今回の神戸訪問の中で特に訪問したかった所はクラブ・コンコルディア跡。先の大戦の終わりまでクラブの建物あった場所は、現在メディセオ北野坂ビルとなっている。そしてクラブ・コンコルディア当時の礎石銅版が塀の一角に保存されているからだ。

 

 

そこには次のように書かれてる。左側のドイツ語は

「クラブ・コンコルディアの建物の礎石

1926年5月1日、

以下3名の名前(略)」

日本のビルに「定礎」と埋め込まれているものと同じ位置づけである。

 

右側の日本語は

「ドイツクラブ(コンコルディア)跡

左の銅板はドイツクラブの礎石として埋設されていたものを本館改築に際して発掘、記念のために保存したものです 昭和56(1981)年12月」と、土地を買収した株式会社三星堂の名で彫られている。数少ない終戦までのドイツ人の痕跡だ。

 

居留ドイツ人の親睦組織としてクラブ・コンコルディアが京町79番地に設立されたのは1879年であった。会員数は38名で内7名はオランダ人であった。

1896年に焼失し、翌年新しい建物を東町117番に建てた。1918年、第一次世界大戦でドイツが敗北すると日本政府によって接収される。会員数も63名まで落ち込む。以降はドイツ領事館の建物内などを利用する。

 

その後1927年に山本通り2丁目に建てられた鉄筋コンクリートの建物が、1945年に連合軍によって接収されるまで使われた。1929年には会員数が173名まで増える。

 

GHQが終戦直後に移した写真によれば空襲による全壊は免れた様だ。

戦前の写真と比べると手前の壁の曲線がそのままである。

 

この建物にはドイツ人学校も入った。しかし手狭になると予想して1936年に北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てたが、1945年6月5日に爆撃で校舎は破壊される。

(以上、主として「Die Deutschen in Kobe (神戸のドイツ人)」 オットー・レファートより)

 

当時の史料に出ている生田区北野町3丁目53の場所は特定出来ていないが、ドイツ人学校については戦時下の「ドイツ人学校神戸」の疎開(終戦直後の写真付き)で詳しく述べた。

 

同じ港町で開港当時から栄えた横浜には1863年に同様の組織、クルップ・ゲルマニアが設立されている。また「Die Deutschen in Yokohama (横浜のドイツ人)」という本がクルト・マイスナーの手で書かれている。

 

レファートもマイスナーも研究者ではなくビジネスマンであり、1873年に東京で設立されたOAG(ドイツ東洋文化研究協会)のメンバーであった。同時に神戸支部も設立されている。そしてそこでの活動報告が2冊の本としてまとまっている。両市の類似性をよく語っている。

 

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