南北朝ともに歴史が正当性を主張

 

今日は節分で、節分は立春の前日となっています。
旧暦では1年の最後が今日で明日から新年。

omさんという方のブログを訪問していたら
「別府」の写真で菜の花や水仙が咲いています。(参考↓)

 

その風景写真がすでに春らしく美しく素敵で
おもわず、希望が湧いてくる、とともに
我が日本海側は、今日は(今日も)暴風雪で真っ白です。
と日本列島が南北に長いことをコメントしました。

ちなみに「別府」とあったので大分ですね、と訊ねたら
山口県美祢市だということを教えていただきました。
「別府」というと大分という先入観でした。
失礼いたしました。

立春は、ここではかなり遠いと思っていましたが
すぐそこにあったということです。

何か些細なことが人を救ってくれることもある
だから希望を捨ててはいけない

 

私も含めて
生きていると誰しも苦しいことも必ずあります。

 

山路きて 何やらゆかし すみれ草

 

松尾芭蕉が詠んだ、誰もが気づかないような

小さなことに感動する力こそ

日本人のすばらしさであり底力だと

渡部昇一氏が述べていたことを思い出しました。

 

この空の向こうの能登の方たちに静かにエールを送ります。

元寇もその大きな事件の一つでしたが、
日本も歴史の中でなんどかその歴史の灯火が
消えそうなことが何度かありました。

 

しかし、この日本という国は

必ずそのたびに甦って繁栄を築いてきました。

南北朝動乱や戦国時代は、
室町時代を挟んで、日本の歴史の中では
特異な時代だと思います。

 

建武の新政が短命で終わったのは

京都と吉野に二つの朝廷

 

  建武の新政が短命で終わったのは


朝廷に権威のみならず、政治的権力も取り戻す
後醍醐天皇は、

朱子学の趣旨からもそう決めたのだと思います。

では、朝廷を支えてきた貴族たちにとっては
有益であったかというとそうでもないようなのです。

例えば、これまで中央八省の上に摂政、関白の地位があり、
また太政大臣もいました。

彼らが基本的に日本政治を方向づけ、
政策を決定してきたことは事実です。いわば合議制です。

ここにも「和を以て貴しと為す」は生きていますが、
これを廃止し、彼らを八省の長官にしてしまいました。

事実上の降格といってもよいと思います。
 
さらに、消失して仮住まいしていた「里内裏」を
平安時代のような大内裏(宮殿)にしようと、
「大内裏再建計画」で大増税を行いました。

これには、側近の貴族も大反対したということです。
貴族たちでさえ、
「民が苦しんでいるのにあってはならない」ということで
何度も諫言したが聞き入れてもらえず、
政界を引退した者もいたということです。
南北朝 歴史 
 

  京都と吉野に二つの朝廷

 

ここまで読んでおわかりのとおり、
後醍醐天皇が試みようとした理想は、

どうも
これまでの実態を完全に無視した独走
ということになります。

決定的な失敗は、
こうした非常事態にもかかわらず、
直属の軍すらなかったということです。
 

武士は、あくまで武装農民であり、
その棟梁を柱に一所懸命において忠誠を尽くす集団であり、
天皇のための軍ではありません。

天皇という権威が、
征夷大将軍という権力にその政権を
「委任」することで成り立ってきたのが
これまで鎌倉幕府でした。

幕府は消滅しましたが、
武士は依然として力をもったままである事実は、
時代のうねりとして存在しています。
 
いっそうの期待が
源氏の血筋を引く足利尊氏に集まります。
尊氏は、後醍醐天皇が取り消した「土地所有取り消し」を
取り消しました。
  
ちなみに、
日本では天皇家と最下層の身分には姓はなく、
貴族だけにありました。

「姓」はもともと天皇が与える役職である
「カバネ」でしたが、
それを一族で担うので、
だんだん一族の血筋「氏族」を表すようになります。
「源」もその一つです。

「姓」の数が少ないと個人の特定も困難になり、
土地にちなんだ「名字」が平安時代に、
詳細な「血縁や家族」がわかるように江戸時代頃に
「苗字」が出てきました。

足利尊氏は、
「姓」が源氏、
現在の栃木県足利市に由来する

「名字」が足利ということになります。

正式名称は「足利又太郎源尊氏」ということです。
  
足利尊氏は、弟の直義らにも促されて決断し、
光明天皇を、京都に立てます。

後醍醐天皇は、奈良県の吉野に逃れて、
ここに南北朝の動乱が始まり、60年ほど続きます。

もともと鎌倉時代の末期に
持明院統系と大覚寺統系のどちらが天皇に就くか対立があり、
交互に位に就く両統迭立ことになっていましたが、

後醍醐天皇が即位してからはそれがなされていませんでした。
その隙を突いたということになります。

 

この時代を描いた「太平記」は有名です。

ほかにも

 

南朝の正当性を述べた、北畠親房「神皇正統記」

 

これに対して足利尊氏の立場にたった

「梅松論」

 

は、まさに真っ向からその見方が異なります。

 

さらに慈円「愚管抄」も

優れた歴史書とされています。

      

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

 
 

 

 

 

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