このブログ記事は、深田萌絵(Revatron株式会社 代表取締役社長 浅田麻衣子)氏や彼女の支持者に約7年間もSNSやブログ等で名誉棄損および人権侵害を受け続けている元日本兵で中国残留邦人の藤井治さんの孫、藤井一良(Alpha IT System株式会社)さんやご家族、ご親族の名誉回復の為のブログ記事です。
藤井治さんの生涯は藤井一良さんが2019年6月19日にYouTubeで公開した「藤井一良の出生について「学徒出陣50年」蘇る"わだつみ"-戦後なき学徒兵の秘話- 前半」と「藤井一良の出生について「学徒出陣50年」蘇る"わだつみ"-戦後なき学徒兵の秘話- 後半」のナレーションと登場する方々の証言を基に制作しています。
藤井一良さんの祖父、藤井治さんは1922年(大正11年)、山口県防府市で藤井 恒二さん、藤井 八千乃さんとの間に四人兄弟の長男として生まれました。
1934年(昭和 9年)に父、藤井恒二さんの転勤で中国大陸に渡り、大連第一中学校を卒業した後、早稲田第一高等学院へ進学するため家族と離れ単身東京に住むことになりました。
藤井治さんは1944年(昭和19年)2月、学徒動員で満州の関東軍鉄道第三連隊に配属され再び中国大陸に渡り、関東軍鉄道第三連隊は大陸打通作戦に投入されます。。
打通作戦の目的は当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことです。
その後、藤井治さんは湖南省に転戦するも1945年(昭和20年)8月15日、湖南省にて終戦を迎えました。
当初、関東軍鉄道第三連隊に配属された藤井治さんですが、湖南省で終戦を迎えたとありましたので調べた所、最終的には鉄道第一連隊に編成されていたと思われます。
引用:鉄道連隊の歴史 習志野市
湖南省での戦闘は、笠原幸雄が1945年(昭和20年)4月、自ら野戦指揮官を希望して上月良夫の後任として支那派遣軍第6方面軍第11軍司令官に着任、桂林や湖南省方面で展開していますので確実にあったと言えます。
学徒動員で中国大陸に出兵された元日本兵で中国残留邦人「藤井 治」の生涯 ②に続く
学徒動員で中国大陸に出兵された元日本兵で中国残留邦人「藤井 治」の生涯 ①
学徒動員で中国大陸に出兵された元日本兵で中国残留邦人「藤井 治」の生涯 ②
学徒動員で中国大陸に出兵された元日本兵で中国残留邦人「藤井 治」の生涯 ③
学徒動員で中国大陸に出兵された元日本兵で中国残留邦人「藤井 治」の生涯 ④
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