青年には成功と名声への野心があり、少女には愛と自立への渇望があった。
二人の秘めた思惑が交差する時、それぞれが目指した未来の行方は・・?
それは、「Primavera(春)」の名を冠する名曲誕生の裏に、あったかもしれない一つの物語。
ブロ友さんのご紹介で知ったこの映画。

「ヴィヴァルディと私」
ヴェネツィア?
ヴィヴァルディ?
ピエタ院?
記事を拝読しながら、久しぶりに沸いたこの感情。
これ、絶対見た〜い!
理由はこれ。


萩尾望都以後、私が熱心に読んだ少女漫画家は3人いるんですが、森川久美はそのうちの一人でした。
本格的な西洋画を思わせる耽美的絵柄と、一種退廃的とも言える詩情豊かなストーリーに心を鷲掴みされ、一時期はかなり熱心に読んでいました。
このコミックスの表題作でもある「ヴェネチア風琴」は、そんな森川作品の中でも1・2位を争うほど大好きな漫画で、その中に件のピエタ院が出てくるんです。

ピエタ院のことを初めて知ったのも、おそらくこの作品でだったかと思います。

1978年!
この漫画が出版されて、もう半世紀近くにもなるんですね💧
そして、この漫画と共にもう一つ思い出したのがこの本。
ヴェネツィア共和国1000年の興亡を描いたこの小説(?と言えるのかな?寧ろ歴史ドキュメンタリー、或いはルポルタージュ的な?)「海の都の物語」。
この中にも、こんなタイトルの章があったことを思い出し。

更には。
これも、もう10年以上前になりますが、図書館で借りて読んで、いたく感動したことからその後文庫本で購入した小説。

その名も「ピエタ」。
かつてヴェネツィアに存在した孤児養育施設「ピエタ院」で少女期を過ごした2人の女性が、恩師であるヴィヴァルディの死にまつわる謎をめぐって・・。
というような、いわばシスターフッド的な要素も見られるこの小説をきっかけに、物語の軸ともされるヴィヴァルディの生涯にも興味が湧いてちょっと調べてみたところ・・。
今では中学生でも知ってるクラシックの大家とされるヴィヴァルディが、ヴェネツィアを出た後流浪を重ね、最期はウィーンで貧困の中に客死した後、その遺骸は共同墓地に打ち捨てられたという、思いもよらない顛末に少なからず驚いてしまいました。
なんだか、モーツァルトの最期を連想させるところもあり・・。
更にこれもびっくりしたことですが、なんとその後約200年近く忘れられていたとのことで、それが前世紀半ばに突如として多くの楽譜が発見されたことから奇跡的に復活!
これって、「プルーストの『失われた時を求めて』をきっかけに再発見されたフェルメール」的なエピソードにも通ずるものが・・。
それはともあれ、そんな復活劇を経て、ヴィヴァルディの業績が徐々に知られるようになり、中でも「協奏曲・四季」は、皆様ご存知の通り今ではクラシックの名曲になったという訳です。
それにしても、ヴィヴァルディってなかなかドラマティックな人生を送ってたんですね💧
そんなヴィヴァルディがその人生の大半を司祭&楽団指揮者として過ごしていたとされるピエタ院とは。
わかりやすく言うと、今で言う赤ちゃんポストが設けられた孤児院ということになります。
今でもそうですが、ヴェネツィアの主要産業は観光であり、この物語が描かれる当時もそれは変わらず。
そして、観光地であるということは同時に、ヴェネツィアは世界屈指の歓楽の都でもあったという訳で、華やかな世界には自ずとその裏面性とも言える暗部を抱えており、それが少なからず存在した孤児(捨て子)だったと言えるかもしれません。
そんな事態を重く見た共和国政府により、ヴェネツィアには多い時には4つの慈善院(孤児院)が建てられてあったとも。
ピエタ院はそんな慈善院の一つでした。
そこで育てられた孤児の将来としては、男子ならば10代半ばあたりから徒弟業等に従事することによって身を立て院を出ていくことがほとんどだったようですが、女子の場合は少し違ってたようです。
音楽的才能を見出された者は、院付属の合奏団・合唱団の一員として日曜ミサ等での演奏会に参加し、中には望まれて貴族と結婚する場合や、或いは合奏・合唱のスペシャリストとして院内に留まり楽団活動を続ける者も少なからずいたようです。
女性が活躍できる機会がほぼほぼなかったあの時代、それはある意味、女性が自立できる数少ない手段の一つだったと言えるでしょう。
この映画の主人公である少女も、自分を置いていった母親への愛憎を心の奥底に秘めながらも、まだ見ぬ将来への希望と時として押し寄せる絶望との狭間で揺れていました。
ただ、少女には人並み以上に秀でたヴァイオリン奏者としての才があり、その才能と美貌が武器になることを薄々感じながらも、しかしながら母親を未だ密かに恋い慕う彼女にとっては、その才能はさほど大きな意味を持つことには至らず・・。
そんな時に現れたのが、一見病弱そうで風貌も冴えず、野心とはおよそ程遠いという印象さえをも周囲に与えていた若きヴィヴァルディでした。

