松坂屋本店からさらに下り、芦ノ湖元箱根港の向かいの、箱根駅伝のゴールのそばに駅伝ミュージアムがある。ここにはかつてシュミット別荘があった。パウル・シュミットはライカカメラやメルクの医薬品を輸入して財を成した。そして1906年、外国人として最初に箱根に別荘を建てた。

 

別荘は戦後の1986年に箱根ホテルが経営する「レストラン シュミットハウス」となる。箱根ホテルは先に書いたように富士屋ホテルの経営である。そして現在の「箱根駅伝ミュージアム」となるが、運営は引き続き富士屋ホテルである。

現在のミュージアム入口のアーケード。開館当時はEkiden CAFEの文字の横の白い部分に「レストラン シュミットハウス」の文字がうっすらと残っていた。

 

ミュージアムの前に建つシュミットの顕彰碑。説明パネルはないので建てられた年も不明だが、1986年に箱根ホテルの所有に移った頃か。左側にパネルの枠のみ残っているようだ。

 

ここで奇妙なことに気づいた。言われているように顕彰碑は駅伝ミュージアムの前ではなく、実際は隣の土産物店「茶屋本陣 畔屋」の前にある。思い出されるのが、シュミット別荘に滞在したことのあるドイツ人、エドゥアルト・B・レーヴェダックの証言である。彼はこう述べる。

 

「芦ノ湖の岸まで続く庭付きの2戸建て美しい住宅であった。それに小さなボートも持っていた。家の右の部分に彼と彼の客が滞在した。(中略) 他のドイツ人同僚(8、9人)は、台所といくつか寝室のある左の部分に滞在することが出来た」

そう、シュミット別荘は2戸建てであり、その跡地は駅伝ミュージアムだけではなく、土産物店「茶屋本陣 畔屋」もであったというのが、今回気付いた、筆者の新説である。

 

シュミットの顕彰碑の真後ろが「茶屋本陣 畔屋」、右奥が駅伝ミュージアム。

 

GHQの記録に残るシュミット別荘。2棟のうちのひとつ 

原所蔵機関は米国公文書館 国立国会図書館所蔵

 

旧シュミット別荘からほど遠くない所にあるのが、浄土真宗の萬福寺である。門を挟んで右にイギリス出身のお雇い外国人で銀行家の「アラン・シャンド氏縁の地」、左に「箱根学校発祥の地」の石碑がある。

 

 

ここには古谷旅館で亡くなったゲルハルト・クロービッシュ2等兵(専門の方によると「機関上等兵 」と教えていただきました)のお墓があるというので、墓地を探したが見つからない。困ってお寺のベルを押しご住職に訊ねると、わざわざ案内してくれた。

 

ようやくそれは見つかったが、意外と小さな墓石であった。写真は下の様にどれもアップで撮られるから、大きく思えてしまうが、幅は40センチくらいか。

 

帰りがけご住職より「コピーを差し上げる」と言われ少し待つと、1995年にドイツ大使館(領事部)に送った手紙のコピーをいただいた。

「埋葬後50年を経過しましたので、墓苑内に散在している石碑(墓石)6基を整然とまとめて配置することにしたいと考えています」とあり、戦後50年にドイツ人のお墓をまとめた。そして箱根で亡くなった6名の埋葬許可証もあった。

 

箱根で亡くなったのは松坂屋本店裏と合わせた2名のドイツ兵だけではなかった。5名の民間人も疎開中に亡くなり、ここに埋葬されたのであった。彼らは幼児及び、かなり年取った者であった。疎開生活は厳しかった。

 

また手紙には「管理に遺漏なきよう最善を尽くすことはもとより、追善供養をいたして、永く護持して参ります」とも書いてある。萬福寺には感謝しかない。

 

筆者は引き上げる時、「これらのお墓をこれからもしっかりお守りください」と、ご住職に深く頭を下げずにはいられなかった。今回の調査旅行でこれが筆者にとっても最大の収穫で、これまでどこにも書かれていない話であろう。

 

一番奥がクローピッシュ2等兵でその右側の5基が民間ドイツ人のお墓

 

(続く)

 

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