1936年11月に日独防共協定が締結された。両国の関係強化の一環として、ドイツから派遣されたのがヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)の一行30名であった。
1938年8月16日から10月1日までの全滞在が89日の長い旅程で、1道3府25県、日本全国まさに津々浦浦各地を訪問した。東京はまだ東京府であった。
筆者はすでに彼らの軽井沢の訪問について書いたが、本編では鎌倉を中心とした訪問について述べる。そこには今にも続く国際交流の難しさが表面化したり、今読んでも興味深い出来事であった。
各県の県知事は、訪問の様子を内務、外務、文部省大臣宛に報告した。神奈川県の半井清知事の報告から拾って、他の史料などともに、筆者の補足を加える。
<一行の行程>
9月22日
一行29名は横浜市内の見学を済ませ、鎌倉駅に到着後午後5時に「海浜ホテル」に入り、6時半より、同ホテルで県招待の晩餐会を催した。
→一行の到着はどこの県も盛大に迎えた。鎌倉駅前には日本の青年団、各小学校赤十字少年団、師範学校、鎌女、実践女学校の生徒など計2030名が出迎えた。そして町長の発生で「万歳」の歓迎の言葉を受けて、ホテルに向かう。2030名という端数は各部門からの報告の教育関係の足し上げ数字で一般の人を加えると5000名に達したという。(『鎌倉市史』より)
あの鎌倉駅前のローターリーが今とさほど変わらないとすれば、ものすごい混雑であったはずだ。各県知事は歓迎人数を伝えていて、長野県の軽井沢駅では1000人、山梨県の甲府駅が500人であった。
同じ時期、「大日本青年団」という日本の同様の若者の組織がドイツを訪問したが、首都のベルリンでさえ、駅で迎えたのは数十人だけであったという。日本側の歓迎ぶりが突出していた。
そして宿泊所となる「鎌倉海浜ホテル」は由比ガ浜にあった、当時唯一の外国人向けホテルである。夏目漱石の「こころ」の中で、由比ガ浜の場面で登場するホテルがこの海浜ホテルであるという。1945年12月24日に米兵の不注意で、倒したストーブで焼失した。
海浜ホテルのあった場所の現在。記念碑と江ノ電の「タンコロ」(1931年製)が展示されている。
9月23日
横須賀に向かい、港の施設他を見学し4時22分に鎌倉に戻り、海浜ホテルに入る。
→町では一行の慰安のためにボート10隻を海岸に備えておいた。横須賀には外国人向けの良いホテルがなかったので、海浜ホテルが宿泊のベースとなったか。
9月24日
午前8時半より9時半までホテルで鎌倉に関する講演を聞き、10時に車に分乗し、鶴ケ岡八幡宮、建長寺、長谷大仏などを見学する。午後は鎌倉山の長尾欣弥氏邸において、同氏招待の午餐に出席し、午後4時ころ海浜ホテルに戻り、地引網を見物した。
→鎌倉山の長尾欣弥とは製薬会社「わかもと(若素)」の創設者で、同名の総合保健薬の成功で巨万の富を築いた。
彼は鎌倉山に13万坪の用地を取得し、建てた別荘は「扇湖山荘」と呼ばれ、現存している。近衛文麿がこの名付け親で、隣に別荘を持っていたという。戦後はアメリカ第8軍のアイケルバーガー将軍が気に入り、借り上げた。
9月25日
連日の疲労を癒すため鎌倉海浜のテルにおいて終日休養。
9月26日
午前中引き続き休養し、午後1時21分鎌倉駅発、一同元気に東京に向かう。
<真鍋良一のレポート>
「ヒトラーユーゲント覚書 外務省調査部第二課(真鍋)」という記録が外交史料に残っている。
書いたのは真鍋良一である。彼はヒトラーユーゲントの一行に同行し、日本語をドイツ語に訳する役を一人で任された。記録ではなかなか率直にドイツ側、日本側の問題などを指摘している。
