日本の冤罪 | 日本世論の会 本部

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日本の冤罪   

20139月 五十嵐岳男

1.  大東亜戦争

言われていること: 日本はアジアを侵略した。

真実: 大東亜戦争は自存自衛のための戦争。アジア諸国を欧米による植民地支配から解放した聖戦。

 

2.  日中戦争

言われていること: 日本は中国を侵略した。

真実: 日本軍が中国に駐留していたのは1901年の北京議定書による。1911年の辛亥革命後の中華民国政府にもこの議定書は引き継がれた。中国では昔から内乱・内戦が絶えなかった。日中戦争とは、国民党や共産党らの内戦に日本が巻き込まれたもの。

 

3.  南京虐殺

言われていること: 193712月中旬に日本軍は、当時の中華民国首都だった南京を占領し、翌年2月末に南京から撤退した。この間、日本軍は数十万の中国市民を虐殺した。

真実: 中国国民党中央宣伝部が中国在住の欧米人を使って、日本軍の「蛮行」を語らせたもの。目的は、日本軍に対し劣勢に立っていた国民党軍が日本軍による「蛮行」を世界に示すことにより、国際世論を味方につけるため。ありもしない日本兵による「蛮行」を捏造した。

 

4.  慰安婦

言われていること: 日本軍は20万の韓国の若い女性を強制連行し、性奴隷にした。

真実: 軍隊は若い男性の集団。彼らの性欲処理は各国軍とも頭を悩ます問題。この中にあって、日本軍の慰安所・慰安婦制度は最も人道的だった。慰安婦は業者が募集し、高給取りだった。日本軍は定期的に慰安婦らを診察し、性病予防を行なっていた。

 

5.  関東大震災時の朝鮮人虐殺

言われていること: 1923年(大正12年)91日に関東南部を襲った大震災の際、「朝鮮人が襲ってくる」とのデマによって住民の間に自警団が組織され、無辜の朝鮮人6千数百名が自警団らに虐殺された。

真実; 上海の大韓民国臨時政府から独立派の朝鮮人テロリストらが密かに日本に送り込まれた。この年(1923)11月に予定されていた皇太子(後の昭和天皇)のご成婚に際し、皇太子を暗殺することが目的だった。ところが、未曽有の大災害が起こり、彼らは急遽予定を変更して、東京市内をさらに混乱に陥れるために放火などを行なった。朝鮮人テロリストらの蛮行により多数の日本人が殺された。

 

6.  七三一

言われていること: 満州の七三一部隊は、細菌戦を研究するために、中国人捕虜らに対し人体実験をした。

真実:石井四郎軍医中将が指揮した通称七三一部隊(正式には関東軍防疫給水部)は、兵士たちにきれいな水を供給し疫病から兵士らを守ることが本来の任務だった。副次的に細菌戦の研究を行なっていたようだ。また、捕虜らに対し盲腸の手術なども行なっていたようだ。これが戦後になって尾ひれがついた。七三一で「人体実験」が行なわれていたとの噂が流れて始めてから、元隊員の中から、自分が見たのは「人体実験」だったのではないかと「証言」する者が現われた。七三一の「人体実験」説が広まったのは、森村誠一が『しんぶん赤旗』で1981年から同82年にかけて連載した『悪魔の飽食』によるものだ。同書は、森村が『赤旗』記者下里正樹に取材して書いたものと言われる。同書は後に光文社から単行本として出版された。

しかし真実はどうか。戦後、米国は七三一元隊員らから聞き取り調査を行なった。サンダース・レポート、トンプソン・レポート、フェル・レポートなどだ。『正論』平成1411月号に載った中川八洋筑波大教授の論考によると、これらのレポートには「人体実験を行なった」という記述はないそうだ。

 

7.  新宿区戸山の陸軍軍医学校

言われていること: 新宿区戸山には戦前陸軍軍医学校があった。満州の七三一部隊で人体実験された中国人捕虜ら多数の遺体が戦時中に密かに軍医学校へ運び込まれ、終戦直後に敷地内に埋められた。

