それを持つことによって、大きく自信を持ち、自分を激しく肯定させるものは、通常、与えられないことが多い。例えば、学問がある、スポーツが出来る、立派な仕事がある、などである。自分では特に気にしないものなら、美しい容姿だとか、高邁な教養だとか、信頼出来る友人というものは簡単に手に入るのに、これだけは自分にとって、譲れない、というものは手に入らないのである。神がそうする理由は、その人を高ぶらせないためである。それを持たないことによって、遜るのなら、神は喜んで、そうした賜物を奪うのである。
神からの最大の罰はヒブリス(傲慢)であって、生活の故に傲慢に陥る人は、人生の勝負に負けているのだ。神は、ある人を見捨てると、ちょっとした成功すら与えて、その人のしたいがままにさせることすらある。そのような人は自己満足すら覚えて、神のことなど、少しも気にかけない。神を頑なに否定する、頑迷さは傲慢に次いで、最も大きい神の裁きである。この時、徳を積むといった良いことでも、自分を、その行為で肯定するならば、危ういものになる。聖書では、自分のことは役に立たない僕です、と言いなさい、とまで言っている。
多いに働きたいと思っている人が、病気によって継続した仕事が出来なくなって、自信を喪失してしまうことがある。しかも、ひどい時には、重い後遺症によって直る見込みがない、という場合すらある。しかし、最も交際しやすい人とは、このような、自分の欠点を自覚する人達であって、自信に満ち溢れた有徳の人物ではないのである。
従って、神を愛する者にとっては、この世は味気ないものとなる。聖書では、人の子には枕するところもない、と簡単に述べている。このことは、トマス・ア・ケンピスが、その著作、「キリストにならいて」の中で、繰り返し述べられていることでもある。この状態が恒久的に続くかどうかは、現在の私の段階では判断出来ない。トマス・ア・ケンピスは、このような現世においては死んだ状態になるのは、墓まで続くと述べている。(十字架は、その人が墓に入るまで、その人を鞭打つ)しかし、ヒルティはトマス・ア・ケンピスの主張は、あくまで過渡的段階であり、本当に、この世に満足する段階に、神を愛する者は導かれると主張している。
この時、自分の本当に欲するものが得られない時、(また、それを手にする時に多くの時間がかかる時)それが神の祝福と捉えるかどうかが問題になるのである。パウロも肉体の棘(聖書の表現、肉体的な疾患)を取り去るように、神に何度も祈ったが、その祈りが受け入られることはなかった。
その場合、最低限の生活の保障があるのであれば、希望は来世に置くということになるが、(この世は魂の修行場と考えて)聖書とヒルティが主張することと矛盾してしまう。では、どうすれば良いのかと問われると、この世では試練が避けられないのであるから、その試練を喜ぶ、という段階に至らなければならない。これは、聖書の中の使徒達の手紙である、ペテロ書とヤコブ書に書かれていることと合致する。しかし、これは非常に難事であり、ヒルティも、この事を非常に高度な段階である、と主張している。つまり、試練を喜び、幸福であれ、不幸であれ、神から与えられるものは、全て喜んで受け取るということが口先だけでなく出来るということは、人生の目的の半ばに到達してしまった、とも言えるだろう。
心が砕かれて、悔い改め、遜るということが肝要であり、それを推奨しているのがキリスト教である、とも言える。儒教などでは、自分の行いは天が見てくれているため、天も私を助けてくれるに違いない、という人間の誇りと自信に基礎を置いた道徳だと言える。自信と誇りを持って、人生を歩むか、それとも、自分の力に絶望し神に縋るか、どちらが正しいかは、人から、いくら言葉で語られたとしても判断し難いことであろう。どちらかを選ぶかは、結局の所、自分の人生経験によるしかない。私の場合だったら、もし、人生の中に厳しい試練が無かったならば、神に対する信仰心を持っていただろうが、ショーペンハウアーの唱える天才論に賛同し、人間の知的活動に価値を見出す、仏教や儒教のような人間主義に傾倒していたと思われる。
しかし、完全に正しい道を歩むということは、神からの思し召しがなければ出来ないことである。その方法は、聖書にある「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(1)しかない。また、神は人間に誇らせないために、貶められた人を僕として選んだ、ともある。神は遜る者のみに自分を示すのであり、それ以外の人には、幸福を与えてくれはするだろうけども、この世では、お会いにならないのである。
最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は、自分の望むものは手に入らないという趣旨の論文でしたが、ヒルティの示す見解を参考にすれば、手に入ることは手に入るが、ひどく時間がかかる、という点と、それとは別に、もっと良い物が与えられているのだ、ということになり、祈り求めることは無駄ではないのです。
愛する、愛する、愛する皆様へ、このような祈りには前提条件があります。聖書では、なんでも欲しいものは祈り求めなさい、かなえてあげよう、と、教えられていますが、但し、あなたがキリストと繋がっているならば、というものです。また、まず始めに神の国の義を求めなさい、とも言われています。つまり、あまりにも利己的な願いは聞き届かれない(それでも、強く望むのなら、いくらか聞き届けてもらえるものなのですが)ものみたいなのです。実際、たくさんの人が自分の望むことばかり願っていたら、もし、それを逐一、叶えていたら、世界は大変なことになるでしょう。それでは、今回はこの辺で筆を置きたいと思います。また、お会いしましょう。お元気で。
(1) 聖書 新改訳