#2/2 八正道:お釈迦様が説かれた8つの正しい実践徳目 | 仁吉(nikichi)

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自分がどうありたいかを知り、思うがままに創造し、そして喜びを感じること。

八正道

 

 

正しい行いと正しい言葉についての詳細

 

このようにして出かけて行き、修行僧の修行と生き方に従い、命を奪うことを放棄し、

命を奪うことを控えます。

 

杖を置き、ナイフを置いて、すべての生き物の幸福に対して細心の注意を払い、

慈悲深く、同情心を持って暮らします。

 

与えられていないものを取ることを放棄し、

与えられていないものを取ることを控えます。

 

与えられたものだけを取り、与えられたものだけを受け入れ、こっそりではなく、

純粋になった自己によって生きます。

 

独身を放棄し、村人のやり方である性行為を控え、孤独な独身生活を送ります。

 

偽りの言葉を放棄し、偽りの言葉を控えます。

真実を語り、真実に固執し、堅固で信頼でき、世間を欺くことはありません。

 

彼は分裂的な言葉を捨て、分裂的な言葉を控えます。

 

彼はここで聞いたことをあそこで語って、

ここの人々とここの人々を引き裂こうとはしません。

 

彼はあそこで聞いたことをここで語って、

ここの人々とあそこでの人々を引き裂こうとはしません。

 

このようにして、分裂した人々を和解させ、団結した人々を強固にし、

彼は和合を愛し、和合を喜び、和合を楽しみ、和合を生み出す言葉を話します。

 

彼は罵り言葉を捨て、罵り言葉を控えます。

 

彼は耳に心地よく、愛情深く、心に響き、礼儀正しく、広く人々に訴え、

喜ばれる言葉を話します。

彼は無駄話を捨て、無駄話を控えます。

 

彼は時宜にかなったことを話し、事実を話し、目的、ダルマ

律蔵に従ったことを話します。

 

ダルマはヒンズー教、仏教、ヨガの重要な概念であり、

宇宙を支配する法則または原理を指します。

個人がダルマを実践するということは、この法則に従って行動することです。

ダルマは僧伽と仏陀とともに仏教の三宝の 1 つと考えられており、

共に悟りへの道を切り開きます。

 

律蔵とは、具足戒または二百五十戒などといわれる、

諸々の禁止事項だけが説かれているものではありません。

「~してはならない」という禁止事項だけではなく、

「~しなければならない」といった、

行為や行事に関する規定も数多く説かれています。

 

律蔵は、中国・日本の律宗の伝統的解釈に従うならば、

律蔵は、止持戒[しじかい]と「作持戒[さじかい]

と二部構成になっています。

 

また、南方の分別説部(上座部)が伝持してきた「パーリ律」の

分類法によれば、経分別[きょうふんべつ]

(波羅夷+波逸提)と犍度部[けんどぶ](大品+小品) 、

付随部[ふずいぶ]との三部構成(あるいは五本構成)となっています。

 

二百五十戒などといわれる、律の250ヶ条の禁止事項がまとめて

説かれているのは、止持戒または経分別といわれる箇所です。

 

止持戒(経分別)では、250ヶ条の禁止事項が、

八つのカテゴリー毎に僧侶としての規定がなされています。

 

これは罪の軽重ごとに大きくは5種、細かくは7つに分類されます。

そして、それら禁止事項の一々が、一体なぜ制定されたか、

それを犯した場合はどのような処罰が下されるか、

例外となるのはどのような場合か、などが詳細に説かれています。

(詳細は”律蔵の構成”を参照のこと。)

 

彼は大切に​​する価値のある、時宜にかなった、合理的な、限定された、

目的に関連した言葉を話します。

 

在家の人々のための正しい行為と正しい言葉についての詳細

 

彼は官能的な不品行を捨て、官能的な不品行を控えます。

 

彼は、母親、父親、兄弟、姉妹、親戚、またはダルマによって保護されている人々、

夫がいる人々、罰を伴う人々、または他の男性によって花の冠をかぶせられた人々と

性的に関係を持ちません。

 

