『ドイツ人学校神戸の100年 1909年~2009年』(100 Jahre Deutsche Schule Kobe 1909 bis 2009, Jürgen Lehmann)という本がある。本人も同校で教鞭をとった方の書いた貴重な本である。末尾を見ると多くの卒業生からの史料の提供があったことが分かる。残念ながら日本語版は無い。そこからをメインに戦時下の学校の様子を紹介する。

 

<戦争の勃発と生徒の増加>

 

ドイツ人学校神戸は1909年に設立された。その後欧州で第二次世界大戦が勃発し、蘭印(現インドネシア)で抑留されていた婦女子が、1941年の夏に日本に避難してきて、そのうち約200名が神戸に暮らすことになる。子供たちは抑留生活の中で教育レベルの差が大きかったので、皆がドイツ人学校に通えるように京都に移り補習を行った。幸い避難者の中には教師エレン・レーヴェライ(Ellen Reverey)がいてそれにあたった。

日本在住のドイツ人ではヤーン三高講師夫人が毎日出張し、ドイツ映画使節として滞在中のエルウィン・トク・ベルツ(エルウィン・ベルツの息子)も世話に当たった。(筆者の『第二次世界大戦下の滞日外国人』)

 

彼らの転入に伴いドイツ学園では62名の生徒が113名に、幼稚園は12名が28名と倍増する。急いで追加の教室を関係者は探し確保した。

 

<疎開>

 

1944年の夏休みは神戸のドイツ人は、多くの時間を疎開地探しに割いた。神戸の東では六甲、岡本、後楽園(相楽園?)、西では塩屋、須摩、垂水である。

学校ではこうした地域に疎開した子供達のため3か所の幼年組用の分校を作った。

1 六甲   六甲山上に疎開したパウル・デール(Dörr)校長が担当

2 塩屋   近くに家のあったミールケ(Mielke)が当たる

3 有馬、武田尾、六甲山  これらの地に疎開した親たちの要望で、物静かなヘルタ・リプケ(Hertha Ripke)婦人が自身の家に集めて授業を行う。

一方上級クラスの生徒の授業は依然市内の本校で行う。本校の住所は生田区北野町5丁目、今も洋館が異人館として残る観光エリアだ。疎開しても子供たちの教育を考えたドイツ人であった。

 

本書ではさらに分校ごとに詳しい説明が続く。関東人として神戸方面に疎い筆者には圧倒的な情報である。東京のドイツ人学校に関しては、ここまでの詳しい情報はないであろう。

 

<終戦>

 

1944年末から空襲が激しくなると、高学年の生徒は可能な限り六甲山ホテルに集めて、寄宿学校を開校する。六甲山ホテルは1927年に開業し、2017年に営業終了となった。

先の蘭印引き揚げの教師エレン・レーヴェライもこちらに疎開している。

空いた学校の建物はドイツ海軍に譲った。神戸にはUボートと補助艦の基地があり、乗組員も多くいた。終戦時には79人の水兵、機関士らが北野町を中心に滞在した。

1945年5月8日にドイツが連合国に降伏しても、学校は以前の(ナチスの影響下の)教科書で続けられた。6月5日の神戸中心部への空襲では学校にも直撃弾が落ちて、ほとんど燃えてしまう。

8月15日、日本は終戦を迎える。神戸市は60%が破壊された。しかしながらドイツ人の犠牲者が出なかったのはまさに奇跡だった。

 

アメリカ軍が進駐してくると、学校ではナチ党に所属する教員が職を奪われた。先述のデールとミールケである。また学校の資産は接収された。若干彼らの肩を持つと、当時はナチ党員にならないと外国の学校で授業を持つことは出来なかった。

 

その後、ナチスとは関係ないとされた数名のドイツ人がアメリカの役人と交渉し、1946年1月には早くも学校を開開できた。同年9月には126名の生徒が、岡本、塩屋、六甲山の3か所で学んだ。

その後1947年1月、ドイツ人の強制送還が始まるころに授業は無くなる。多くの生徒が引き揚げたからだ。

しかしながらドイツ人学校は法律上は存在し続けた。1963年に六甲に移り、今日「神戸ドイツ学院」として続いている。

 

47年の冬からGHQは好ましからぬドイツ人の資産を没収し、状態をチェックした。ドイツ人学校については

「敷地面積428坪(約1,412平方メートル)、北東側と西側の壁が残るが部分的には崩れた瓦礫に覆われている」と記載されている。

見にくいが下がその時に撮影された写真の1枚だ。

 

 

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