よろしければお付き合いください。


 森にクマさんがいました。オスです。言葉を喋ることもできました。名前はノルンといいました。ノルンは平和に暮らしていました。マムシのおばさんのエーギルさんとも仲良しです。エーギルさんは、よくノルンのたわいのない相談に乗ってくれていました。
 ノルンには敵対するクマがいました。そのクマはヘイムダルといって、ノルンの住むヨツンヘイム山を、縄張りにしていました。ノルンとヘイムダルは、縄張りにしている場所が、かちあう度に喧嘩をしました。それからというもの、特に喧嘩する必要がないときでさえもいがみ合う関係になってしまいました。ヘイムダルには手下がたくさんいたので、ノルンは主にその手下と闘っていました。ノルンも手下が欲しかったのですが、勧誘しても誰もついてきてくれませんでした。困り果てたノルンは、エーギルさんに相談しました。そして、エーギルさんの紹介で、人間の猟師であるトクナガさんに出会いました。
 最初、ノルンはトクナガさんを舐めていました。なぜなら、トクナガさんは、ただの人間だからです。クマのノルンは人間よりも力が強くて、人間なんてすぐに倒せると思っていたからです。軽く脅かしてやろうと思って、ノルンはトクナガさんに襲いかかりました。ところがどうしたことでしょう。トクナガさんは細長い棍を取り出して、逆にノルンに襲いかかってきました。
 ノルンが気付いた時には、トクナガさんがノルンの介抱をしてくれていました。エーギルさんに頼まれたクマであることに気付いてくれたのです。トクナガさんは、なんで突然襲い掛かってきたのかとノルンに問いかけました。ノルンはぼそぼそと喋りだしました。ノルンは、あらかじめ自分の力を誇示しておけば、今後の関係で主導権が握れると思ったからだと正直に告白しました。トクナガさんは、そんなノルンの器の小ささに呆れましたが、許してくれました。それから、今度は本題とばかりに、どうしてエーギルさんに頼んで、私を紹介してもらったのかを聞きました。ノルンは言葉につまりました。なぜなら、単に気に入らない相手であるヘイムダルをこらしめるのを手伝ってもらうためだと、正直に言うことに躊躇いがあったのです。それもそのはず、そんな理由では、人間であるトクナガさんが手を貸してくれるはずがないからです。
 この時、ノルンの心に悪魔が忍び込みました。ノルンは言いました。同じクマであるヘイムダルは、ひょっとしたことから人間の肉を食べてしまい、その味を覚えて、人間を食料と見なして襲うようになった恐ろしいクマなのです、と。同じクマとして、そんなヘイムダルを放っておくことなど出来ません。そんなことをすれば、自分も人間に狩られるという危険性があったからです。そして、なにより、クマから人に危害が及ぶということが許せないと、ノルンは熱を込めて喋りました。当然、ヘイムダルは人間を食べもしなければ、襲いもしません。
 トクナガさんは、ノルンの話に感動していました。クマであるノルンが人間のためを想って、身を危険に曝す、その自己犠牲の精神に心を洗われたというのです。逆の立場であれば、いつも身勝手な主張ばかりしている人間は、クマのために立ち上がったりはしなかっただろうと、トクナガさんは、己を恥じていました。この時、ノルンの胸が痛みました。すぐに痛みはひきましたが、その痛みは、ノルンの胸の中に黒いしみとして残りました。トクナガさんと連れだって山を登ることになりましたが、そのしみは、時間が経つにつれてどんどん大きくなっていくようでした…!

 何度、トクナガさんに真相を打ち明けようと思ったことでしょう。しかし、山に入ってすぐに遭遇したヘイムダルの手下を、トクナガさんが、こらしめてしまったので引っ込みがつかなくなってしまいました。トクナガさんは、可哀そうだが人を襲うクマは放ってはおけん、と一言断ってから襲いかかりましたが、言葉が理解できるクマは、このヨツンヘイム山ではノルンとヘイムダルしかいなかったので、トクナガさんの言葉は理解されることはなかったのです。
 ノルンの頭の中は真っ白になりました。心は不安の虜にされ、トクナガさんに嘘がばれたらどうしようと、それしか考えられませんでした。心が、胸に広がる黒いしみに犯されているような、ノルンはいままでに感じたことのない激しい痛みに襲われました。その時、ノルンの心に再び悪魔が訪れました。悪魔はこう囁きました。このままヘイムダルを倒してしまえば、誰もこの嘘に気付きはしないよ、と。その悪魔の言葉に耳を貸すと、胸の痛みはさっとひきました。しかし、ノルンは自分が何かどす黒い何かに身体をのっとられたような錯覚を覚えました。ノルンは口元にはっきりと、それを見た者に嫌悪を抱かせる、にやりとした笑みを浮かべたのでした。

