一日の生活において、その時間の割り当ては、睡眠に八時間、食事などの雑多な時間に三時間、読書に三時間、仕事及び闘病に八時間、生活の薬味としての享楽に一時間、友人などの交際に一時間はかかるとして、読書の割合が比較的多い。果たして読書に、それだけの時間を投資するだけの価値があるだろうか、また、どうしても読書が出来ないという人を、ここで見捨てるべきだろうか。

 例えば、古典的な大作としてシェイクスピアやプラトンの対話篇があるが、これらの著者の本を残らず、全部読むというのは、時間がかかりすぎる、と私は考える。(勿論、それだけの時間をかけるの値すると考える人もいることは承知の事として)シェイクスピアだったら、『ヴェニスの商人』や『リア王』、プラトンなら『饗宴』や『ソクラテスの弁明』辺りを読むだけでも十分だと考える。(この選択は勿論、独断と偏見である)なら、哲学なら、どうか。これもバートランド・ラッセルは、その著書『哲学入門』で、「私のしている学問は、科学が達成してきたような積極的な結果を何も成し遂げなかった」(1)と述べている。

 結局の所、何も批判せずに、全てに同意できるような書物は、聖書とカール・ヒルティとトマス・ア・ケンピスのみであったし、何の害もなく、道徳において貢献してくれた文学者はヴィクトル・ユーゴーと三浦綾子とトルストイくらいしかいなかった。ヒルティの座右の書であった、ダンテの『神曲』も、詩聖ダンテの独断と偏見による、当時の有名な人に与えた評価を知るくらいの意味でしかなかった。(神曲は三つの訳を読み、また、神曲についての講義の本も読んで研究したが、こんな貧弱な感想しか出てこなかった。講義をしている訳者の、詩聖ダンテの高尚な文学として見るのではなく、あくまで大いに私情を挟んだ、ダンテの人間味溢れる面を注目して読むべきである、と主張しているが、全くの同感である)

 だから、読書をすることが出来ないという人は、牧師様に福音書におけるキリストの言葉だけを教えてもらうだけでも良いのではないかと、私は考える。試練によって、十分に練られた人間ならば、読書は不要である、とすら言っても良いのではないか、と剣呑な意見を私は持っている。

 良い読書は人生の導き手になってくれるであろうが、実際の人生経験の代わりにはならないのである。そして、時間は有限である。その時間を何に使うかという話になれば、ヒルティならば仕事(人に貢献することで、神に対する奉仕になると考えて)と答えるであろうし、古代のギリシャ・ローマの哲人ならば、有益な思索に使うべきであると、答えるだろう。

 私個人は、読書をすることが幸いにも苦ではなかったので、読書に費やす時間が人よりも多いと考えるが、そのような読書が出来ないという人のことも、十分に考慮しなければならない、と考えている。また、哲学や文学は難解なものも多く、軽い小説のようなものなら読めるが、哲学書や宗教書、純文学などは敷居が高いと考える人も多いだろう。

 人生の目的は、内村鑑三の言う通り「神を知る」ことにあると、私も思うが、読書は、そのための補助器具であって、肝心なことは自分自身で経験しなければ、この目的に到達出来ないであろうし、また、何事も身に付かないと、私は考える。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は、ショーペンハウアーが、その著作『読書について』で述べたような読書批判になってしまいました。かといって、僕は読書の価値を否定するわけではなくて、読書の出来ない人であっても、神の御心を行うことは出来ると考えたのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、読書については、また何か書こうと考えていますが、実際書くかどうかは分かりません。今回は僕の読書をした上での雑多な感想でしたが、僕は、この教養というものを過大視しません。必要とあらば、それらの教養を抜きにして、自分自身の考えたことを表明しなければならない、と思っています。それでは皆さん、また、お会いしましょう。お元気で。

 

 

(1) バートランド・ラッセル 高村夏輝訳 『哲学入門』