沈む日本、いま必要なのは「団塊ジュニアの反抗」だ!  …井手英策氏  | 本のブログ

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普通の人は読まないだろうと思う本を記す。
あとは、Linuxと中古PCなどの話題。

 

 

団塊ジュニア世代の知識人からの冷静な言説には、とても共感できるところがある(表題にある「反抗」ではなく、「冷静」さだと思う)。

 

文中に「有効求人倍率が1980年代前半水準にまで落ちこむ最悪な年だった。」とあるが、私は1984卒でバブル直前であった、それでは、私も不幸ではないのか、と考えてしまった。

さらに言えば、団塊の世代こそ、彼らの就職年齢の時代そのものが、悲惨だったのではないのか?

その後の結果を、後出しで考慮して、幸福だとか、不幸だとか言うのは、あくまで自分の育った環境から見た判断、バイアスがあるとしておいたほうが良いような気がする。

 

何故、古い日本人は貯金をするのか、これは、あの戦争により国への信頼度が低いからだ、これが本当に体に染み付いているからだ。

それに反して、何かあれば、政治に補助を求める、現在の世論とは、大きな差があると思えれば、なにか、時代の転換に関するヒントになるかもしれない。

 

沈む日本、いま必要なのは「団塊ジュニアの反抗」だ! 「物価高で定額減税」の論理的矛盾を無視していいのか
6/9(日) 6:32配信 東洋経済オンライン

財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。
貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。
勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。
「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第10回は「団塊ジュニアに生まれて」です。

■上京と同時に、バブルはあっけなくはじけた
 私たちはつくづく<時代>に愛されなかった世代なのかもしれない。
 私は1972年に生まれた。いわゆる団塊ジュニア世代だ。翌1973年にオイルショックが起き、安定成長時代が始まったから、高度経済成長期、最後の世代ということになる。
 とはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった高度成長の記憶などまったくない。ジュリアナ東京のお立ち台や土地転がしなど、バブル期の話題なら記憶になくはないが、大学に合格して東京に出てくるのと同時に、バブルはあっけなくはじけてしまった。
 私たちが就職活動を行った1994年は、有効求人倍率が1980年代前半水準にまで落ちこむ最悪な年だった。まさか、自分たちが、就職氷河期世代、ロストジェネレーションなどと呼ばれるようになろうとは、思いもしなかった。
 私が博士課程に進んだのは1997年だ。この年にアジア通貨危機が起き、デフォルトがささやかれる国があらわれた。国際経済は大混乱、翌1998年には1974年以来となるマイナス成長を日本経済は記録した。
 団塊ジュニアという名前からわかるように、私たちは団塊の世代に次ぐ「ボリュームゾーン」として生きてきた。
 ただ、団塊世代が高度経済成長の恩恵を受けてきたのとは正反対で、時代の節目、節目で痛い目にあってきた。多くのカップルが結婚や子どもの出産をあきらめるしかなく、それが現在の少子高齢化問題の理由の1つともなっている。
 私たち世代の記憶のほとんどは、「長期停滞」によって彩られている。ズルズルと暮らしのレベルが落ち続け、気づくと日本中に外国人があふれ、私たちにとって海外旅行は高嶺の花になりかけている。
 ゆっくりと弱りゆく経済。
 だが、友人に聞かされた話は、それとはまったく違う印象を私に与えた。

■歴史的な転換点となった1998年
 「CDの売り上げのピークって1997、1998年なんですよね。それ以降、シングルのミリオンヒットが、突然、激減して、ほとんど出なくなってしまったんですよ」
 おどろいた私は、書籍の販売金額をあわてて調べてみた。すると、こちらも、1997年に初の前年割れを記録し、それ以降、減少傾向が続いていた。どうも1990年代の後半に何かが起きたようだ、と直感した私は、さまざまなデータを調べてみた。
 いちばん衝撃的だった数字から紹介しよう。それは、1998年に企業部門が資金余剰(=黒字)部門に転じていたことだ。企業は、明治期にデータを取り始めるようになってから一貫して資金不足(=赤字)部門だった。
 私たちは将来不安に備えようと銀行にお金を貯める。資金が不足している企業は、私たちが銀行に預けたお金を借り、これを積極的に投資に振り向けて経済を成長させてきた。これが近代日本における大前提だった。
 ところが、1998年に企業は、資金余剰部門になった。借金をしてでも投資を行うのが常だった企業が、手元資金の範囲内でしか投資をしなくなった。戦前から続いたお金の流れが完全に変わってしまったのだ。
 銀行からの借金に頼らないとすれば、企業は投資資金を自分で用意するしかない。標的になったのが人件費だ。雇用の非正規化が進みはじめ、1998年以降、勤労者世帯の実収入は減少の一途をたどった。
 激動した日本経済。雇用の不安定化や賃金の下落は、当然、社会にも大きな影響を与えた。
 それがハッキリとあらわれたのが自殺者数だった。1998年に自殺者の数が8000人以上も増え、その後、14年にわたって3万人を超えることとなった。
 自殺者だけではない。選挙、デモ、世論が政治に与える影響について5年ごとに尋ねたNHK放送文化研究所の調査を見てみると、1998年に政治への影響力のなさを感じる人が一気に増え、以後、低位で安定するようになる。
 そう、日本社会はゆるやかに衰退したのではない。1990年代の後半に明らかな転換が起きていた。だが、主要先進国の地位にあぐらをかき、歴史的な変化に気づくことなく、いつかなんとかなるだろうと考え、私たちはいたずらに時を消費してきたのだ。