 ヘイムダルの手下を倒していくうちに、ノルンとトクナガさんはマムシのおばさん、エーギルさんに出会いました。エーギルさんは、一人と一匹を家に招きいれ、御馳走を振る舞いました。トクナガさんにはノルンの遊び相手になってもらって、と感謝して、トクナガさんは、いえいえ、ノルンは立派なクマですぞとノルンを褒めました。この言葉にノルンの顔は陰りました。その顔の陰りを見た、エーギルさんは、ノルンが何か後ろめたいことをしているのではないかと勘づきました。そして、こう言いました。本当に大切なことは、間違いをしないことではなくて、間違えたら、それを素直に認めて謝ることなんだよ、とエーギルさんはノルンを諭しました。ノルンから黒い悪魔が退散していきました。すると、今まで静まっていた胸の痛みが、また疼き始めました。ノルンは、この胸の痛みが、悪魔に犯されていく自分の良心の悲鳴なのだということに気付きました。そして、このような痛みは、今まで自分の味わってきた痛みの中で最も耐えがたいものだということも同時に悟るのでした。
 ノルンはもう、トクナガさんに真相を打ち明けることしか考えられませんでした。しかし、折悪くトクナガさんは、ノルンならそのこともちゃんと分かっていますよ、と言ってしまいました。この言葉がノルンの虚栄心を刺激してしまいました。ノルンは引っ込みがつかなくなり、とうとう真相を打ち明ける機会を失って、もやもやとした気持ちのままエーギルさんと別れました。ノルンの心には、また悪魔が入り込む隙間が出来ていました。

 ついにノルンとトクナガさんは、ヘイムダルの所に辿りつきました。ヘイムダルは、ノルンに人間が伴っていることに怪訝に思いましたが、トクナガさんが棍を構えたので、自分の敵だと判断しました。トクナガさんは、お主がこの山のクマの大将かと尋ね、ヘイムダルは頷きました。お主に恨みはないが、このまま野放しにすることも出来んのだとトクナガさんは話しかけました。ヘイムダルは、自分達クマの争いに人間を巻き込んだノルンと、ノルンの口車に乗せられ、のこのこでしゃばってきたトクナガさんにも腹が立ちました。ヘイムダルは言いました。ノルン、お前にはほとほと呆れたよ、俺達は仲が悪かったが、クマとしての誇りは持っているものだと思っていたよ。どうやら、俺が一方的にそう思っていただけのようだが。ヘイムダルの口調はノルンに対する嘲りに満ちたものでした。
 この言葉は、ノルンの胸に突き刺さりました。エーギルさんのおかげで息を吹き返していたノルンの良心は、再び、悪魔にのっとられてしまいました。そうでなければ、ノルンは自分の良心の痛みに耐えることが出来なかったのです。
 戦いの火ぶたは切って落とされてしまいました。ヘイムダルとトクナガさんは一歩も退きません。戦いはすぐに膠着状態に陥りました。この膠着状態によりヘイムダルの注意がトクナガさんに全て注がれた瞬間、黒い悪魔の言いなりになったノルンの爪がヘイムダルを襲いました。完全に虚をつかれたヘイムダルは血を流しながら倒れてしまいました。トクナガさんは、この機を逃さずに棍を構えました。この時、ノルンの脳裏に自分の嘘とヘイムダルの命が天秤に計られました。嘘がばれないようにするためだけに、一匹のクマが命を落とす。そんな、馬鹿なことが…!
 許せ、と短く呟いたトクナガさんが棍の一撃を繰り出しました。その瞬間、ノルンは身を投げ出していました。棍は、ヘイムダルをかばったノルンの身を打ちました。ノルン!どうして、トクナガさんはそこまで口に出しましたが、涙で顔をくしゃくしゃにしたノルンの大きい鼻声によって遮られました。
 ごめんなさい、トクナガさん。嘘だったんだ!ヘイムダルが人間を襲う危険なクマなんていうことは。僕達はただ少し仲が悪く、いがみあっていただけで、ヘイムダルもその手下たちも何も悪くないんだ。ただ、トクナガさんに僕の味方になってもらいたいがための嘘だったんだ!
 その告白を聞いて、トクナガさんは、では、私はなんの罪のないクマたちを傷つけていたのか、と呟き茫然としました。ヘイムダルは、そんなことだろうと思ったよ、と荒い息遣いでいいました。そして、こうも続けました。だが、直前でそのことを打ち明けるとは、お前にしては殊勝なことだったな。で、この落とし前はどうつけるつもりなんだ?

 ノルンとトクナガさんはヘイムダルを介抱しました。トクナガさんはノルンと一緒に謝ってくれました。トクナガさんは、私にも罪はないわけではない。ただでさえ、自分の罪の重さに震えているノルンを、私の罪を誤魔化すために責めたりはせんよ、と言ってくれました。おいおい泣いていたノルンは、それだけで少し救われた気になりました。
 そうしてノルンはヘイムダルにお詫びとして、自分の縄張りを明け渡しました。もうヨツンヘイム山にはいられないと思ったのです。それに加えて、トクナガさんにも悪いことをしました。その贖罪として、山を離れて、トクナガさんのお手伝いとして生きることを決めました。自分の良心を殺し、トクナガさんに道を誤らせ、ヘイムダルにいたっては、その命をも奪おうとした、嘘というものの恐ろしさを肝に銘じながら。その嘘を誤魔化そうとした自分の心の弱さ、そして、悪魔はそれに付け込んでくるのだということ。それは、他でもない自分が悪魔を引き寄せるのだと、ノルンは悟りました。トクナガさんは、そんなノルンに理解を示し、共に暮らすことを許しました。
 誰も過ちを犯さないものなどいない。それは人も動物も変わらない。自分の罪を自覚すればこそ、罪の償い方も、また知るのだろう。ノルン、お前さんの姿から、私はそれを知ったよ、と甲斐甲斐しく働くノルンの後ろ姿を見ながら、トクナガさんはそう呟いた。ノルンは振り向いて、
 トクナガさん、なにか言った?
 いや、なにも。そんなことよりもノルン、疲れたろう。そろそろご飯にしようか。

~終わり~