まず初めに断っておくと、私はニーチェの学者ではない。その著作も『道徳の系譜学』、『善悪の彼岸』、『ツァラトゥストラはこう言った』、『この人を見よ』の四作しか読んではいない。しかし、その上で彼の思想を探ってみたい。彼は、既存の奴隷道徳とも言えるキリスト教道徳を一切否定して、その代わりとなる価値観を樹立しようと試みた。それは、現代社会の中で自分の力を発揮して活躍する超人思想が、まず語られ、その上で未完の作品である『力への意志』で新たな価値観を提示しようとした。しかし、この価値観の構築の過程で彼は狂気に陥り、キリスト教に代わる新たな価値観の樹立は出来なかったと見るのが妥当であるか、また、もう構築されていた超人道徳がそれである、という考えも出来るだろう。

 自分の価値を否定し誇りを放擲し、神のみに縋る心の貧しい人達、彼らのような一般的キリスト教徒をニーチェはどう見ていたのだろうか。自分の哲学を放擲し、真理は聖書のみに存在すると考える思考停止する人々の群れ、自己の生を肯定し、社会で活躍する強者の道徳を説いたニーチェにとって、敬虔なキリスト教徒などは奴隷であることを肯定し、自分の考えを放擲した思考停止者のそれに映ったのではないだろうか。

 老いた人も若い人も美しい人も醜い人も、真摯に人間を観察するならば、全ての人間は惨めで愚かである。この思想は真理を穿ったものだと考えているが、人間に価値を見出し、人間賛歌を謳おうとする人にとっては、この思想は直視に耐えないものであるだろう。ニーチェの主要な思想が生の肯定だったとするならば、現世の生活をあくまで軽んじるキリスト教道徳は唾棄するものに映ったのであろうか。

 ヒルティはニーチェの才能を高く買っていたが、その余りある才能に比べて脆弱な人間ではなかったか、と彼を批判している。ニーチェは強者の道徳を説いたが、彼自身は晩年は多くの人の手を借りなければいけなくなった。私のニーチェの言葉の中で、一番好きなものは、生存の困難さが、その人の価値である、という『この人を見よ』の一節である。この文章からも伺える通り、彼の人生は順風満帆なものではなかった。著作を世間に公表した時には、全く相手にされず、ようやく真価が認められた時には、もう狂気は始まっていた。

 自分の力で受験戦争を勝ち抜いたり、スポーツの分野で優秀な成績を残したことがある人は、キリスト教の持つ、自分の誇りを否定する心理が理解出来ない。また、自分の優れた特性は、自分の手柄ではなくて、全て神からの恩寵であるということなどは、ますます理解出来ない。ニーチェは、このようなキリスト教徒の心理を喝破し、自分自身を否定する状態で満足する、この心理を、自己軽蔑者の誇りと呼んでいた。

 しかし、ニーチェの活動は未完成なものだった。ヒルティの唱える倫理的世界秩序に反抗したためだったかどうかは分からないが彼の働きは十分なものではなかった。しかし、それでも彼についていくべきだろうか、彼の陥った狂気にまでも? 才能の稲妻が迸ったかのような彼の文体は、教養ある知識人を満足させてきた。この世で活躍し、自分の生を肯定し、自分自身を表現する価値観は、努力を持って、実社会で活躍しなさい、という現代の思想に沿うものだったのかもしれない。「神は死んだ」という強烈なフレーズで脱宗教のスローガンとして利用されてしまった感のあるニーチェだが、私自身も把握出来てない彼の稲妻のような思想は数多の若者を惹きつけるものがあるのかもしれない。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は独断と偏見による素人のニーチェ論です。深く勉強したわけでもないですし、何か反論されたら、上手く答えることも出来ないと思います。それでも、ニーチェ論などを書いたのは何故だったのか、それは彼の読み物が単純に面白かったからなのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、このブログはキリスト関連の人が多いのでニーチェのことをよく思わない人も多いと思います。ヒルティもその一人でした。しかし、彼はニーチェの才能を高く買っており、自分の著作の中でも度々、引用していました。今回の論文は異色作となりました。何か批判があるのであれば、真摯に聞きたいと思っております。多分、しどろもどろになってしまうでしょうが。それでは皆さん、またお会いしましょう。お元気で。