荘厳な美しい響きと深い意味の「君が代」

 

だいぶ前に次のようなweb上の記事を見つけました。

山田耕作の証言
「山田耕作氏が若くしてドイツに留学していたときのことだそうだが、その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界のおもな儀礼曲について品定めをしたことがあったという。その結果、第一位にあげられたものは、実に君が代曲であったそうである。この話は、芝祐泰氏が、山田氏から直接に聞いたものだと、わたしに聞かせてくれたのである」(P243)

『日本国国歌正説』佐藤仙一郎著 全音楽譜出版社 1974 
        レファレンス  共同データベース 国立国会図書館   より
      [URL]   https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000188482

 

「国歌」君が代 については、

2020年10月17日にも載せていますが、

今日は、これまでの本ブログの流れに沿って

再編集してお伝えします。

 

なにしろ、この時の私のブログへの訪問者は

一桁のわずかな方だけでしたので、

今回は、より多くの方に知って戴きたいと

という想いを込めてお伝えします。

 

古来より歌い継がれてきたのが「君が代」

「君が代」は平和と永遠の繁栄への祈り

 

  古来より歌い継がれてきたのが「君が代」

 

「君が代」(きみがよ)は、10世紀初め、

最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の

「読人知らず」の和歌が最初の歌詞だといわれています。


 

『古今集』賀の巻頭にある、

  「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

が、私が調べた段階での出典のようです。

 

 「我が君は」とありますから、

平安時代という背景も考えると、

天皇の長寿を願い、かつお祝いしたもの

と考えられるのは確かだと思います。

 

その後、新撰和歌集にも、和漢朗詠集にも、

その他数々の歌集にも載せられ、

神社のお祭りや仏の供養、酒宴の席でも、

盲目の乙女の物乞いにも歌われたとありました。
 

ちなみに、「我が君」が「君が代」となる完全な一致は、

「和漢朗詠集」の鎌倉時代初期のものが

最古といわれているようです。

 

1869(明治2)年、

来日していたイギリス歩兵隊の軍楽長、

ジョン・ウィリアム・フェントン氏が、

「国際的にも儀礼音楽が必要だ」と

曲を付けるよう薩摩藩大山巌氏に進言したいうことです。

 

大山氏は、

薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている

「君が代」を選んだとなっています。
 

1880(明治13)年、

宮内省雅樂課、奥好義氏の作品が選ばれ、

雅楽を奏する林広守氏が補作して、発表されました。

 

さらに、ドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトが

西洋和声に編曲したのが、その成り立ちです。

 
1893(明治26)年の

文部省文部大臣井上毅の告示以降、

儀式に使用され、

 

1930(昭和5)年には国歌とされ

(この辺ははっきりしないところもありますが)、

その演奏は、

国立国会図書館デジタルコレクションでも確認できました。

 

その時の歌詞は、もちろん「君が代」となっています。
                                    

 

1999(平成11)年に

「国旗及び国歌に関する法律」で

正式に日本の国歌として法制化された、

世界で最も古い歌詞をもつ、

最も短い国歌であると

多くのところで述べられています。

 

 

  「君が代」は平和と永遠の繁栄への祈り

 

 「君が代」が軍国主義の象徴として

国家としてふさわしくないという考え方は、

私の中学校時代ころにはありましたし、

現在でもそう考えている方はおられるようです。
 

「私自身は、戦争中、友人を殴打、足蹴にしてはばからぬ軍人や軍国主義的教官の横暴を体験しており、その背景にたえず存在した日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることは断じてできない」

(「日本」とは何か 日本の歴史 講談社)

 

と中世の歴史の大家でもあられる

網野善彦氏が断じておられます。

 

自らの命をかけて戦っている国民の命を粗末に扱ったと、特攻に典型的に現れる例の一つとしていわれます。そうした軍の体質については、山本七平氏ほか多くの戦争経験者が述べられていることです。

(こうした軍の体質についてはいつかまた別の機会を見たいと思います。)

 

現に私の母の兄も餓死に近い病死であり、

その記録を送ってくださった方は、

大本営に見捨てられたと記しておられます。

 

もとより、10万人中9万人が亡くなったといわれる

ニューギニア島です。

 

母の兄は享年21歳の若さでした。

母が生前、戦争をことのほか嫌悪していたことがよく理解できます。
 

私自身、日本が悪かったのだという歴史を学んできました。

 

しかし、自分が教える側に立ってさらに学んでいくうちに、

自分が学んできたこの国の歴史の真実がどこにあるか、

自分の頭で考えるようになりました。

 

吉田満著「戦艦大和ノ最期」(講談社文芸文庫)に出会い

読み進むにつれ、

 

では、死んでいった当時の多くは20代の若者が皆

自分は犠牲者だと

考えていたとは決して思えない

とも思うようになってきました。

 

 

このことは戦争を美化していることではありません。

この作品は対米英戦争終戦も間もない時期に

世に出ましたが、

戦争肯定、戦争美化と酷評されたといいます。

 

この「戦艦大和ノ最期」の著者吉田満氏は

 

これから死が確実に待っているその直前

人生の最として何とか生き甲斐を見いだそうと

戦いの意味を否定的にはとらえようとしない。

 

そう私は理解したのです。

 

自分が日本のために命を捨てることが

家族や同胞のためであり

それが必ずや未来につながると信ずる

 

と、戦争の実相を知らない私がそのどの程度を

理解しているかは自信はありませんが、

 

そういう覚悟であったことはまちがいありません。↓

 

 今、私は次のように考えています。
 

人の一生は、その多くが、清廉、潔白で一点の曇りもない人などない。

真・善・美を理想としながらも、傷つけ、傷つきながら、失敗しながらもその一生を全うしようとするものだと思います。ダルマ

                            

国家も同じように、人格(体質)があり、

「君が代(日の丸も含めて)」は、 

その長い歴史の中で過ちや誤解、失敗をしながらも、

理想の実現に近づこうとしているのではないでしょうか。

 

もう一歩進んで

先の対米英戦争に関して

日本が戦いを望んでいたとは

とうてい考えられないのです。

 

座して死を待つことはできない。

やむにやまれず、せざるをえなかった

というのが、現在の私の立ち位置です。↓

 

戦争を(日本だけではなく人類の)過ちとすれば、

「君が代」もそれに利用されたのであって、

「君が代」そのものは、

解釈はいくつかあるようですが、基本的には、古来より

       君が代は 

       千代に八千代に 

       さざれ石の 

       いわおとなりて 

       苔のむすまで

 という人々の平和と永遠を願うものと思っています。

 

失礼ながら、全ての国家においてあの国だけは、

歴史上、人道上、何一つ間違いがなかった、

全ての国民と世界の人々にとって何一つ過ちなどなかった、

といえる国家などどこにもないでしょう。

 

自分の妻(夫)を愛するということは、

欠点も含めてそれまでの人生全てを包み込んで

認めることに他なりません。

私は国家も同じだと思います。日本  

 

愛するということは、努力がいることだと思います。

年をとるにつれて、実感できるようになっては

きていると想う今日この頃です。

 

天照大神という岩戸をあけてこの世を照らした

太陽の神様を

日本は始まりとしています。

 

アフリカから移動した人類の祖先は

その太陽を目指して極東を目指したという説もあります。

 

日出処はまさに日の本の国であり

ここから太陽が昇るという大陸最も東の国です。

「日章旗」日の丸であり

「君が代」という古来永遠の繁栄を

求め努力してきたのが「日本」だと思います。

 

今日も最後まで読んでいただき、

ありがとうございます。

 

今年もあと二日です。

 

 

 

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