なお彼の経歴は面白い。大学でドイツ語を教えていた真鍋は、外務省がドイツ、イタリアの研究を強化するというので、ドイツ時代に親しくした牛場信彦に誘われ、1938年外務省に入った。そしてその年にヒトラーユーゲント訪日団に同行した。
彼はヒトラーの「我が闘争」の日本語訳などを担当したためか、敗戦とともに戦犯として捕らえられ、3年間巣鴨に収監される。
3か月共に暮らした気付いたこととして、次のようなことを書いている。繰り返すが彼は外務省ではキャリア組ではないためか、かなりフランクな記述だ。
1 ドイツ側の欠点は日本に関する予備知識の全然ないことである。何も知らないと実に情けない位の事もあった。
その意味で鎌倉で約1時間を割いて、亀田氏が「鎌倉武士について」の講演をしたのは非常に良かった。彼らの目に初めて「保養地」以外の意義ある鎌倉が映ってきた。
→亀田氏は亀田輝時で「鎌倉文化研究会」発足の重要人物。
2 日本政府の招待だが、受け入れ者には民間の資本(会社)が入ってきていると、ドイツ側が気づいて指摘した。「わかもと」の招待を受け「扇湖山荘」を訪問したが、その時「茶の湯」の見学があった。
まずは文部省が「茶の湯」は(どこかで)見学させていただきたいという希望を述べたが、何故に「わかもと」を選んだかという疑念である。
文部省からは「わかもと」からは金銭上の補助は受けなかったというが、「わかもと」は最近非常に日独関係に肩を入れ、(文部省が関係する?)交換学生か何かの件に20万円寄付して、その代わりにドイツから「わかもと」の原料を安く手に入れるという話も聞いている。あるいは寄付が入っているかもしれない。
→第一次世界大戦で、ビールの絞り糟を食べていたドイツ兵は、病人が少なかったと伝わった。そこに目を付けて開発された「わかまつ」の原料は、ドイツから輸入したビールの絞り糟であったという。
長尾は巨万の富を得た。それに対する感謝の気持ちで、ドイツの若者を自宅に招いたのかもしれないが、彼の行為に利権を感じた人間もいた様だ。
こういう文章を書いて外務省に提出した訳だが、文部省から苦情は出なかったのであろうか?
3 彼らが藤沢、熱海、箱根行きを中止して鎌倉で数日保養したのを見て、神奈川県の役人がヒトラーユーゲントは頑張りが足りない、見掛け倒しだと怒ったのも、あながち当たらぬ批評とも言えない。日本人なら疲れていても頑張り通す。
→海浜ホテルで1日半の休養日があったのは、急遽ドイツ側の求めで決まったのであった。連日の歓迎で疲れも溜まっていたのであろう。当初、
24日は熱海ホテルで静岡県主催晩餐会の後宿泊
25日は十国峠経由箱根に向かい箱根ホテルに宿泊
26日は湖水にてマス釣り
等が予定されていた。しっかりと準備をしてきた関係者が怒ったのも頷ける。
4 団長のシュルツェが夫人を連れてきたことは日本人にはあまりよい感じを与えなかった。彼は法隆寺見学をすますと、一行を副団長に託して、団長は夫人とタクシーで奈良へ帰ってしまう。
→ラインホルト・シュルツェは日本のドイツ大使館駐在の文化部長で、ヒトラーユーゲントの日本支部長であった。こうした公務への夫人同伴は当時の日本社会では受けられなかった。ドイツの若者の一部もそう考えた。シュルツェとしては、3か月も夫人を日本で一人にしておけなかったのかもしれない。
真鍋はこう書いている。
「(自分の通訳の仕事は)実にあちこちで恥をかき、へたくそな奴だと思われ、時には褒められた」
まさに現代にも通じる、国際親善交流の悲喜こもごもの、ヒトラーユーゲントの日本訪問であった。
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