横浜山手のエリスマン邸は何度となく訪問しているお気に入りの洋館だ。アントニン・レーモンドの設計でスイス人のフリッツ・エリスマンの邸宅を、山手127番から移築した。

いつみても白い壁が印象的だ。外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。窓に付けられた扉の緑は、洋館ではよく見るが、本当に良いアクセントである。

彼は日本婦人(石川志満)を妻とし、現在喫茶室になっている部屋の先には夫人のための、床の間のついた立派な和室があったというのも興味深い

 

最初にちゃんと撮影したのは2014年の事であった。この時は超広角レンズを使用して、ぐっと前庭を入れてみた。

 

2019年は外装修復中であった。

 

今回訪問したのは、ここのカフェ・エリスマンにパスタがあると知ったからだ。これまでなんで気づかなかったんだろうと思ったが、2019年の改装時までは別の業者が入っており、それまでは無かったのだと思う。

 

パスタを食べるのはもう一つの”ほぼライフワーク”なので、食レポは後日こちらのブログでする予定。

そしてこの喫茶室の先に和室があったという。

 

エリスマンが横浜支店長を務めたシイベル・ヘグナー社は明治維新前の1865年(慶応元年)、シイベル・ブレンワルド商会として横浜で生糸の貿易を行ったのが始まりで、現在もDKSHの名前で活動を続けている。

 

シイベル・ヘグナー社の痕跡が山下町にある。

1902年と「山下町89番」が記されたエンブレム・ストーンは当時同社を引き継いでいたシイベル・ウォルフ商会のものだが、建物のどの部分に使われていたのかは分からないとのこと。直径1メートル位あるので、相当頑丈な部分に付いていたはずだ。1973年の建物工事中に偶然見つかった。

 

横浜開港資料館横の開港広場には、当時同社が輸入していた大砲が展示されている。幕末には外国商社は幕府のみではなく、地方の藩にも武器を販売していた。

先のエンブレムの隣、山下町90番にあった同社が売れ残りの大砲を展示していたものが、工事中に掘り出された。ただし期待して見に行くと、それほど大したものではない(笑)

こうした遺構にはエリスマンは直接もしくは間接的に関わっていたのであろう。

 

なおエリスマンはアルファベットで書くとFritz Ehrismann、フリッツ・エーリスマンの方が原語に近い気がする。

 

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