■まるで平成の貧乏物語
 この鈍感さは、平成の31年間で、決定的な変化をもたらした。
 日本の1人当たりGDPは、平成元年の世界4位から平成31年の26位へと順位を下げた。企業時価総額トップ50社を見ても日本企業が32社を占めていたのに、平成の終わりにはたった1社になった(現在ではトップ100を見ても1社しかない。それはトヨタだが、そのトヨタが認証不正を行ったことは象徴的である)。
 男性労働者の収入減をおぎなうために、女性の非正規労働者が増えた。共稼ぎ世帯数は約6割増え、専業主婦世帯の2倍をこえるようになった。それなのに、勤労者世帯の実収入のピークは1997(平成9)年だった。
 世帯収入300万円未満の世帯が全体の31%、400万円未満が全体の45%を占めるようになったが、これは、平成元年とほぼ同じ割合だ。ちなみに、平成の終わりには2人以上世帯の3割、単身世帯の5割が貯蓄なしと答えている。
 まるで平成の貧乏物語だ。いや、もっと現実を的確に語るならば、日本は、先進国と発展途上国の境界線に立たされるようになった。
 日本のGDP総額が7割の人口しかいないドイツに追い抜かれた、という報道が世間を騒がせた。為替の動向次第では、1人当たりのGDPも韓国や台湾に追い越されるのも時間の問題である。
 私がとりわけ深刻だと思うのは、途上国と共通する社会的な信頼度の低さだ。
 じつは所得水準と他者への信頼度には、強い相関関係がある。日本はOECD加盟国のなかで主要先進国とその他の国の境界に位置しており、所得と信頼度で見ると、リトアニア、エストニアと同じグループにいる。
 もちろん私たちは状況を静観していたわけではない。政府も必死になって経済を成長させようとしてきた。
 思い出してほしい。小さな政府と規制緩和を訴えた新自由主義、財政金融政策の機動的な出動をうたったアベノミクス、そして分配による成長をめざした新しい資本主義、いずれも経済成長を実現するための政策パッケージだった。
 だが、冷静に見てみると、政府を小さくすれば成長する、いや政府を大きくしたほうが成長する、いやいや経済政策ではなくて分配政策が大事だ……成長を説明するロジックは混乱を重ねてきた。
 論理で説明がつかない、結果が出せないのなら、残された方法は1つしかない。国民にダイレクトにお金をバラまき、力ずくで消費を増やすことだ。
 大胆な財政出動を正当化するMMTがあちこちで語られるようになり、コロナ以降、現金給付が当たり前のように行われるようになった。
 そしていま、物価を下げなければならないこの局面で、政府は、所得税の減税という「景気刺激策」を行おうとしている。

■三重苦のイギリスで、首相が国民に語りかけたこと
 1976年のことだ。当時のイギリスは、オイルショックの後遺症である不況、国際収支の赤字、そして物価高の三重苦に苦しめられていたが、ときの首相J・キャラハンは次のように国民に語りかけた。
 「私たちはかつて、減税と政府支出の拡大によって不況を脱し、雇用を増やせると考えていた。包み隠さずに話そう。そのような選択肢はもはや存在しないのだ」
 キャラハンは、インフレ下の景気刺激策はありえない、思いきって新しい政策を考えようではないか、そう国民に呼びかけた。そして、のちの「サッチャー革命」に続く政策へと舵を切り、1990年代の高成長時代へのきっかけを作った。
 私自身は、彼らの政策を正しいものだとは思っていない。だが、当時の政治家は、自分たちなりに現実を直視し、あるべき政策の姿を懸命に考えていた。
 いまの日本はどうか。目先の物価高に心を奪われ、そのために論理的に矛盾した政策が公然と行われようとしている。バラマキが当然視され、インフレに歯止めがかからなくなったとき、私たちは先進国から脱落することになるだろう。
 過去の30年を見ればわかるように、私はかつてのような経済成長を実現するのは難しいと思っている。
 他の先進国並みの成長を実現する方法を考えるのは当たり前だ。だが、本当の核心は、成長に依存せずとも暮らしていけるよう、財政の生活保障機能を強めていくことではないだろうか。
 私たちは医療や介護、教育費の負担におびえ、なけなしのお金を蓄えて、将来不安に備えようとしている。そのような社会で消費が伸びるわけがないし、わずかな減税など焼け石に水でしかない。
 日々の暮らしに追われる私たちが<脱・成長>を実現するのは大変だ。だが、生活保障を強め、<脱・成長依存>への努力を重ねれば、将来不安から人びとが解放され、経済成長もいまより高い軌道を描くことになる。
 もちろん、新たな財政システムを議論する以上、財源問題から目をそらすべきでないことはいうまでもない。

■団塊ジュニア世代に課せられた使命
 私たち団塊ジュニア世代は、時代に嫌われた被害者だった。だが、被害者だからといって、働き盛りである私たちが事態を放置してしまえば、今度は歴史の加害者になってしまう。目前の火事に気づき、それを放置することは、罪を犯すに等しい。
 私たち世代はさまざまな苦しみに耐えてきた。だが、その結果として、生活防衛に走ってしまい、少子高齢化を加速させてしまった。
 そんな私たちだからこそ、いまの将来不安の根元がどこにあるのかをよく知っている。だからこそ、私たちは、日本社会の未来を本気で構想する責任を負っているのではないか。
 団塊ジュニア世代が次世代に責任転嫁することなく、きびしい現実のなかで立ちあがれるかどうか。そこにこの国の不沈がかかっていると私は思う。