彼は虚言を捨て、虚言を慎みます。

 

町の集会、グループの集会、親族やギルド、

王族の集まり(つまり、王室の法廷手続き)に呼ばれ、

証人として「善人よ、あなたが知っていることを話しなさい」と尋ねられた場合、

知らない場合は「知りません」と言います。

 

知っている場合は「知っています」と言います。

 

見ていない場合は「見ていません」と言います。

見ている場合は「見ました」と言います。

 

このように、彼は自分の利益のために、他人のために、

または何らかの報酬のために意識的に嘘をつくことはありません。

 

ヴィサカ:八正道は複合的なものですか、それとも非複合的なものですか?


シスター・ダンマディンナ:八正道は複合的です。


ヴィサカ : 

では、三蘊( さんうん )(徳、集中、識別)は八正道に含まれるのでしょうか、

それとも八正道は三蘊に含まれるのでしょうか。


ダンマディンナ姉妹 : 

三蘊は八正道には含まれませんが、八正道は三蘊に含まれます。

正しい言葉、正しい行い、正しい生活は徳の蘊( 物事の奥底 )に含まれます。

 

正しい精進、正しい注意、正しい集中は集中の蘊に含まれます。

正しい見解と正しい決意は識別の蘊に含まれます。

 

比丘たちよ、聖なる正定とその支え、必要な条件とは何でしょうか。

 

正見、正決、正語、正行、正生、正精進、正念の七つの要素を備えた心の一心は、

聖なる正定とその支え、必要な条件と呼ばれます。

 

その中で、正見は先駆けです。

 

では、正見はどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

人は間違った見方を間違った見方として、正しい見方を正しい見方として見分けます。

これがその人の正しい見方です。

 

では、間違った見方とは何でしょうか。

 

「何も与えられず、何も捧げられず、何も犠牲にされない。

 善行や悪行の果実や結果はない。

 この世はなく、来世はなく、母も父もなく、自発的に生まれ変わる生き物はなく、

 正しく行動し、正しく修行し、直接自分自身で知り、悟った後に、

 この世と来世を宣言する僧侶や瞑想者もいない。」

 これは間違った見方です。

 

では、正見とは何でしょうか。

 

正見には二種類あると私はあなたに言います。

 

流出を伴う正見があり、功徳に味方し、獲得をもたらします。

 

そして、流出を伴わず、超越的で、道の要素である崇高な正見があります。

 

では、流出があり、功徳に伴って、結果が獲得される正しい見解とは何でしょうか。

 

「与えるもの、捧げるもの、犠牲となるもの。

 善行と悪行の果報と結果。

 この世とあの世。

 母と父。

 自発的に生まれ変わる存在。

 正しい行いと修行を積んだ僧侶と瞑想者は、自分自身で直接知り悟った後、

 この世とあの世を宣言します。」

 これが流出があり、功徳に伴って、結果が獲得される正しい見解です。

 

では、流出のない、超越的な、道の要素である正見とは何でしょうか。

 

それは、悟りの要素としての識別力、識別力、識別力の強さ、

資質の分析であり、心が高貴で、流出のない、

高貴な道を完全に備えた人が高貴な道を発展させる際の正見の道の要素です。

 

これが、流出のない、超越的な、道の要素である正見です。

 

人は誤った見解を捨てて正しい見解に入ろうと努めます。

これが正しい努力です。

 

人は誤った見解を捨てて正しい見解に入り、そこに留まるように心がけます。

これが正しい気づきです。

 

このように、正しい見解、正しい努力、正しい気づきの 3 つの性質は、

正しい見解の周りを循環します。

それらのうち、正しい見解は先駆けです。

 

では、正しい見解はどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

間違った決意は間違った決意として、正しい決意は正しい決意として識別されます。

 

では、間違った決意とは何でしょうか。

 

それは、官能、悪意、有害性に決意することです。

これが間違った決意です。

 

では、正しい決意とは何でしょうか。

 

正しい決意には 2 種類あります。

流出を伴う正しい決意があり、功徳に味方し、獲得をもたらします。

また、流出を伴わず、超越的で、道の要素となる崇高な正しい決意もあります。

 

では、流出があり、功徳に味方し、獲得に結果する正しい決意とは何でしょうか?

