PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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過ぎてから気づくことばかり 人間なんてそんなもんだ

順番は違いますが今日の「虎に翼」での轟のセリフでした。本当にそうだよなって、仕事でもプライベートでも、自分の言動一つひとつをとってみて身に沁みて感じます。

主語を大きくして大所高所からロジカルに語ってみても、自分が渦中にいるときは目先のことに精一杯で他者の痛みに気づけなかったりします。

逆に、座学だけで理解し、リアルを批判していたのに、当事者になって初めてジブンゴトになり、そう簡単にはいかないことに気づけたりもします。

あるいは自分(所属する会社や団体)のことはさておき、快く思っていない人(会社、団体)などに対してはとことん非難して傷つけているってよくあることです。そして自分はそれに気づいていないという愚かさ

特にSNS系はオンタイムで発信・意見交換などができる優れものですが、ラインの流れが早い分だけ、過去の自身の発信を追いきれない、もしくは忘れてしまうことが往々にして起きて、自分の中で齟齬が生じていることが多々あります。

口語ではなく、文字で発信すれば、それが後残るし、誰かの目に触れれば、意図的に、無意識に、誤解、誤読、作為的、悪意をもって拡散されることだって十分に起こり得ます。

だから文字で発信する以上は対面で話す以上に気をつけたいと思っています。

メディアの影響も大きいと思います。
例えば少し前に流行った「忖度」ということ言葉ですが、本来はポジティブなもので、相手の身分に関係なく相手の気持ちや考えを推し量るという意味で使う言葉ですが、近年はある事件をきっかけに目上の人や上司のご機嫌をとるようなネガティブな意味で使われていることが多く、それをメディア助長しているような気がします。

先日、朝日新聞の「なくならぬPTA会計の不正」という記事、およびPTAとお金という連載をyahooニュースで読みました。

 

Pの元役員の横領・背任はかなりひどいモノだと思います。

個人的には単位PTA批判に加えP、都道府県P協などをターゲットにした恣意的な記事よりも多数寄せられたコメントの方が興味深く有益に感じました。

PTA運営に深く・浅く関わった経験のある人・ない人、机上の理論だけの人、PTAに批判的な人、持論を言いたいだけの人など、それぞれの立ち位置で考えは分かれ、現在進行形の人より過去形の人が多いかなという印象も持ちましたが、まあまあきちんと考えたコメントをされる人、きちんと対策を取られているPTAが想像以上に多い印象でした、もちろんそうでない人もPTAもいらっしゃいますが。

リスクがあるからと保険PTAの活動に批判的なご意見や存在自体を否定するご意見も目にしますが、人数の多少・金額の大小にかかわらず何かアクションをすればリスクゼロはあり得ないと思います。

登下校時の問題も同様で、個人でも集団でも、徒歩でもバスでも、保護者同伴も、交通事故や犯罪のリスクはゼロにはなりません。


の子どもたちはPTA保険には加入しませんでしたが、保険料が安価で補償が充実、契約どおり補償しないなら問題ですが、きちんと保険金を払い補償していれば、保険業を運営するためどのくらいの留保が必要かは規模の因るので分かりませんが、運営側のP連も活動費・運営費の一助となりwin-winだと思います。
留保金(繰り越し)があまりも多いのなら、それを問題提起して保険料を下げる、会費を下げるなどは可能かもしれませんね。


もちろんPTA保険への加入はご家庭内での意思に因るもの、誰かのせいにするのは違うのかなって思います。

 

以前、保険代理店をしている人生の先輩から、保険業界の人たちも勉強不足の人が多い、加入を勧めるプランは加入者が得になるものではなく会社が得するプランだから説明を鵜吞みにせず自分で内容を確かめなくてはいけないと教えてもらいました。

 

