善と悪1.【善悪の定義とは?】 | 始まりはアドラー心理学

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より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

性善説と性悪説を知ってますか?
人間の本質が「善」だとするのが性善説で、

逆に「悪」とするのが性悪説です。
哲学や思想の分野では、いずれが真実なのか、
長らく議論の的になっていました。
もし、性善説が正しければ、「そもそも人間は尊い生き物で、
悪事を冒すのは気の迷いに過ぎず、
これにより人間という素晴らしき存在の価値は揺るがない…」、
となります。
逆に性悪説が正しければ、
「人間は生まれながらにして邪悪で信用出来ないロクデナシで、
そもそも善い事をするのも無意味だ…」、となるでしょう。

性善説が真実ならば、人間は信じるに値する生き物で、
人間同士は互いに尊敬し合うべきだという事になります。
性悪説が真実ならば、どうせ人間は自分勝手な悪人なんだから、
互いに解り合えないって事になりますね。
さて、どちらが真実なんでしょうか??

以前、仏教のカテゴリーで『戒律』について触れました。 
人間には様々な煩悩があり、

意識しないと悪い方向に流れていきます。
そうならないために、
戒律によって欲望と行動を制限しようという訳です。

キリスト教にもモーゼの十戒があります。
「殺すなかれ」、「盗むなかれ」など、
人間にとって『やってはいけない事』を記したものです。

古代ギリシャでも、多くの哲学者たちが
善や正義について追究していました。
プロタゴラスやソクラテスの思想には、
時代を超えた説得力があります。

現代の法律や倫理は、以上の宗教や哲学者を元に作られました。
それが、現代人の『共通認識(常識)』となり、
現代社会の秩序を守っている訳です。

もし、法律や規律がなくなったら、社会は大混乱になるでしょう。
あらゆる暴力や略奪が野放しとなり、
弱い者は強い者の食い物になってしまいます。
それは、まるで北斗の拳のようなカオスの世界ですもやもや

やはり、人間の本質は悪なのでしょうか?
だから『規則やルール』という正義が必要なのかも知れません。
つまり、人間は先天的に(生まれつき)『悪』であり、
後天的に(生まれてから)『善』を学ばねばならない、
という事になります。

そもそも人間は、生まれながらにして善悪の区別が出来ません。
だからこそ、秩序やルールが必要となってきます。
ほって置いたらロクな事をしない人間たちを治めるには、
しっかり善と悪を教え込まねばならないのです。
以上を読んで、異を唱える人はいないでしょう。

六法全書を見ると、実によく出来ていて驚きます。
人々の自由と権利と利益を保護するため、
あらゆる状況に対処出来るように、
実に事細かにまとめられています。
現に、法律で秩序化された社会は、
特に大きな問題もなく機能しているように見えます。

しかし、です。
本当に社会は問題なく機能しているのでしょうか?
人々が秩序によって守られているのは確かですが、
これによって大きな被害を受けている人がいます。
逆に、ルールを破る事によって救われている人たちもいるのです。
やはり、物事を善と悪に分類するには限界があります。

例えば、人殺しは悪(犯罪)とされますが、
正当防衛ならば罪になりませんね。
身の危険を感じて先に手出した場合、
相手が死んでも許されてしまうのです。
また、核戦争が起きたとして、核シェルターの許容人数が少なければ、
他人を差し置いてでも自分が入ろうとする人は大勢いるはずですが、
それを、一概に悪だと断言出来ません。

自然界での食物連鎖も同じ。
ライオンしし座が、生きるためにシマウマやインパラを捕食するのを
「悪」だという人もいないはずです。
野生での弱肉強食は自然界の摂理なので、
否定するのは無理があります。

ならば、資本主義経済の自由競争は正しいといえるでしょうか?
現に世界中で不当な格差が生まれており、
富める者と貧しい者の明暗が大きく分かれています。
そう考えると、鼠小僧が裕福な長者から金品コインたちを盗み、
これを貧しい人たちにバラ蒔くのも悪とはいえなくなります。

我々の道徳観では、
強い者が弱い者を助けるのは善だと思われていますが、
実際は強い者が弱い者から搾取するのが

経済の常識になっています。
現実を見れば、
あこぎに儲けて財を築いてる悪党が社会には大勢いますが、
彼らから財を盗んだら法的には悪党にされてしまいますね。
ならば、そんな一部の財閥や大企業(官僚、政治家らも)を優遇し、
貧しい庶民に容赦ない重税を強いる政府は悪じゃないんでしょうか?
そんな彼らによって作られる法律など、
とても信用出来るものではありません。

僕らの日常にも、善悪では片付けられないものがたくさんあります。
僕らにとって、嘘をついたり、
陰口や愚痴をいうのは悪とされていますが、
そうとも決め付けられません。
嘘によって人が救われる事も多く、
陰口や愚痴には、ストレス解消に役立つ側面もあります。
また、常識では「他人に世話をかけるのは悪」とされますが、
これも人によって判断が異なります。
世の中には、他人の世話をするのを激しく厭う人がいる一方、
喜んで世話をする人もいます。

やはり、「善か悪か」は状況によって、
人によって判断が全く変わってくるのです。
人それぞれに基準が異なるならば、
物事を善悪に分けるのは、もはや不可能となります。
となると、僕らが生まれつき持ってるとされる

「良心」というモノも怪しくなります。
人は悪い事をすると良心の呵責で苦しみますが、
この良心の対象というものが人によってマチマチです。
例えば、人殺しを悪と思わない者は、
殺人事件を起こしても良心の呵責なんてありません。
世の中には人殺しをして捕まらず、
楽しく健康に過ごしている人だって普通にいるんですタラー
反面、ちょっとしたルールを破っただけで
「何て酷い悪事を冒したんだろうかガーン」と強く悔やんで
心身をも病んでしまう人もいます。
結局、良心の呵責とは、
個人が勝手に悪だと思い込む妄想から生じるのではないでしょうかはてなマーク

善悪や正邪とは、
人間が勝手に決めた妄想に過ぎないと考えられます。
しかし、いくら妄想であっても、本人が信じている限り、
その人にとっては紛れもない真実です。
それが、正しかろうが、間違っていようが、
人間には自分が思った事しか出来ませんからね。
アドラーのいう通り、人間の人生を左右するのは、
自分の思いが全てなのです(自己決定論)。

当然、本人が信じなくなれば真実ではなくなります。
ならば、その時点で自由に変えればいいでしょう。
あくまで自分だけの基準に過ぎないのだから、
いくら変えても、誰にも文句をいわれる筋合いはありません。

個人の善悪というのは、
人それぞれが自由に利用出来る『道具』みたいなものといえます。
人は、善を理由に行動し、悪を理由に行動を慎みます。
ならば、自らの目的に沿って自由に決めていいでしょう。
これは、アドラー心理学でいう『目的論』に当たります。
話は長くなりましたが、
やはり、ここに落ち着くのではないでしょうかはてなマーク

次回は、アドラー心理学的視点から、善悪を考えてみましょう。