真実: 上記七三一関連だ。言われ始めたのは、1989年に国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の建設工事が始まったときだ。100体を超す人骨が偶然見つかった。七三一や旧日本軍の化学兵器を調べている神奈川大学常石敬一教授が中心になって、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」が結成された。同会は、これらの人骨が七三一と関係あると考えて、関係部署に人骨の鑑定を求めていた。しかし、東京都や厚生省はその必要を認めなかった。紆余曲折の末、国立科学博物館人類研究部長だった佐倉朔博士が鑑定することになった。結果は、発見された人骨が中国人捕虜のものであると断定できなかった。この一件はこれで落着したかに見えた。ところが、1998年に軍医学校で看護婦をしていたという女性が、「終戦直後、進駐軍に見つからないように多くの遺体を急いで敷地内に埋めた」と証言した。しかし、女性が示す場所には、宿舎が建てられ手が付けられなかった。「究明する会」は厚労省に調査を依頼していた。当時の川崎二郎厚労相は2006年に女性と面会して調査の実施を約束した。201011月に同宿舎がようやく解体され、「究明する会」は早速厚労省に働きかけ2011221日から発掘調査が始まった。翌22日の朝日は、「731部隊 関連に注目」と大きく報道し、また同日のジャパンタイムズもAP電として掲載した。人骨が出てきて七三一と関連があるかのような記事だ。2011717日、発掘調査の報告会が新宿区内で開かれた。結果はゼロ。江戸時代(尾張徳川家の下屋敷があった)や軍医学校時代の陶器類は見つかったが、肝心の人骨は全く発掘されなかった。私もこの報告会に出席した。しかし、一連の騒動の中心にある「究明する会」代表・常石氏の姿は報告会にはなかった。結論として言えることは、満州の七三一から戸山の軍医学校に遺体が運び込まれたという証拠はなく、また、同校跡地から見つかった人骨も七三一とは無関係だということだ。

 

8.  日韓併合

言われていること: 日本は朝鮮を植民地支配し、朝鮮からあらゆるものを奪った。

真実:日韓併合は、日本にあこがれた朝鮮人自らが望んだもの。日本は、地獄の李氏朝鮮から朝鮮の人々を解放してあげたのだ。参考(1909124日「韓日合邦を要求する声明書」一進会)

 

9.  サハリン残留朝鮮人

言われていること: 日本が植民地支配していた朝鮮半島から6~8万の朝鮮人が強制連行され南樺太(サハリン)に渡った。終戦後、日本人は大半が帰国したが、43,000の朝鮮人は引き揚げ枠から外され、置きざれにされた。

真実:サハリンの労働力不足からソ連政府が朝鮮人を帰国させなかった。参考:新井佐和子『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』(草思社)

 

10.バターン死の行進

言われていること:フィリピン・ルソン島のバターン半島で、日本軍に投降してきた米軍捕虜・フィリピン人捕虜らが19424月収容所までの100キロあまりを歩かされ、多くの捕虜が死亡した。

真実:米軍捕虜虐待で本間雅晴陸軍中将は死刑にされた。戦史研究家の溝口郁夫氏は『比島従軍記南十字星下』(向井潤吉 昭和17年)を発見した。 同書によると、米軍将校には紅茶がふるまわれ、軽そうなリュックサックを背負っていたそうだ。これに対し、警護する日本兵らの方は背嚢を背負い、銃を担いでいる。また、野戦病院もあった。日本軍は米軍捕虜を丁重に扱っていた。さらに、「バターン死の行進」の様子をとらえたとされる写真がある。捕虜らが天秤棒をかついで重たい荷物を運んでいる様子をとった写真だ。捕虜らが酷い扱いを受けているとの印象を与えるものだ。しかし、この写真は行進の数週間後に撮影されたものと分かった。写真をとったAP通信は、行進で生き残った元米兵の指摘により、20103月に65年ぶりにキャプションを訂正した。

 

11.ブキテインギ日本の穴

   言われていること: 日本陸軍第25軍は、インドネシア・スマトラ島ブキテインギ市内の断層のがけを利用して防空壕を築造した。壕内には複数の穴がある。築造にかかわったインドネシア人労務者を殺害し死体を投げ込んだものだ。

   真実: この防空壕跡は観光地になっており、入口にWELCOME TO JAPANESE TUNNELとの表示がある。また、以前には日本兵が現地人に銃剣を突き付けているレリーフがあったようだ。1996年、ここを訪れた日本人がレリーフの間違いを指摘し、インドネシア側も同意して、レリーフは撤去された。19976月、産経の千野境子記者が確認のため現地を訪れた。そのときの記事が1997618日産経夕刊一面に掲載されている。

また、この件に関し、元産経ジャカルタ特派員加藤裕氏らが調べたところ、25軍主計大尉本庄弘直氏の証言が得られた。本庄氏によると、壕築造では現地労働者に日当も払われ、虐殺はおろか、負傷者も出ていない。複数の穴は通気口、緊急避難用で、工事中は残土を捨てるために使ったそうだ。「ブキテインギ日本の穴」を言い出したのは、倉沢愛子慶大教授、後藤乾一早大教授、越田稜学習院高等科教諭ら。