確かに保険に限らず、色々な営業さんと話しても本当にプランの詳細を把握している人は少なかった、知人のアドバイスはその後の仕事にもとても役に立ちました。

こうした話題になると、システム(仕組み)か人かとよく言われますが、再発防止策として金融業界でどれだけシステムを強化しても横領などの不正行為はなくならないことやいくつか任意団体などの事務局を担当してみて、やっぱり最終的には「人」の問題かなって思っちゃいます、私は。

全国の5万8千あまりの幼小中高のうちの6百万人強のPTA会員のうちごく一部の人の不正、発生件数割合0.02%。

氷山の一角でしょうが、正直サークルやPTAなどの任意団体内の横領などは発覚しても組織内で何とかけりをつけて明るみにはしないことの方が圧倒的に多いと思います。

最近私が不思議に思い、モヤッてしまうことは保護者会員の多くが共働き世帯、つまりは皆仕事をしているその分野のプロフェッショナルばかりのはず、PTA運営側の人たちも同じなのに、その人たちに向かって何も知らない素人、無知と非難する人たち。

自分に向けて発しているのと同じで正直、恥ずかしい

 

 

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PTA関連で会員・非会員という言葉をよく目にしますが他ではあまり聞きません。

また、会員の単位ですが、日本の自治会やPTAなどは会員=世帯が圧倒的に多いので、それも紛らわしさの要因で火種の一つになっている気がします。

そんな中、先日、とても興味深いケースを目にしました。
会員ではない(非会員)けど、会費は払っていて、かつ議決権があるケース、本人と団体は両者合意とのこと。表面上と実態が違う、初めて聞くケースです。本当に色々あるものですね。

個人的には会費支払いの有無よりも、会員ではない人(非会員)に議決権があることのほうが後に禍根を残さないかととても気になりました。

団体の財源としては会費以外に、補助金や助成金、寄附、参加費、その他(祝儀など)などがあるので、会費じゃなくても受け皿はあるはずですが、過去に実績がないから会費扱いしたいという団体側の意向かもしれませんね、以前ほかでもいくつか聞いたことがあります。
あるいは表面上、当事者以外の外向けには会員としておきたかったかもしれません。

仮に後者なら議決権も付与しておいたほうがいいとの理屈かもしれません、合意していて、最終形ではないとのことですが、議決権を持つ非会員の存在っていずれ組織・団体が困るような気がしてなりません。権利を行使する・しないはまた別の話です。

また非会員かつ会費扱いなら、単純に会員数と会費納入人数に差異がでますがそれは大丈夫なのかな?って、他人事ですが気になりました。

今回はレアケースのようですが、例えば同じように会費を払い議決権のある非会員を、例えば半数以上、または9割以上の保護者が希望されたら運営サイドは認めるのでしょうか?

規約に定めはないでしょうから何かしらの基準は定めたほうがいい気もしますが、そんな基準が作れるでしょうか?

会員・非会員の話題の中でよく挙がっているのは、非会員世帯の児童生徒に対して「モノ」を配布する・しない、モノに対する実費請求する・しないの問題で、児童生徒は全員がPTAの支援対象、児童生徒はそもそも会員ではないなどを主張される声を多く見かけます。

寄附制がなかなか根付かない日本では平等性の担保と安定した収入確保から会費制を導入しているケースが多いと思いますが、この会費制が実費請求の是非に繋がるんですよね。

アメリカのPTOでは強制はないものの寄附したら名簿がもらえる、寄附額にランクがある、特典に差があるなど軽いジャブのような圧があるようです。陰口もやっぱりあるようです。
また自動加入で皆会員になるも寄附納入してはじめて義務・権利が生ずるイギリスのPTAや、社協のように会費の納入に関わらず各種サービスを受けることができる会費という名の実質は寄附という方式もあります。

どんな方式を選択するかはそれこそ自由ですが、紙1枚、ペン1本にもお金が必要、PTAに限らずどんな団体も運営に必要な資金の確保には苦慮されていると思います。
運営資金確保の一助として資源回収やバザーなどを実施しているところも少なくないと思いますが、昨今はそうした労力よりもお金で精算というところもあったりします。

