何故、数ある宗教の中でキリスト教でなければいけないのか。仏教も生きとし生ける者に対する慈悲が根幹であるし、儒教も単純素朴な高度な道徳である。しかし、人の性質の中で最も重要なものは謙遜である。つまり、キリスト教徒とは、自分の力を全く信頼出来ず、仏教や儒教のように誇りを持って堂々と生きることが出来ない人達なのである。この謙遜の生み出すものは、常軌を逸した倫理的道徳観であり、つまり、神の掟を忠実に守ることなのである。

 また、成長についても具体的な提示が為されているのも、恐らくキリスト教だけである。(仏教にも修行という観念はあるが)仏教は悟った人は、こう考える、儒教は君子は、こう考える、という価値観を提示するだけで、如何にして、その境地に到達するかまでは曖昧なのである。(語られていないわけではないからだ)キリスト教では、どうなのか、と問われると、その答えは苦しみである。人間は苦しむことによってでしか道徳的に成長出来ない。聖書では単純に己の十字架を背負いなさい、と述べられ、トマス・ア・ケンピスが、その著作の中で十字架の道を具体的に提示した。(また、ジョン・バニヤンも、その著作、『天路歴程』の中で、キリスト教徒が辿る内的生活についての過程を見事に描いている)

 この苦しみというものは具体的に何なのかと言えば、不眠のような慢性的な疾患である。(ヒルティも不眠には多いに苦しめられた)こうした慢性的な疾患は、苦しみの中の最大のものではないが、長く続くために喉元過ぎれば熱さを忘れるようなことがない。二晩三晩、不眠が続くだけで、人間の体に絶対必要な睡眠が取れず、非常に苦しむことになるばかりか、下手に睡眠薬に頼ると、その薬に依存してしまい、薬なしでは寝れないという体にもなってしまう。

 また、キリスト教的な苦しみの中で非常に多いのが、長い入院生活や投獄である。これは非常に苦しいばかりか、長期に渡ると社会的に抹殺されてしまうこともある。(しかし、ヒルティは、このような人生の裂け目は、キリスト教がよく繁茂する土壌になる、と主張していて、つまり、長い目で見れば良い事なのだという見解を示している)しかし、このような状態に陥ったとしても、再び仕事をすることが出来るようになることも稀ではないことである。

 身体的な慢性疾患や精神的な疾患によって、働くことすら出来ないこともあるが、その場合は、高齢によってであって、その人の、この世での仕事はもう終わってしまったのである。まだ若い人なら、仕事に復帰する見込みは十分にある。その場合も、初めから指導する立場ではなくて、仕えるものとして働き、上司や同僚から信頼を勝ち得て、出来る仕事を、無理せずに自分のペースで増やしていけばいいのである。そうして、忙しくしていれば、神が折を見て、その人に相応しい天職を与えてくれるであろう。恐らく、この天職が、その人の生まれたきた理由である使命に繋がると考えられる。

 しかし、このようなキリスト者達は、こうした書き物をするのに適しているとは言い難い。彼らは極めて単純であって、自分のことを頭が良いなどとはゆめゆめ思わず、自分にしてもらいたいことを人にしなさい、や、隣人を自分のように愛しなさい、や、悪に対して善で報いなさい、という教えを忠実に守り、また同時に神を愛しているだけなのだ。彼らに求められていることはミカ書6・8に書かれているような単純なことなのである。該当箇所は「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって あなたの神とともに歩むことではないか」(1)である。

 そもそも真理というものは、単純なものであり、ヒルティが提唱した、親孝行者は一生涯、祝福を受けるというような、なんらアカデミック的なものを含まないものなのである。キリスト者は、つまり、思弁するためではなくて、行動するために生きたのである。中には文才のある人もいようが、それは稀な例であろう。(私などは平凡な書き手に過ぎない)幅広い読書によって、教養を持ち合わせたキリスト者もいるであろうが、聖徒となる上で必須な条件だとは思われない。むしろ、彼らは人格者というよりも聖者とも呼ばれかねない高尚な道徳の方を求められているのである。

 私は自分自身の余りの弱さによって、キリスト教を選ばざるえなかったのであるが他宗教もキリスト教と変わらず良いものだと考えている。私自身は誇りと自信を持って、この世を渡っていきたいと考えていた若者だったので、そのような生き方が出来る人を私は応援したいと考えている。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。最近は儒教関連の読み物をすることが多く、(渋沢栄一もお札の顔になりましたしね)他宗教のことも少しは勉強したいな、と考えています。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、キリスト教はなんといっても、相当、苦しく、生存が困難になるまで追い詰められないと、その人にとって生きた信仰にはならない、という側面があります。普通は、まともな常識を持った一般人であるだけよいのですが、この宗教は聖徒であることを求めます。幸福になるというよりも、神に従った生活は、また幸福でもある、という二義的な意味合いでしかないのかな、と個人的には思います。(客観的に考えると幸福になることも、人生の目的と言えるかもしれませんが、僕の人生経験とは合致しません)それでは皆さん、またお会いしましょう。お元気で。

 

(1) 聖書 新改訳