 

放棄、悪意からの解放、無害に決意することです。

これが流出があり、功徳に味方し、獲得に結果する正しい決意です。

 

では、流出のない、超越的な、道の要素である正しい決意とは何でしょうか? 

 

心が気高く、流出のない、完全に気高い道に通じた人が気高い道を開拓する際の、

思考、指向された思考、決意、精神の没入、精神の固定、集中した認識、

言葉による捏造。

これが流出のない、超越的な、道の要素である正しい決意です。

 

人は間違った決意を捨てて正しい決意に入ろうとします。

これがその人の正しい努力です。

人は間違った決意を捨てて正しい決意に入り、そこに留まるように注意します。

これがその人の正しい気づきです。

このように、正しい見解、正しい努力、正しい気づきのこの3つの性質は、

正しい決意の周りを循環します。

 

それらの中で、正しい見解は先駆けです。

 

では、正しい見解がどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

人は間違った言葉を間違った言葉として、正しい言葉を正しい言葉として見分けます。

 

では、間違った言葉とは何でしょうか。

 

嘘、分裂的な噂話、悪口、無駄話。

これらが間違った言葉です。

 

では、正しい言葉とは何でしょうか。

 

正しい言葉には二種類あるとあなたに言うが、一つは流出を伴う、

功徳につながり、獲得をもたらす正しい言葉です。

 

もう一つは、流出を伴わず、超越的で、道の要素となる高貴な正しい言葉です。

 

では、流出があり、功徳があり、獲得につながる正しい言葉とは何でしょうか。

 

それは、嘘をつかず、分裂を招くような噂をせず、悪口を言ったり、

無駄なおしゃべりをしないことです。

 

これが流出があり、功徳があり、獲得につながる正しい言葉です。

 

では、流出のない、超越的な、道の要素である正しい言葉とは何でしょうか?

 

心が高貴で、流出のない、完全に高貴な道を身につけた人が、

言葉の不品行の4つの形を控え、やめ、節制し、回避することです。

 

これが、流出のない、超越的な、道の要素である正しい言葉です。

人は間違った言葉を捨てて正しい言葉を口にしようと努めます。

これが正しい努力です。

 

人は間違った言葉を捨てて正しい言葉を口にしようと心がけます。

これが正しい気づきです。

 

このように、正しい見解、正しい努力、正しい気づきの三つの性質は、

正しい言葉を中心に回っています。

 

それらのうち、正しい見解は先駆けです。

 

では、正しい見解はどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

人は間違った行為を間違った行為として、正しい行為を正しい行為として見極めます。

 

では、間違った行為とは何でしょうか。

 

殺人、与えられていないものを奪うこと、不法な性行為。

これらが間違った行為です。

 

では、正しい行いとは何でしょうか。

 

正しい行いには 2 種類あると私はあなたに言います。

流出を伴う、功徳を伴う、獲得をもたらす正しい行いがあります。

そして、流出を伴わず、超越的で、道の要素となる、

気高い正しい行いがあります。

 

では、流出があり、功徳があり、獲得につながる正しい行為とは何でしょうか。

 

殺生を慎み、与えられていないものを取らず、不法な性交を避けることです。

これが流出があり、功徳があり、獲得につながる正しい行為です。

 

では、流出がなく、超越的で、道の要素である正しい行為とは何でしょうか? 

 

心が高貴で、流出がなく、完全に高貴な道を身につけた人が、

身体の不品行の3つの形態を控え、やめ、節制し、回避することです。

これが、流出がなく、超越的で、道の要素である正しい行為です。

 

人は間違った行為を捨てて正しい行為に入ろうとします。

これがその人の正しい努力です。

 

人は間違った行為を捨てて正しい行為に入り、そこに留まるように注意を払います。

これがその人の正しい気づきです。

 

このように、正しい見解、正しい努力、正しい気づきのこの 3 つの性質は、

正しい行為の周りを循環します。

その中で、正しい見解は先駆けです。

 

では、正しい見解がどうして先駆けとなるのでしょうか?