また会費は団体の運営や会員の研鑽(研修や資料)に充てるのではなく、子どもに直接還元するコト・モノに使ってほしいという会員さんが想像以上に多かったのも悩ましい現実でした。聞いてみないとわからない現実で、これがモノの配布・実費請求に関わってきます。

だからこそ、会費を何にどう使うか、どんな活動をするかはそれぞれのPTA会員さんたちで考え、決定し、実践するしかないと思うんです。町内会でも同じです。

児童生徒は確かにPTA会員ではありません、というかそもそも会員資格がないんですよね。別の学校の保護者の方をわざわざ非会員とは言わないように、大前提として資格のない人を敢えて非会員という意味があるのかな?って思います。

児童生徒は支援対象っていうのも廻りまわって間接的にはそうかもしれませんが、個々に直接何かを支援するわけじゃないと思うので、ちょっと違うんじゃないのかなって気がして私はモヤっています。

会員制というとスポーツジムやホテル、ゴルフ場、またコストコはじめ小売業やレンタル業、SNSなど、有料・無料問わず会員登録をしてサービス利用するものがまず思い浮かびます。

会員も個人会員、ファミリー会員、または賛助会員、法人会員などがあります。
資格要件も年齢制限はあるものの、多くが不特定多数、基本どなたでもと、とても広範です。

基本はビジネスモデルのため会員限定のサービス利用や情報提供、非会員も利用できるが会員には優先や割引などの特典があるなど、サービス内容は様々ですが、会員は運営側からサービス提供を受けるお客様、だから運営側も会員メリットを前面に押し出してアピールします。

一方、PTAやサークルのような任意団体は法人格のないものの、一定の目的を持って活動する人の集まりなので、ビジネスモデルとは違って会員はサービス提供を受ける客様ではなく、団体の目的を達成するために自らが活動をする人であり運営する人でもあります。

同じ会員制であっても大きく性質が違うのに、一緒くたにごちゃ混ぜにして自分に都合のいい部分だけ比較し、PTA非難をしている発信をよく目にします。
一緒くたにするなら、会員世帯と非会員世帯でサービス提供内容に差が出てもやむを得ないとなるはずですが、そこはPTAの趣旨や理念とは違うと納得できない人が多い印象を持ちます。

またPTAは自治会と同じように区域限定で、有資格者はその学校に通う児童生徒の保護者たちと先生という特定の少数、その人たちが、学校内外の色々な問題を自分たちで考えて、協力をしながら解決していく団体なので困っている本人・そのお子さん、当事者自身が行動します。

地域限定の特定少数だからこそ会員・非会員という区別が目についてしまうかもしれません。

PTAは地域活動じゃないという人もいらっしゃいます。
今の日本のPTAは、アメリカで言えばPTO、学校の応援団的な存在
なおかつ学校環境含め包括的な問題に取り組むため地域活動系に近い存在だと思います。

同じ任意団体でも趣味のサークルなどとはまた少し違っていて、うまく言えませんが、好きでやるだけでもなく、嫌々やるわけでもない、自分も子どもたちも少しでも居心地よく過ごせるように、それぞれ少しだけ知恵と力を出し合うことに合意して入会しているのがPTAや自治会などの地域活動系ではないかと考えています。

一方ボランティアは、語源が「志願兵」なので、困っていることが起こっていることに対して、活動場所を選ばずに自分から進んで活動することなので、困っている人と活動する人は別。私がPTAのことをボランティアと言わない一番の理由ですが、世の中の人が皆そう考えているかというと多分違っていて、私の考え方がとてもレアだと思います。

働き方改革が法的な制度としてスタートして5年、そして日本でワークライフバランスが意識されるようになってすでに30年が経ちました。

その間に大学の地域貢献や企業のCSR(社会的責任)活動は必須となり、ゆっくりとですが社員の仕事以外での社会貢献(地域活動やボランティア活動)に対する休暇制度導入などが大企業から徐々に広がってきています。