しかし、この青年もまた少女と同様、己の将来を未だ見定めることのできない不安と焦燥を抱えており、そんな彼が少女の才能に目を留めたことから物語が動き始めます。
と、ここまで書くと、何やら華やかなラブロマンスを連想するかもしれませんが、そこは、透徹したリアリズムとシニカルな人間関係を描くのには長けたヨーロッパ映画ですので、ことはそう単純ではありません。
場面背景も、今私たちが思い描くような明るく華やかなヴェネツィアとはいささか趣が異なり、例えばヴェネツィアの代名詞とも言える運河も、こんな憂鬱な感じで描かれています。

何しろ、映画冒頭からしてなかなかショッキングな場面が描かれており、ブロ友さんもおっしゃってましたが、「この施設でそれをする?」的な驚きに、思わず目をパチクリ!
でも、逆に、その冒頭の場面こそまさに、ここピエタ院でしか生きることの叶わなかった少女たちの「一つ間違えればあったかもしれないもう一つの残酷な現実」を象徴していたと言えなくもなく。
と、こんな書き方をすると何やら判じ物のような感じになってしまって、お読みくださってる方々としては???だとは思うんですが。
少しだけ書くと・・。
生まれたばかりの子猫たちが頭陀袋に入れられて・・💧
さて、一見野心のなさそうなヴィヴァルディでしたが、少女の才能を発見したことから、自分でも予想しなかった輝かしい未来への可能性が見えてきます。
そして、その熱が少女にも伝染するがごとく、彼女もまた、それまでは諦めていた未来を夢見るようになるのですが、それが更に新たな悲劇を招くことに・・。
そんな中で、この映画においての最も印象的で美しい場面は、おそらくこれかもしれません。

春の息吹の中で少女が演奏する音色に、あの名曲のあのフレーズがかすかにダブって聴こえるという演出も絶妙で、それだけにその音色は、後に彼女に起こる悲劇への予兆(プレリュード)のようにも聴こえなくもなく・・。
そんな意味においても、この映画はやはり音楽映画なのだと思われ、映画の原題が「Primavera(春)」であることにこそ、本質的な意味が込められていることを暗示しているような気がしています。
全てが目覚める春。
その春の風は、時に優しく、時に猛々しく、そして思いもかけない方向へと少女を連れ去っていくことになるのですが。

その果てにあるものは、希望?
それとも・・?
答えは、観客に委ねられたままに・・。
クラシックでロマンチックな映像も確かに見応えありましたが、そこに内在された主題はその映像の美しさを裏切るが如く、現代女性が抱える貧困や生きづらさに通ずるものが描かれており、そんな意味でもとてもいい映画だったと思います。
ちなみにこの映画、当市のシネコンでは上映予定がなく残念な思いだったんですが、ネット検索してみたら、山口市のミニシアターで7月下旬から8月初旬まで期間限定上映されることを知り、先月末に観に行った次第です。
今回の件があるまで、山口市にそんなミニシアターがあることを迂闊にも知らなかったんですが、今後も興味深い映画が上映されるようで、楽しみがまた一つ増えて嬉しく思っています。
ところで、森川久美ですが。
この作品も大好きでした。



タイトルからして退廃の極みですが💧
この表題作が特に秀逸で、なかなか含蓄あるこんなセリフに唸らされた記憶があります。
「そうよ、あなたの絵は彼が生きてたら描いてたはずの絵よ。不満なの?芸術とやらがあなたに金を与え食わせてくれるまで何年何十年かかると思って?」
ふと、モディリアーニや松本竣介を連想した私です💧
今回久しぶりに森川作品を引っ張り出してみたら・・。


え〜?!
こんなにあったの〜?!