 

間違った生き方は間違った生き方として、

正しい生き方は正しい生き方として見分けます。

 

では、間違った生き方とは何でしょうか?

 

陰謀、説得、ほのめかし、貶め、そして利益をもって利益を追求することです。

これは間違った生き方です。

 

では、正しい生き方とは何でしょうか。

 

正しい生き方には二種類あると私はあなたに言います。

流出を伴う、功徳を伴う、獲得をもたらす正しい生き方と、

流出を伴わず、超越的で、道の要素である崇高な正しい生き方があります。

 

では、流出があり、功徳があり、結果的に獲得する正しい生き方とは何でしょうか。

 

高貴な弟子が間違った生き方を捨てて、

正しい生き方で生活を維持する場合があります。

これが流出があり、功徳があり、結果的に獲得する正しい生き方です。

 

では、流出物がなく、超越的で、道の要素である正しい生き方とは何でしょうか? 

 

心が高貴で、流出物がなく、完全に高貴な道を身につけた人が、

高貴な道を発展させるときに、誤った生き方を控え、やめ、禁欲し、

回避することです。

これが、流出物がなく、超越的で、道の要素である正しい生き方です。

 

人は間違った生き方を捨てて正しい生き方に入ろうと努めます。

これが正しい努力です。

人は間違った生き方を捨てて正しい生き方に入り、そこに留まるように心がけます。

これが正しい気づきです。

 

このように、正しい見解、正しい努力、正しい気づきのこの3つの性質は、

正しい生き方の周りを循環します。

それらのうち、正見は先駆けです。

 

では、正見はどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

正見があれば、正決心が生まれます。

正決心があれば、正語が生まれます。

正語があれば、正行が生まれます。

正行があれば、正生が生まれます。

正生があれば、正精進が生まれます。

正精進があれば、正念が生まれます。

正念があれば、正集中が生まれます。

正集中があれば、正知識が生まれます。

正知識があれば、正放が生まれます。

 

このように、修行者には八つの要素が備わっており、

阿羅漢には十の要素が備わっているのです。

それらのうち、正見は先駆けです。

 

では、正見はどのようにして先駆けとなるのでしょうか。

 

正見の一つにおいて、誤った見解は廃止されます。

 

誤った見解を条件として作用する多くの悪、不道徳な性質も廃止され、

一方、正見を条件とする多くの善良な性質は、その発展の頂点に向かいます。

(残りの要素までも同様です。)

 

正放の一つにおいて、誤った放は廃止されます。

誤った放を条件として作用する多くの悪、不道徳な性質も廃止され、

一方、正放を条件とする多くの善良な性質は、その発展の頂点に向かいます。

 

仏陀 : 「流れ、流れ」と言われます。

 

では、流れとは何でしょうか?

 

舎利弗 : この聖なる八正道こそが流れです。

 

正しい見解、

正しい決意、

正しい言葉、

正しい行い、

正しい生活、

正しい精進、

正しい注意、

正しい集中です。

 

仏陀:よく言った、舎利弗よ、よく言った。

 

この崇高な八正道こそが流れです……

「流れを得る者、流れを得る者」と言われています。

 

では、ストリームウィナー( 勝流者 )とは何でしょうか?

 

舎利弗:この崇高な八正道を授かった者は「勝流者」と呼ばれます。

 

仏陀:よく言った、舎利弗よ、よく言った。

 

この崇高な八正道を授かった者は「勝流者」と呼ばれます。

 

比丘たちよ、台のない鍋は簡単に倒れ、台のある鍋は倒れにくいのと同じように、

台のない心も倒れやすく、台のある心は倒れにくい。

 

では心の台とは何でしょうか?