しかしその一方で、仕事を休んでボランティアや地域活動に参加することに眉をひそめる社員や経営陣がまだまだたくさんいらっしゃるのも紛れもない事実で、それは一種の無言の圧力とも言えます。
もちろん仕事を疎かにしていいわけではありませんが、仕事至上主義が長く続いてきた日本では、休暇を取り仕事以外で社会貢献をすることが皆さんの意識の中でスタンダードになる日はまだまださ遠い先のことかもですね。

コロナ禍を経験してデジタル化の功罪はとても大きいと改めて思いました。

例えばSNSなどのデジタルツールは諸刃の剣だと強く感じました。
フォロワーやイイネの数に一喜一憂、熱烈に支持したかと思うと簡単にバッシングに転じる人がたくさんいらっしゃいます。
イイネは投稿のすべてに賛同しているわけでもないし、鍵垢にしていてもフォロワーさんから拡散されていて、知らないうちに広がっていることだってあります。
投稿者もフォロワーもSNSを自分に都合よく過大評価や過小評価をされているように感じることがあります。

情報収集、共有性、効率性や合理性などが向上した反面、相手との距離感や熱量などを肌で感じる機会がずいぶん減ってしまってコミュニケーションスキルが全般的に低下しているようにリアル現場で痛感しています。

でもこれからはそういう形がスタンダードになっていくのでしょうか?
それはいい方向に進んでいるのでしょうか?

 

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居住地域は先週梅雨明けし、週末金曜日に終業式、夏休みに入りました。

これからしばらく、車窓から通学風景が見られないので少し寂しい気もします。

1学期最後の通学風景から、晴れの日でも傘を使用する子どもたちが性別、学年問わず年々増えていること、また雨用の傘から日傘に変わってきていることに気づかされます。いつも見かける通学班は全員が日傘を使用していて、まるで梅雨本番の雨の日のようでした。

毎日のように熱中症警戒アラートが発表される時代、陽射しの強さなどを鑑みれば賢明な対応で、傘は雨の日より寧ろ夏の晴れの日の必須アイテムかもしれません。

私たちの頃は夏休みにどれくらい真っ黒に日焼けしたかを競うコンテストが全国各地で開催されるなど、日焼けした肌は健康的というイメージが強く「日焼けは子どもの勲章」でしたが今は真逆ですね。

また、今は傘だけでなく、かつてのスタンダードだった黒や赤のランドセル、黄色の帽子のほうがマイノリティ、水泳用の水着も自由で、多くの子どもたちがラッシュガードを着用しているなど、昔では考えられないほど変わってきました。

変わったと言えば、先日報道でも見ましたが、最近は水を飲むのが苦手・飲めない子どもたちが増えてきている、特に水道水やウオータークーラーの水が飲めないそうです。

味がない、まずそう、家でも水を飲む習慣がない、菌を含んでいないか心配など、理由は色々あるようです家庭での水飲み習慣の変化や熱中症対策でスポーツドリンクを常用、またコロナ禍でのウオータークーラー使用禁止、他の人との共用の制限など、生活様式の変化の影響も大きいように思います。

小中学校だけでなく幼稚園や保育園でも、マイボトル持参しない水道水やお茶が飲めない、他人との共用も無理、学校や園でスポーツドリンクや冷やしたミネラルウウォーターを与えてほしいなどを保護者から要求されるケースもあるとか。

一昔前には、役所や公共交通機関、医療機関や学校などは応対が悪いと批判され、その改善のためにサービス業を見習った接遇の研修を積極的に実施すべきという風潮がありました。

確かに横柄な対応だと感じることはありましたが、あくまでも応対の仕方や運営の方法であって、業態自体をサービス業化することを望んではなかったはず

しかし、中には業態自体サービス業化という考えもあり、費用対効果を優先してサービス業化を進めた機関もあったと思いますが、その結果


例えば医療機関や教育機関などは、要求型のモンスターを産む、あるいは利益追求型になり、結果として現場がブラック化、働く人たちが疲弊していったように思います。

不要不急の119(救急車の要請)にもそんな感覚が見受けられますが、そういった機関は何を言っても言い返さない、何を言っても許される、ネットやメディアも公的機関が悪いと背中を押ので要求がエスカレート、サービス業化が進めば進むほど現場は疲弊し、そのしっぺ返しは必ず別の形で住民、消費者、学生など社会全体に、要求している自分に帰ってくるのではないでしょうか。

