この世の中には、神の選びというものが存在し、普通の人よりも、時計の針が早く進む、という人がいる。そのような人は、試練が、ひっきりなしに訪れ、息をつく暇もないほどである。しかし、普通の場合は試練も休み休み、訪れ、苦しまなければいけないと言っても、強力な神の保護下に置かれているために、信仰の道が世俗の道よりも安易なものであることも、珍しくない。一度、神から選ばれてしまうと、途端に人生が厄介なものになるが、それには理由がある。というのも、このように、神から選ばれた人の使命は、試練によって悔い改め、砕かれた心に神の祝福を注ぐことにあるからだ。だから、そのような慰めの子は、あらゆる人よりも重い試練で鍛えられ、試練に苦しむ人に対して十分な同情と、その人の絶えることのない苦情に対する無限の忍耐をも持たねばならないからである。普通の場合、試練に苦しむ人の苦情を聞き続けていられる人というものは存外に少ない。

 通常、ある人の仕事が、そのまま使命になることもままあるが、神から選ばれた人の場合は、必ずしも、そうとは言い切れない。そのような人も、生活のために働かざる得ないものなので、何らかの職業にはついてはいるだろうが、その人の本当の仕事は別の所にあるのだ。

 試練によって、悔い改め、砕かれた心に、神の力が宿る時、最も偉大な人間の型が出来る。それは、宗教なしでは考えられない程の非凡な道徳性であり、自分の弱さに絶望していながら、その弱さに働く神の力に対する信頼によって、謙遜でありながら、神の力が漲っていることさえ稀ではない。普通、悪人ではないにしろ、自分の敵までも愛するような非凡なまでの善人であることは珍しく、そこまでの道徳性を求める生き方というものは俗世間の価値観ではない。

 結局の所、自分の自我の大敗北という試練を受けなかった人というのは、大成出来ないものなのだ。三浦綾子や内村鑑三、はたまたドストエフスキーといったキリスト教の著述家達も、彼らの人生の中で、大なる苦しみの経験が無かったならば、彼らの大文学も、また存在しなかったことだろう。

 神は常に苦しむ者の味方であり、試練に悩める人に、神の慈愛を説き、神に対する信仰心を芽生えさせていく、ということが信仰者の本来の仕事であろう。だから、悩み苦しまない人に、いくら、十字架の福音を説いても無駄なのだ。だから、どれだけ伝道に励んだとしても、神が同時に働いてくれなかったとすれば、その伝道も全て徒労になるだろう。

 キリスト教の大文学者達の様な労作を生むことが出来なかったとしても、内村鑑三が後世への最大遺物として挙げた、その人の生涯そのものによって伝道を果たすということは、寝たきりになり、全く仕事の出来ない体になったとしても可能なことである。また、そのような使命が課せられる人は、あらゆる宗教、哲学、思想をも理解出来る知恵をも与えられながら、また同時に、自分の頭の悪さ加減に嫌気が差しているという状態すらある。というのは、そのような人は、まったく単純な人であって、真理は聖書におけるキリストの言葉によって表されていると考える人で、人生に対する意味について、何ら深遠な哲学を必要としない人なのである。

 苦しみに悩む人を、少しでも神に近づけることが出来れば、その人の仕事は果たされたのである。これ以外のことは、ほとんど価値がないと言っても過言ではないかもしれない。神に近づくことは常に良い事であり、神から離れることは常に悪いことである。

 

  最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。世の中には善人ではあるけれども、完全な善にまでは徹しきれない人は数多いと思います。(例えば、十字架の刑に遭っていたキリストが、自分を迫害するものに、罪の赦しを願ったような)この状況を改善するには、悔い改め、砕かれた心が、神の力によって、再び再生し、新生することにしかないように思えるのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、宗教に答えを見出すことが出来なかった人は、人生の中に答えはない、という懐疑主義に陥っているのかもしれません。一度、子供のような心に立ち戻って、ひねくれ、ささくれだった心を労わることが必要なのかもしれません。それでは、今回はこの辺で、筆を置きたいと思います。それでは、またお会いしましょう。お元気で。