 

この崇高な八正道です。

狙いを定めた麦穂や大麦穂を手や足で押すと、手や足に切り込み、

血が出る可能性があります。

 

それはなぜでしょうか。

 

穂が狙いを定めているからです。

 

同様に、自分の見解が狙いを定め、自分の道の発展が狙いを定めていれば、

無明を切り開き、明確な認識をもたらし、解脱を悟ることができます。

 

それはなぜでしょうか。

 

それは自分の見解が狙いを定めているからです。

 

では、どのように的を絞った見解と的を絞った道の発展は無明を切り開き、

明晰な認識を生じ、解脱の悟りに至るのでしょうか。

 

僧侶が、隠遁に依存し、無執着に依存し、止に依存し、

結果として手放すことになる正しい見解を発展させる場合があります。

 

彼は、

正しい決意...

正しい言葉...

正しい行為...

正しい生活...

正しい精進...

正しい注意...

正しい集中を、

隠遁に依存し、無執着...止に依存し、結果として手放すことになります。

 

このように、的を絞った見解と的を絞った道の発展は、無明を切り開き、

明晰な認識を生じ、解脱の悟りに至るのです。

 

空中には、東風、西風、北風、南風、埃っぽい風、埃のない風、冷たい風、

暖かい風、穏やかな風、強い風など、さまざまな風が吹くのと同じように、

修行僧が八正道を修行し、八正道を追求すると、四つの基準枠、四つの正しい努力、

四つの力の基盤、五つの能力、五つの強さ、

七つの覚醒要素が、その発展の頂点に達します。

 

目が実際に存在していることを知り、見ること、

形...眼意識...眼との接触が実際に存在していることを知り、見ること、

眼との接触によって条件付けされて生じるもの

(快、苦痛、または快でも苦痛でもないものとして経験されるもの)

実際に存在していることを知り、見ることで、

人は目に夢中にならない...形...眼意識...眼との接触...眼との接触によって

条件付けされて生じるもの

(快、苦痛、または快でも苦痛でもないものとして経験されるもの)

実際に存在していることを知り、見ること...

耳を知って見る...鼻を知って見る...舌を知って見る...体を知って見る...

知性をあるがままに知り、見ること、観念...知性意識...

知性接触をあるがままに知り、見ること、知性接触によって条件付けられて生じ、

快楽、苦痛、または快楽でも苦痛でもないものとして経験される

あらゆるものをあるがままに知り、見ることで、

人は知性...観念...知性意識...知性接触...知性接触によって条件付けられて生じ、

快楽、苦痛、または快楽でも苦痛でもないものとして経験されるあらゆるものに

夢中になることはありません。

 

彼にとって、夢中にならない、執着しない、混乱しない、

それぞれの欠点に集中し続けることで、五蘊は将来減少する方向に向かいます。

 

情熱と歓喜を伴い、今あれこれと楽しむ、さらなる成長をもたらす渇望は、

彼によって放棄されます。

 

彼の身体の不調と精神の不調は放棄されます。

彼の身体の苦痛と精神の苦痛は放棄されます。

彼の身体の苦悩と精神の苦悩は放棄されます。

彼は身体の安らぎと意識の安らぎの両方に敏感です。

 

このような状態になった人の見解はどれも、その人の正しい見解です。

決意はどれも、その人の正しい決意です。

努力は、その人の正しい努力です。

気配りは、その人の正しい気配りです。

集中は、その人の正しい集中です。

 

ちょうど、以前にその人の行為、言葉、

生活がすでに十分に浄化されていたのと同じです。

 

このようにして、八正道を発達させた人にとって、四つの基準枠は、

その発達の頂点に達します。

 

四つの正しい努力...四つの力の基盤...五つの能力...五つの強さ...

覚醒の七つの要素は、その発達の頂点に達します。

 

[そして]彼にとって、静けさと洞察という二つの性質が同時に生じます。

 

彼は、

直接の知識によって理解されるべきあらゆる性質を直接の知識によって理解し、

直接の知識によって放棄されるべきあらゆる性質を直接の知識によって放棄し、

直接の知識によって実現されるべきあらゆる性質を直接の知識によって実現し、

直接の知識によって発展されるべきあらゆる性質を直接の知識によって発展させます。

 

では、直接的な知識によって理解されるべき性質とは何でしょうか? 