そうしたネット上での発言やリアルな現場での経験から実感しているのが、以前記事にも書いた「正義」の反対は「別の正義」というのは本当だなってこと、でも人は簡単には「別の正義」を認められなくて、正義の反対は「悪」だと思っていることです。

特に個の尊重、人権、自由などテーマが大きければ大きいほど、あるいは自分の考えが少数派だと思っているほど、言動に矛盾が生じてくることが多く、でも矛盾になかなか気づない、自分が発した非難の言葉はそっくりそのまま自分に向けられている言葉だということに。
口は禍の元ってホントそうです。

何度も触れてきたように、私は○○ごときに、たかが○○、○○のくせに
他者に向けたこうした言葉は人を見下しているようでとても苦手というか嫌いです。

PTAや自治会絡みの話題になると頻繁に使われていて、法治、人権、個の尊重を声高に歌いつつ、最近ではもっと露骨に、学歴や職種、職責、あるいは育った家庭環境などを絡めて見下す、非難する発信、差別的行為をされたと非難する人が、平然と人を小馬鹿にして見下し、やられたらやり返すのが正しい、相手を精神的に追い詰めてもいいと発信をされているのもよく目にします。

自分も我が子もいじめられた経験があるので感情論としては、そういう言動に頷いている自分がいますが、人は論理的に考え感情で行動するということを身をもって痛感しているので、理詰めだけで周り納得して、次に進めばそれでもいいですが、かえって相手が膠着して逆効果になること往々にして起こるので、言葉の伝え方は大事だと痛感しています。

以前、聞き手の粗相は言い手の粗相とコメントしたらトンポリって言われたことがあります。
ただ、議論しているだけならそうかもしれませんが、したいのは議論じゃなくて現場の改善ですから何でもトンポリで片付けるのは全くの逆効果だと私は思ってしまいます。

聞き手の粗相は言い手の粗相

胆に銘じておきたいと思った終業式の朝でした。

 

 

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言葉は自分が伝えたい人には伝わらない
そして、伝えたい人と違う人を傷つける

ある分野の専門家に講演をお願いしたときに教えてくださったことがあります。
実は「壮年や知識人に講演をしても正直あまり楽しくなくて、学生や若い人などまだ知識の乏しい人に向けて話している方が断然面白いんだ」と。

私はてっきり専門家の人は、講演相手は話が分かる人たちの方が楽しいと思っていたのでとても意外でした。

彼曰く「知識人は自分の考えに近い場合はうんうんと肯定して、自分の考えと違う場合は馬鹿にしたように揚げ足を取って反論するが、若い人たちは自分の知らないことには目を輝かせながら真剣に話を聞いている」から。

なまじ知識のある人は学びのための聴講ではなく、自分のための単なる答え合わせをしているだけの人が多いのだそうです。

学ぶというより自分の考えは正しい、間違っていないと誰かに背中を押してもらって安心するための確認作業をしているだけということになってしまっていると。

ああ、そういう面もあるかもですね。

本や趣味、考え方だって自身が共感できるものを楽しみ、自分の嫌いなものや共感できないものはつまらないとか、面白くないと最初から決めつけていたり、無意識に避けていることって実は案外多いかもしれませんね。

人生の楽しみとしてはとってもいいことだし、その分野の学びを深めることに繋がりますが、知らない新たな知識を得る学びには繋がらない。

知らないことを学び、理解できると楽しくなる。逆に理解できないと楽しくなくなり、苦痛さえ覚え、自分から遠ざけようとしたりもします。

例えば自分の幸せだけを最優先に考えればいいと誰かに言われたら、自分最優先の人は自分は間違ってないんだと安心するけど、他者に気を遣い過ぎる人には全く響かない・届かない言葉でしょう。

