我々は何であれ、神から与えられたものは受け取らなくてはならない。それは不幸であったり、上手くいかないことであったり、悲しみや絶望であったりするかもしれない。しかし、これらの試練が与えられるということは、将来、自分のように思い悩む人に対して慰め、励ましてやるという任務が自分に課せられているのだと考えられる。このような試練を受けなかったならば、試練に悩む人を自業自得だと思い、切り捨ててしまうことになりがちである。しかし、これにも故あることで、本人の罪に全く関係しない不幸というものは存外少ない。清く生きた人でも、自分の責任によって招いた不幸は十分考えられるのである。とは言っても、この不幸の中から、人生における収穫を見出し、それを人生において役立たせるように、その人を励ますことが出来る人は、その人と同等、もしくはそれ以上の試練によって鍛えられた人にしか出来ない。
貧困、飢餓、迫害といったものは辛いものである。しかし、神はこれらのことを善用され、このような不幸の中から本当に貴高い人格を生み出そうとしていらっしゃる。つまり、これらの不幸は取り除くものなのではなく、克服するものなのだ。人生の中から負の部分を取り除いてしまうと、人はすぐに軽佻浮薄に陥り、また興味関心も低俗なものに留まってしまう。だから、完全に安心するということはあってはならず、常に憂いを持って、苦しみ続けなければならないのである。
人生において全くの絶望に陥り、自殺の誘惑にすら駆られるということは、一種の神のその人に対する賭けである。(この賭けに負けて、本当に自殺してしまう人もいる)しかし、これらのことを統合して考えると幸福に生きるということは、些事であり、どんな絶望の中にいても生きるということが、人間に委ねられた義務なのである。その苦しみのあまりに自分に手をかけてしまう、ということは私には良く理解出来る。だが、それでもなおかつ生きるということが本当の仕事なのだ。
この世に対しては死んでしまっても一向に構わない。本当の仕事をするのは死後であり、この世においては様々な試練、絶望、苦難によって常に悩まされることが本当の仕事である。この世において最も大切なことは重い病気によって生きる勇気を失った人に、再び生きる勇気を与えること、また、この人生において人間は成長しなければならず、それは、このような不幸によってのみ成し遂げられるものであることを教えることなのである。
人生に対する真剣味の欠如というものが現代の病である。生きることが容易になり、便利になるにつれて、人間は軽佻浮薄に陥っている。人が真面目になるのは痛みであって、それを取り除いてしまうことは、その人のためにはならない。また、この痛みに意味を見出すということが出来なければならない。それが宗教色を離れて出来ることなのかということは私には判断出来ない。それは可能であるかもしれないが宗教の権威に頼る方が容易ではあるということは言えると考える。
また、人間は成長しなければならず、それは常に不幸を通して行われるということが確信になっていなければならない。安逸を貪るということは常に有害であり、悩みや憂いを持つということは常に有益である。そもそも人に生きる指針を与えることが出来るような人は、この世の苦しみという苦しみを味わっていなければならず、また、その経験があるが故に人を励ますことが出来るのである。キリストは病の人であり、人の悲しみを知っていた、という言葉の通りである。
最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。神は自分の身近なものに対してはますます厳格であるとヒルティは言います。強い信仰心を持つと、それに対する試練も苛烈を極めるということです。信仰心を持つということ自体が人生における危険な賭けである、とも言えると思います。
愛する、愛する、愛する皆様へ、僕はヒルティの、自分のイニシアチブで持って始められたことが全てが失敗に終わるということは純粋に神の恵みなのだ、という言葉を意味を噛み締めています。このような思想は深さを与え、単純に恵まれているから成功する、だとか、呪われているから失敗する、という応報思想を乗り越え、不幸であること、また、ままならないことが多いということに何らかの意味を付加するものではないかと思うのです。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。