっそPTAを法律で禁止したほうがいいのではとフォーラムで語った学者先生がいらっしゃいましたし、最近ではトラブルばかり起きるからPTAはなくしたほうがいいと廃止論を口する人もいらっしゃるようですが、いくら現場にトラブルがあるからといって、法による禁止や廃止論は個人の自由を守るためという大義名分でスタートした主張が、他人の自由を法律や圧力で圧殺するという結論に着地しようとしている。

 

それって自分たちが大義名分にしてきた結社の自由を根底から否定することになりませんかねえ? 

違うかなあ。

 

 

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