また、そんなに頑張らなくていいと言われたら、自分に甘い人はそうだよねって共感するでしょうが、努力を惜しまない人はそう言われても頑張り続けるように、言葉って届けたい人になかなか届かない、あるいは言葉は届いても響かないことが多いと感じているんです。
人は自分の感覚に頼るとどうしても偏ってしまう傾向が強い気がします。

だかこそ、難しいけれど自分にないものに敢えて目を向けてみる、耳を傾けてみる、受け止めてみる、試してみる、学んでみるってとっても大事だと思うんですね。

自分の考えに拘る、しっかりと自己主張するということは、自分とは違う考えもその人も尊重することに他ならないのだけど、それってかなり難しいことだと実感しています

日本社会は同調圧力が~という日本人がたくさんいらっしゃいます。
でも、それを口にする人は往々にして自分のやることや考えに異を唱えることはすべて不当、間違っているくらいの意味で使っていらっしゃって、自分の主張を他人に同調させる圧を自らがかけていることについては無頓着、全く気にしていないという特徴が見え隠れします。

あるいは自分もパワハラ・カスハラ被害者で相当な傷を負ったはずなのに、人権尊重を訴えてみえるのに。自分と違う意見の他人に対しては平気で傷つけることを言うし侮辱もする、極論として自分と違う考えの人には人権がないという思考なんだと思えてしまうくらい顕著です。

そういえば、今年から居住市自治体も職員さんの名札がひらがな表記で姓のみとなりました。カスハラ対策の一つだと広報されていました。時々メディアでも全国各地で同じような対策例を見聞きします。
以前記事にも書いたように、居住市でも窓口での怒声・罵声を目撃したことがあるし、今も執拗な電話攻撃、嫌がらせに近い情報公開請求なども後を絶たないと聞きます。

一方でネットでは公務員は全体の奉仕者だから本来カスハラなるものは存在しないという発信も目にします。蓮舫さんじゃないですけど、公務員には何を言っても許されると思っていらっしゃるんでしょうかね。

私たちが社会の問題を考えていく時には、自分の感情や概念だけでなく、自分とは異なる他者の感情や概念へのリスペクトが必要になってきます。
なぜなら「社会」というのはそれ単体で、人とは別の何かがあるのではなく「私」や「他者」という多くの人で構成される集合体、つまりは私もあなたも「社会」を作り出す側だから。

でも、そう考えて行動できているかというと前述のように現実はそう上手くはいかない。
ということは、もし日本社会は同調圧力が~なら、私もあなたも同調圧力をかける一因を担っていることになるんですけど、そう思っている人は少ないでしょうねえ。

リアルでもネット上でも、伝えたい内容を知っている・理解している人ではなく、知らない・理解していない人に届けたくて、発信したり研修会や講演会を企画しても、耳を傾けたり参加してくれるのは内容を知っている・理解している人ばっかりという現実。

現代社会の中で異なった視点を持つ人たちと出会い、右往左往することで、人は常識や良識、ルールやマナーを身に着けていくんだろうと思います。
価値観が違う人や共感できない人と付き合っていくのは厄介で、面倒くさく、時にしんどいですが、そうした厄介なしがらみから解放されると、とても楽になる反面、常識や良識、マナーなどからもいとも簡単に解放されて自分の凝り固まった概念に固執してしまう危険性を孕んでいるように思います。

特に毒のある、先の尖った言葉を発信するときには、届いてほしい人には届かず、思惑とは違う人に届いてしまう・刺さってしまう可能性が結構高いことを常に意識しておきたいと思う今日この頃。

 

 

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今月に入り熱中症警戒アラートの発表と食中毒警報発令、気象情報が市の安全安心メールで届きま
他にも選択制で、災害情報、交通情報や行方不明、犯罪、クマ・蜂の出没などの情報も届きますが、登録者数は伸び悩んでいるとのこと、もうメールの時代じゃないかもしれませんね。

