自分の無価値を認め、また、常に神が正しいと判断することは、生来の人間には持ちえないものなのかもしれない。誰だって自分の努力を認めて欲しいし、自分自身の手によって強くなりたいと思うものである。しかし、こういったものはエゴイズムとして表れ、他人を退け、自分を正しいとする傲慢さを生み出しかねない。

 結局の所、人生とは成長するエゴイズムとそれを否定する信仰との熾烈な争いなのである。このエゴイズムとも言うべき利己主義は主に順境に時に表れ、神に対する信仰は逆境の時に表れる。(ヒルティは、若い時の自己満足(結婚や仕事の成功によって)は神の不興であると言っている)こう考えると不幸というものは恵みであり、善行を為した時に、その報酬が辛い不幸である場合、神はその人を愛しているのである。善行の報酬が幸福ということは十分、考えられることであるが、(無神論者は場合は、ほとんどそうである)それは、神がその人を、まだ認めてはいないのだ。

 信仰心と神に対する愛、これこそが我々が育てていかなければならない事柄であり、また、無限に成長するものである。利己主義に完全に打ち勝ち、神の僕としてエゴイズムを完全に否定すること、これは人生において求められていることであり、人間として成長ということが仮にあるとするならば、これこそがその一つだと考えられるのである。

 そのための信仰慰霊書であるのはトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」である。この本こそが人生における指南書であり、聖書に次いで読まれてきたという古典的名著なのである。しかし、ヒルティは、この本ですら過渡的なものであり、その後の絶対的な幸福というものが、人生の中には存在すると主張している。

 ヒルティによれば、あらゆる不幸は、あまりにも信仰心がなかったために起こったのだと主張している。私が主張したいのは神に対する愛の深さである。神に対する信仰心と愛が十分に両立した時、神は初めて恵みを注ぎたもうのである。その恵みには常に試練が先行し、また試練が完全になくなることもないのであるが、それにも関わらず幸福なのである。

 完全に幸福に至った魂を見ることは神の大きな喜びであり、その後は、神を通して与えられる愛を他の人々に注ぐということが、そのような人の使命であり、その人は愛と平和の使者である。しかし、このように内面的に浄化され、愛と平和が合言葉となる人は極めて稀である。この浄化が為されるのは主に辛い試練の中のみであって、多くの信仰者はあまりにも試練がなさすぎるがために、中途半端な状態に陥っているのである。

 そうなることも出来るのに、神がその手を差し控えていることは、この世界の最大の謎であり、神に忠誠を誓う者すべてが最善の道を歩むわけではない。しかし、神を信じる者は決して見捨てられることはなく、例え凡庸であっても幸福になること自体は可能であろう。しかし、神の選びというものが存在するのではないかという推測が立てられるほど、神の寵愛を受けた者は、その非凡な道徳性を身に付け、その人の周りから愛が徐々に成長していくのである。

 この愛に比べれば、哲学的博識などは無価値に等しく、この愛こそがキリストが言った「地の塩」なのである。しかし、神の寵愛を受けるということは、とても辛いことであり、出来るなら他の人に代わってもらいたいと願うほどなのである。とは言っても、本当の幸福、言い換えれば、神に対する愛の実感はこのような人達にしか感じることは出来ず、福徳円満な老後を得ることが出来るのも、このような人だけである。

 それ以外の人達にとっては、死が近づいてくる無慈悲な使者である老衰に肯定的な意味を見出すことが出来ず、幸福にこの世を送ってきたのに関わらず、最後は悲嘆でもって、この世を終えてしまうのである。平和になった、この時代では神は病気を用いて人を自分の元へと導きたまう。この世に生きている間に断罪されるということは神の大きな恵みであり、その痛みが喉元過ぎれば熱さを忘れるということが無い限り、その人を謙虚にするのである。

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は少し背伸びした内容になりました。不幸の中には幸福の種子が芽吹いているのであり、刹那的な享楽の連続という意味ではない、(多くの人の幸福はこのような娯楽によるものが多い)本質的な幸福な至るためには、不幸を経験することが必要になってくると思うのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、かと言って、僕は信仰については、あろうがなかろうがどちらでも構わないと思っています。ただ一つだけ言えることは神を信じる人は決して見捨てられることはなく、永続的な不幸も、またないでしょう、ということです。また、自分には神なんて必要ない、という人も、誠に結構であり、その人の人生に口出すつもりも毛頭ありません。キリストも言いましたが丈夫な者には医者はいらないのです。宗教を必要としない、ということも尊い選択であり、宗教に頼らず生きていけるのなら、それに越したことはないのです。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。