下記の記事は
2015年06月16日(火)掲載の
「主観」と「主観」の接点… (2つの主観の大きな溝)に修正加筆したものです。
「病気が治る」とはどういうことか、「精神科医」と「患者」ではその認識に大きな違いがある。
そしてそれが精神医療の臨床現場において、様々な「齟齬」を生む原因となっている。
多くの精神科医は、心の病を「慢性疾患なので一生クスリを飲まなければならない。
だから、障害を受け入れ、服薬しながら生活する」ことが「病気が治る」ことだと信じている。
一方で患者は「今の辛い症状は、一時的な脳機能の“暴走”または“機能不全”だから、
副作用のある精神科治療薬を飲み続けることなく以前の生活を取り戻したい」
つまり脳は壊れてなどいないので、以前の精神科治療薬を服薬しない生活が「病気が治る」ことである。
この二つの主観の「相違の溝」を埋める事は困難である。
何度も書いていることだが、科学的な「医学」とは、主観や独断を排除し、
科学的な検査やデータによって「検証可能」なものでなければならない。
精神疾患は脳内物質のアンバランスが原因による「壊れた脳」だと主張する「生物学的精神医学派」は、
DSM(1)を自画自賛することによって「医学の体」をなそうとした。
しかしDSMによる診断基準は、臨床経過、転帰、治療反応などの重要な関連要因のデータによって、
充分に検証されているわけでは全くない。
DSMは科学的根拠のある分類システムというより精神医学会の政策方針書のようなものである。
どこまでが感情の「状態」で、どこからが「疾患」だとする「境界線」は、
各々の精神科医の「主観的」かつ「独断的」なものである。
精神科の扉を叩いてしまえば、
そこには「独断と主観」による診療が「医療」だと信じる科学とは異次元の精神科医が座っている。
臨床現場の精神科医は、患者の「主観的」症状に対処しなければならない。
「不安だ…」「疲れやすい…」「眠れない…」 これらは各々の患者でその度合いは異なる。
通常なら本人も「感情の起伏」だと思うような状態も、
疾病喧伝に影響されれば「心の病かな?」と思ってしまう。
「疲れやすい…」と感じる原因は人によって異なる。
不摂生な生活で「疲れた」のか、食生活が原因の「疲れ」なのか、
内臓の疾患が原因の「疲れ」なのかもしれない。
「不安だ…」と感じる度合いも人によって千差万別である。
「ガスコンロを消したかな?」という不安と、「誰かに恨まれて刺されるかも…」という不安は根本的に違う。
だが、執拗に「ガスコンロを消したかな?」という不安が頭から離れない人もいれば、
他人の言動を被害妄想的に捉え「恨まれて刺される…」と恐怖に似た不安を感じる人もいるのだろう。
「眠れない…」といっても、数日間全く眠れないのか、
それとも毎日6時間眠っていた人が3時間で目覚めてしまうことを「眠れない…」と言っているのか…
異なった症状であるのに、診察室では同じように「眠れないんです…」と訴える。
症状を分かって欲しくて大袈裟に話す人もいれば、何も話したくないほどに疲れた人もいる。
「病名」が定まらなければ「治療」は始まらない。 そのことに異論をはさむつもりはない。
「病名」が定まらなければ、その後の手続き(休職願、保険申請、障害年金etc)に支障をきたすことも分かっている。
私の場合、
三人目の精神科医は簡単な問診だけで「病名」を決めた。
何とかカルテを手に入れて分かったことなのだが、
そこには「うつ病」と「十二指腸潰瘍」と記載されていた。
レントゲンも撮らずに「十二指腸潰瘍」とは驚く診断だが、その背景には、
あの悪名高い「ドグマチール」を処方したいという何らかの理由があったのだろうか…
今となっては知る術もない。
精神医療においては、
その症状の背景で受診に訪れた患者に「何が起こっているか?」を充分配慮しなければならないのに、
精神科医も患者も「病名」探しのために「どこが悪いか?」だけに焦点を当て、
互いの「主観」による断片的な意見を交換するだけだ。
その結果、向精神薬の処方以外の治療手段を閉ざしているのが現状である。
「主観」と「主観」の接点、それが精神科の診察室なのだ。
nico
(1)DSMの正式名称は「Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders」
頭文字をとり、略して「DSM」と呼ばれており、日本語に訳すと「精神疾患の診断・統計マニュアル」、米国精神医学会が発行している。。「DSM」は、精神疾患の治療をしたり、精神医学の研究をおこなっている人へ、精神疾患の基本的な定義を記したもの。世界共通の診断基準として用いられており、日本においても多くの病院で使われている。