喉元過ぎれば熱さ忘れる
人って何か起きた直後は意識が高まりますが、時間が経つにつれ意識も薄れていくように、頻繁に発令して、大事に至らないと「オオカミ少年」というようになり、だんだん身構えもしなくなってしまうんですよね。

平常時で何も問題がないと非常時のことにあまり意識が向かないのが悲しいかな現実。

ホントに身近なことですが、梅雨台風シーズンを迎えるにあたり、家の周囲の側溝の集水桝付近の落ち葉や泥などの詰まりが気になってきます。
放置しておくとすぐに溜まって、ちょっとまとまった雨が降るだけでオーバーフローしてしまいますので、こまめに取り除く作業が被害を防ぎます。

それをだれがやるか?
溢れてしまってから管理者である自治体の責務、自治体が悪いという発信をよく目にするんですが、本当にそうでしょうか。
仰っていることはよくわかりますが、仮に自治体(管理者)が全市的に住民の要望どおり、こまめに点検し、取り除き作業をするとしたら、すべて公費(税金)での対応、莫大な金額と人員が必要になりますが、本当に税金をそれだけ投入する選択することに市民の皆さんは納得されるんでしょうか?

とはいえ、居住町内会も管理者には毎年要望はしていて、自分が町内会長の時も要望書を提出しました。作業箇所を限定して年に1回くらいは実行してくれますが、こちらが望むようにはいきません。

じゃあ放置しておくか?
自分たちが何もしないでいれば、困るのは自分たちなんですよね。
町内会がどうのではなくて、向こう三軒両隣、ジブンゴトとして、自分も含め気づいた人がやってくださっているおかげで、大事に至ったことがないので、非常にありがたいです。居住町内は一斉清掃とかはしなくて、ずっと今の方法で今日まで来ています。でもこの先続くかというと・・・分かりません。

防災や交通災害などは、災害・事故が起きる前の未然の対策はとても大切ですが、予防に費用をかけることって個人でも自治体でも必要だと思っていても優先順位が低く、後回しにしている・されている気がします。国も治山・治水事業を進めていますが、全然追いつかないですしね。

また、万全な対策をとっても、想定を超えるものが来襲すれば被害を受けるので、備えあっても憂いが完全になくなることはありません。
特にここ数年はこれまでなかった線状降水帯による記録的短時間大雨情報が発表されるなど、想定をはるかに超えるような事態が各地で起きています。

少しでも被害を少なくするにはどうしたらいいのか
何度か市主催のフォーラムやワークショップに参加したことがあり、心に刺さったのは被災された人や救助・救援に携わられた人たちの教訓と提言でした。

特に強く残ったのは
家の片づけに来てくれた学生ボランティアの人に「申し訳ない」と思っていたら「困ったときはお互いさまですから」と笑って言ってくれたことが忘れられない。
ボランティア精神も古くからある日本のお互い様の精神も根っこは同じだと思ったと仰っていたこと。

そして避難所生活は、長引けば長引くほど、この「お互いさまの精神」がカギになるとも教えてくださいました。

支援に行かれた人からは
長期の避難生活になれば、避難所内の秩序を保つため一定のルールやマナー、役割分担など、避難所自治が必要となり、その際にはリーダーの存在が欠かせなくなる。
烏合の衆では声が大きいだけの人が優位に立ち自治は成り立たない、そんな避難所もあった。外部の人では地域の実情を理解するのに時間がかかる。でも昔ほどではなくても地域コミュニティとして人と人が繋がっていれば避難所自治も機能していたと教えてくださいました。

