誰もが幸福に生きたいですよね。しかし、来世において希望がなければ、やがて衰退して死に至るという宿命を持った人間は、やはり絶望して死ぬしかないということになります。死に対して、明確な希望を与えないような哲学は全くもって不要です。では、どうすれば、この世において天国への切符を手に入れたことになるのでしょうか。それは、この世において煉獄の火を通ることで、天国への確信を得るのです。ヒルティは言います。「神を愛する者に少なからぬ苦しみを委ね給う」(1)。苦しみはまさしく委ねられるもの、神に選ばれたことの証明だと言うのです。多くの苦しみによって、自分は神に愛されていると確信し、天国への希望も同時に得るのです。そしてまた、苦しみは、その苦しみを委ねられた人の道徳性をも高めてくれます。この道徳性のみ、来世へと持っていける自分の財産です。トマス・ア・ケンピスは言います。「むしろキリストのために艱難を忍ぶほうを望むべきである。なぜならば、あなたはそれによっていっそうキリストに似た者になり、いっそうすべての聖人たちに似た者となれようから」(2)。
幸福で平安な生活に一度、馴染んでしまうと、神から遠ざかり平凡でまったく進歩のない生活になってしまいます。ヒルティはこうも続けます。「人間の大きな進歩は、つねに苦しみによってその道が開かれる」(3)。自分の生活の中に神を取り入れるには大きな苦しみが必要なのです。これがキリストが十字架を持って自分に従えと言った言葉の意味でしょう。苦しみによって道徳的天才が作られるのです。この世のありふれた幸福は全くもって平凡な人間しか作りません。宗教が苦しみから救ってくれるとは、大きな勘違いでしょう。宗教が約束してくれるものは、耐えがたいまでの苦しみと不幸です。最終的には人間は救われますが、苦しみがなくなることはないでしょう。
神が人に望んでいることは、幸福に生きることではありません。高度な道徳的完成にあるのです。宗教によって、幸福になれることは考えられることですが、その救いの前に、必ず大きな苦しみを伴います。この苦しみがなければ、そんな宗教など持っていようがいまいが関係ありません。高度な信仰を持つ人なら、必ず一度は神を呪う時があります。しかし、この大きな苦しみの後には、それを上回るだけの幸福が待ち構えているのです。神を賛美するだけで終わる宗教なら、持たずに平凡な善良な無神論者でいたほうがはるかにましでしょう。そのような善人は、この無宗教の日本では多いでしょう。
しかし、大きな幸福と非凡な天才性、高度な道徳性を求めるのなら宗教はなくてはならないものなのです。人間が成長するのは努力ではなくて苦しみです。かえって高度な能力を持つことは、人間を腐らせてしまうものです。人間ははるか高みへと成長できます。それは能力ではなくて道徳です。大きな幸福と非凡な天才性を持つ人は力弱い存在でしょう。この世の偉大な聖人達は皆弱い存在でした。その弱い心が神を頼る気持ちによって強められたのです。しかし、その人は最終的には最も幸福な人間になりえます。いかなる苦しみも神が救ってくれることを確信しているからです。
現代に欠けているものは、確固とした幸福になるための勇気です。それがないために人間は神経衰弱に陥り、様々な問題に直面するのです。幸福はあります。しかし、多くの人が求める富、名誉、娯楽の中にはありません。それらは全て一時的なものです。永続的で変わらぬ幸福は宗教の中にあります。話が長くなってきました。これからはまた今度お話しすることにします。最後に、このような拙文にいいねを押してくれる人達全てに感謝を捧げたいと思います。では、またお会いしましょう。最後に人間は幸福になることが出来る、それをこのエッセイの結論にしたいと思います。
(1)ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 幸福論 第三部
(2)トマス・ア・ケンピス 呉 茂一・永野藤夫訳 イミタチオ・クリスティ キリストにならいて
(3))ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 幸福論 第三部