 

「執着/維持の五つの集合」が答えであるべきです。 

 

どの五つでしょうか? 

 

執着/維持の集合体としての色... 感覚... 知覚... 作り物... 

執着/維持の集合体としての意識...

 

では、直接的な知識を通じて捨て去るべき性質は何でしょうか? 

 

無知と、成りたいという渇望です...

 

では、直接的な知識を通じてどのような資質が養われるのでしょうか? 

 

それは、平静さと洞察力です...

 

では、直接的な知識を通じて実現される性質は何でしょうか? 

 

明確な認識と解放です...

 

東から西から北から南から人々が住み着く客屋があるように、

高貴な戦士がそこに住み着き、バラモン、平民、家臣がそこに住み着きます。

 

同様に、僧侶が八正道を修行し、八正道を追求するとき、

彼は直接の知識によって理解されるべきすべての性質を直接の知識によって理解し、

直接の知識によって放棄されるべきすべての性質を直接の知識によって放棄し、

直接の知識によって実現されるべきすべての性質を直接の知識によって実現し、

直接の知識によって開発されるべきすべての性質を直接の知識によって開発します。

 

「ある人が道を旅している途中で、広大な水域にたどり着いたとしよう。

近くの岸は危険で危ないが、向こう岸は安全で危険はない。

しかし、この岸から向こう岸へ渡る渡し船も橋もない。」

 

彼はこう考えるだろう。

 

「ここには広大な水域がある。

近くの岸は危険で危ないが、向こう岸は安全で危険はない。

しかし、この岸から向こう岸へ渡る渡し船も橋もない。

草、小枝、枝、葉を集めて束ねていかだを作り、

そのいかだに頼って手足を動かして向こう岸へ

安全に渡れたらどうなるだろうか。」

 

そして、男は草、小枝、枝、葉を集め、それらを束ねていかだを作り、

そのいかだに頼りながら手足を動かして向こう岸に無事に渡る。

向こう岸に渡った後、彼はこう思うかもしれない。

 

「このいかだは私にとってなんと役に立ったことだろう。

このいかだに頼りながら手足を動かして向こう岸に無事に渡れたのだから。

頭に載せたり背負ったりして、好きなところに行けたらいいのに。」

 

修行僧たちよ、どう思うか。

その男は、そのようにすることで、

いかだに対してなすべきことをしているだろうか。

 

「いいえ、主よ」

 

「そして、いかだでなすべきことをするために、人は何をすべきか。

人が渡ったあとで、このいかだは私にとってなんと役に立ったことか。

 

このいかだのおかげで、手足を動かして向こう岸まで無事に渡れたのだから、

陸地を引きずったり、水に沈めたりして、好きなところに行けたらいいのに」と

思うことがある。

 

そうすることで、いかだでなすべきことをしていることになる。

比丘たちよ、私はあなたたちにダルマをいかだのように教えた。

それは、つかまるためではなく、渡るためである。

 

ダルマがいかだのようなものだと知っていれば、

そうでないものは言うまでもなく、[善い]性質さえも手放すべきである。」

 

ダルマはヒンズー教、仏教、ヨガの重要な概念であり、

宇宙を支配する法則または原理を指します。

個人がダルマを実践するということは、この法則に従って行動することです。

ダルマは僧伽と仏陀とともに仏教の三宝の 1 つと考えられており、

共に悟りへの道を切り開きます。

広大な水は、四つの洪水を表しています。

 

官能の洪水、生成の洪水、見解の洪水、無知の洪水です。

 

疑わしく危険な近岸は、自己同一性を表しています。

 

安全でリスクのない遠岸は、解放を表しています。

 

いかだは、正見...正集中というこの崇高な八正道を表しています。

 

手足で努力することは、粘り強さの覚醒を表しています。