避難所運営は自治体の役割という人もいたが、自治体職員は避難所運営のための物的・人的支援の手配や取りまとめ、物資の集配など側面・後方支援を行うのであって直接避難所運営するには不向きだし物理的にできない。
そもそも災害対応に充る自治体職員も警察官も、消防士も皆同じように被災している地元住民という現実を忘れてはいけない。
全国から応援に来てはもらっているが、そんな中、家族よりも仕事を優先して不眠不休で罵声、怒声、非難を浴びながら仕事をされている姿は本当に痛々しいとも教えてくださいました。

被災された経験のある自治体職員さんからは
過去に被災した経験知のある自治体から職員さんの派遣を受けて災害対策本部を運営すれば円滑な運営に近づけると思う。また遠方の自治体と災害協定を結んでおくのも自治体には有益という提言もありました。

通学路や道路の雑草問題などにも通じるものがあると思います。
雑草は春から夏にかけては1か月も経たないうちに伸び放題、視界を遮るなど安全上支障がでます。
道路管理者に陳情・要望はしますが、よくて年1~2回、私の家の周囲は管理者が草刈りをしてくれたことがなく、個人で年に4~5回は道路の法面の草刈りをしていますが、これを市内全域すべて公費負担となれば、莫大な税金を投入することになります。市民の皆さんは納得してくださるでしょうか?

また通常の草刈りの依頼を受ける業者さんも人手不足ですぐの対応は困難という話をよく聞きます。

経験から言うと、悩ましいのは道路や法面よりも、道路に面した不在地主の空き地なんですよね。連絡はつかない、雑草は伸び放題、ごみも捨てられる、野生の外来動物の住処にもなる、でも私有地では自治体は手が出しにくいなど、住宅地や市街地の空き家問題とはまた違う面倒さが田舎にはあります。

他にも通過交通は多いが車歩分離した道路がない、歩道のない生活道路ばかり、地形的に通学路設定の選択肢が少ない。私も何度か全通学路を歩いてみましたが、事情が全く違うので、それぞれが昔から子どもたちの安全性を考えて、民地を通してもらったり、赤線・青線を保護者や町内の有志が整備したり、定期的に草刈りをされていました。

警察や自治体には、横断歩道、信号設置、カーブミラーやガードパイプ、注意喚起の看板設置、優先時間の設定、センターラインや側線の再塗装など、設置するとそこの住民さんが困るケースもあるので自治会さんと一緒になってその都度、相談や要望をしていました。学区内に駐在所があるので警察と地域と学校は情報共有しやすい、行動してもらいやすいのがメリットだと私は思いました。

よく話題に上がるPTAの交通当番も、居住市では交通指導員さんが市の嘱託・臨時職員として小学校15校で11名配置されています。住宅団地内の学校が4校を除けば、実質的には1校1名になりますが、市Pも市の担当部署も各校1名の交通指導員配置を要望し続けていますが、なかなか難しいみたいですね。
また、交通指導員さんも朝と夕という変則勤務なので、募集しても応募者がいないということもあるようです。

何度か触れているように、登下校の旗当番や見守り体制や役割については、学校からの要請があるわけではないので、各学校、地域によって様々で私の学区はPTAの町内委員(連絡係)を中心に横断歩道を通る通学班の保護者たちが相談して、自分たちでやり方を決めているので一律で同じ方法ではありません。

活動のある・なしに関わらず、通学中は無事故であることが大前提

数値化できないものは効果なしとみなす、そんな人もいらっしゃると思います。
だったら参加しなくてもいいし、私としては参加してほしくないとも思います。
通学中の責任は当事者にあるので、見守り活動をすることで子どもたちの意識の変化、ドライバーさんへの注意喚起、経験してみての保護者の交通安全への意識の変化などが期待できると思っています。
もしいなかったらヤバかったかもというヒヤリハットの経験は数回ありましたが、見守り活動のあり・なしによる効果を数値化・見える化はできないし、憂いがなくなることはありません。

 

だからしなくていいのか? 私はそうは思えません。

 

理論と感情は相容れないものかもしれません。

 

世の中、理論・論理どおりに事は運びません。

 

理論・論理的にモノを考え、感情で行動することを絶えず意識しておきたいものです。

 

 

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