鎖国していた江戸幕府は世界情勢を知る情報源とは?

 

昨日から、19世紀の幕末からの歴史を述べています。

 

このブログコンテンツでは、

従来の世界史・日本史の別を超えて、

日本人のための世界史を目指しています。

 

学校教育の暗記の歴史ではなく、

仕事や人生の血や肉となるような

日本人のための歴史を

世界史の視野で

 

わかりやすく述べていきたいと思います。

 

原始時代から始めたこのブログも

近代に入ってきました。

 

今日からは、昨年扱った近・現代史を

さらにバージョンアップしながら

現代、そして未来までつなげていきたいと

思います。

 

えっ!未来、と思われるかも知れませんが

「温故知新」ということばもあります。

 

過去を知ることは未来をみつめること

だと思います。


 

  いち早く正確な海外情報を得ていた幕府

 

急速に変貌する世界情勢が

日本近海にも目に見えてわかる18世紀後半、
 

当時の一般の学者たちさえ海防を説く時代に、
幕府は、情報を独占していました。

 

それは、『オランダ風説書』という

江戸幕府がオランダ政府と貿易を始めた時の

契約で、世界情勢を伝えることになっていました。

 

ここまでは、教科書で習った記憶もあると思います。

 

これに加えて、唐船風説書、

帰国した漂流民、
密入国者などからもしっかりと情報を得ていました。

新井白石が、日本に侵入したイタリア人シドッチに
尋問したことは有名です。

 

ちなみにシドッチは、イタリア人宣教師で

ローマ教皇の命で禁教であった日本に

布教にきたようです。

 

屋久島に上陸したとき、髷を結い、着物を着ていました。

新井白石は、博学なシドッチに敬意を示しつつ

様々な世界情勢を『西洋紀聞』に著しました。

その時、清国をシナと読んでいることを知ります。

 

以来日本では、「中国」を「シナ」

そして「支那」というようになりました。

海外は「China」を「シーヌ」「チーナ」などと

呼んでいます。↓

 

様々な情報情報は

オランダ風説書と照合して

その情報の真否を吟味することもあった
と原田伊織氏は述べています。
(「官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラートたち~(毎日ワンズ)」)。

 

フランス革命も情報として知り得ていたし、

レザノフの来航は当然

報告されていました。
 

さらに、

日本から5000㎞離れたインドが
イギリスの完全な支配下に入ったことまで

情報として得ていました。

 

幕府は,世界の情勢の変化の情報を

いち早く、しかも正確に得ていました。

 

 

  「鎖国」しているといったのは幕府ではない

 

1840年のアヘン戦争については、
オランダ東インド総督が通常のオランダ風説書に沿えて
原文のまま「別段風説書」を

幕府に提供することを申し出ているのです。

 

アヘン戦争における「清国」の敗北は

幕府にも衝撃として受け止められたことは、

前に触れたとおりです。

この「別段風説書」は、

1840年~1857年まで幕府に提出されていました。

この内容は、ヨーロッパの最新情報もあり、
 

「議会」や「条約」、「植民地」など

いわゆる市民革命やヨーロッパの海外への動き

についての情報も得ることができました。

 

ただ、得たとしても
翻訳に相当な困難があったようです。

見たことも聞いたこともないことばです。

 

恐らく、翻訳したとしても
その本質を理解することは

不可能だったかもしれません。

当初の目的は、

アヘン戦争の内容を伝えることであったようです。
そしてこのアヘン戦争の情報をかなり詳しく知り得ています。

中国 イギリス

 

それ以降も様々な情報が報告されています。

この中にペリー来航の情報、
目的や来航する艦名まで報告があり、
幕府はそれを知り得ていたのです。

 

オランダの国王は、日本に

一度ならず二度までも「開国」を勧めています。

この情報得て、数年の猶予があったはずです。

 

ご存じの通り、幕府はこれを拒否し、

何ら準備することなくペリー来航を迎えます。

なぜなのでしょうか。  

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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