ドイツ人学校に関してもGHQの書類から興味深い写真が見つかった。

(国会図書館の許可を得て紹介する。転載はご遠慮ください)


横浜開港後、ドイツ人学校は駐在するドイツ人の子弟教育の場として1904年9月20日に山手248番Bに設立された。生徒数は9名であった。費用のかかる家族での駐在者はドイツ人の場合、あまり増えなかったので、1908年にはドイツ人生徒17名、スイス人10名、デンマーク人1名と小国のスイス人子弟がかなり占めている。


その後の1909年ごろ、学校は新築されたドイツハウス(ブラフ25番地)に移るが1913年3月4日、火災で建物が消失する。そして同年にドイツ海軍病院跡地(山手40,41番)に移る。今は横浜市立元街小学校がある。
1923年の関東大震災で、学校の建物は残ったが多くのドイツ人は横浜を去り東京、神戸に移り住む。ゆえに東京ドイツ学園の授業は12人の生徒と共に1923年11月27日、から一時的に品川のOAG(ドイツ東洋文化研究協会)事務所で部屋を借り再開される。

大森の新校舎は1933年10月2日に落成した。南東京の大森が立地場所に選ばれたのは横浜からも通えるという配慮があったようだ。新校舎の落成式で、校舎の建築士であるマックス・ヒンダーは「差し当たり生徒60名と、園児20名を収容するが、校舎上階を含めると在学生の2倍は収容可能である」と述べた。体育館は120名の生徒を収容し、集会や祭りなどを催すことが出来た。1940年の名簿によれば名簿があり生徒は88人でであった。戦況が日本に不利になる1944年にはハウプトシューレが解散され、主として軽井沢に疎開する。


1933年から1965年までの校舎。終戦直後のGHQによる撮影。空襲による大きな被害は免れた。
新校舎は1967年に落成するが、その間生徒は近くのインターナショナルスクールなどに通う。



終戦直後の構内図。空襲の痕跡の廃材は1950年になってもあったという。

<戦時下の横浜にもあったドイツ学校>

その後終戦を迎え、ドイツ人学校が再開されるのは1953年である。関東大震災後、東京に移ったドイツ人学校であるが、分校のような形で存在していた。
確認できるのは、1940年12月2日 東京ドイツ学園の名義で山手長42番地の木造スレート2階家を取得している。
1941年2月16日読売神奈川版に「“コドモ枢軸”の交歓」の記事が出る。
伊勢佐木町不二家4階ホールで行われ「横浜元街ドイツ学校」の男女十余名も参加しドイツ国歌合唱、、、と載っている。
1943年10月にはドイツ学校があり、イルザ・ブルノッテ (学校長)アウグステ・ケラー (教師)ショウフェルト・オットゲッペ (教師)の名前が載っている。
これら3名の先生はその後軽井沢ではなく、箱根に疎開している。

戦後まもなくアメリカ軍が作成したイラストにはGerman Schoolが載っている。

 

跡地に残る記念のパネル。

 

近くの通りはジャーマン通り

 

参考文献
東京横浜独逸学園ホームページ 
Die Deutschen in Yokohama(Kurt Meißner)

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筆者の出版物

『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』はこちら

『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら