発達障害8.【人間の価値】 | 始まりはアドラー心理学

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より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

 

いろいろと考えた結果、
発達障害の存在が、人間社会にいる全ての人々に、
とある課題を提示している事に気付きました。
それは、人類にとって、克服すべき大きな課題です。

そもそも『障害』というのも、
現代社会に順応するスキルの発達に支障があるだけで、
一人の人間としては何ら問題などありません。
ただ現代社会という型に填まりやすい人を普通と称し、
填まりにくい人を障害扱いしているだけです。

学校も社会も、人間の資質や能力を平均化し、
多数派を基準にした『型』によって管理されています。
多数派に合わせた型さえあれば、
全体を効率的に管理する事が出来ます。
逆にいえば、人々が『型』に填まってくれる事によって、
この社会が成り立っている訳です。

人々は、『型』に填まる事によって社会に認められ、
それ相応の対価を与えられます。
逆に『型』に填まらないと
あらゆる社会的な恩恵を受ける事が出来ません。
それは、人々にとって大きな恐怖ですブルブル
だから、一生懸命になって『型』に填まろうと努力しますあせる

当然、中には、型に填まれない人、填まりたがらない人もいます。
彼らには、型に填まらないだけに
『型破り』な資質や能力が秘められているのですが、
その価値を周囲はなかなか理解してくれません。
中には、社会に有用と理解されて、
活躍の場が与えられる人もいますが、全体では少数派となります。
大部分は『劣等』と見なされて冷遇されるか、
『落伍者』となって見放されてしまうのです汗

当然ながら、発達障害該当者の多くは劣等感に苦しんでいますあせる
しかし、それは一般人とて変わりません。
何故なら、全ての人間が、特定の基準を元に、
上下で区分されているからです。
社会では、より型に上手く填まる人ほど優秀とされて、
そうでない人ほど劣等扱いされます。
このように優劣で定められた序列により
様々な差別と格差が生まれているのは確かです。

上の人間には、下の人間を支配する権利を与えられ、
下の人間は上の人間に従う義務を背負わされます。
このような仕組みに、

大多数の人々はストレスを感じているはずですが、
表立って意義を唱える人はいません。
何故なら、この優劣という基準に多くの人々が納得しているからです。
結果、人々の絆は、無惨に壊されてしまいました。
上下という壁が人々の信頼を分断してしまったのですカミナリ

人々は、上の人間に支配されるストレスを、
下の人間を支配する事で晴らそうとします。
皆さんも覚えがあるはずです。
社会では、イジメやパワハラ、セクハラ、悪質なクレームなどの、
不当な暴力が後を絶ちません悲しい

家庭においても、親が子供に

自分のいう事を無理に聞かせようとしたり、

子分扱いして駒遣いにしたりする風潮が見られますね。

全ては、自分の方が「優秀、正しい」という思い込みと

上であるという権力の乱用によるものです。


現代社会で定められている全ての基準には、
何の根拠も正当性もありません。
何故なら、人間が持つ資質や能力を図る基準に限りはなく、
それによって決まる序列のパターンも無限にあるからです。
基準が変われば順位や序列も簡単に変わります。
選ぶ基準によってコロコロ変わるのであれば、
あらゆる才能や成果や努力さえも、
全て意味がなくなってしまうでしょう。
結果、人間の価値を序列に分ける事は不可能であり、
同時に無意味となりますもやもや

あらゆる人間は対等な存在であり、
その価値に一切の差などありません。
福沢諭吉のいう通り、まさに「天は人の上に人を作らず、
人の下に人を作らず」なのです。
人間を『上下』、『優劣』、『強弱』などで区別する
あらゆる社会の基準に騙されないでください。
発達障害だろうが、平凡な一般人だろうが、
社会で脚光を浴びる成功者だろうが、
そこには一切の優劣などなく、
全ては同じ人間として、等しく尊重されるべき存在なのですキラキラ

もはや、発達障害などという定義は無用の長物になりました。
人間を上下で分けるのも、『一般人』と『障害者』で分けるのも、
全ては人間社会が勝手に作った幻想に他ならないのです。
だから、恐れるものも、争う事も何もありません。
互いに出来る事をやり、共に助け合い、協力し合い、
一緒に幸せになれば、それでいいのですOK

残念ながら、我々は、人間を優劣と上下で管理する現代社会から

抜け出す事は出来ませんケージ
しかし、意識を変える事なら出来ます。
それは、この社会を構成する全ての人々にとって、
果たすべき課題となるはずです。