先に箱根の富士屋ホテルの建物を中心に紹介したのに続き、本編では戦時下のホテルの住人(疎開者)について述べる。

 

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告をして第二次世界大戦が始まると、敵国となった外国人は原則抑留される。外交官も例外ではなかった。富士屋ホテルには37名の主に東京の外交官が収容され、本国への送還を待つことになる。英国大使ロバート・クレーギー一家、ベルギー大使一家、オーストラリア公使一家他である。(外交史料館)ただしその後中南米の外交官も加わり70名に及んだ。(『消えた宿泊名簿』より)

 

クレイギー大使は1883年12月6日、香港を基地とするイギリス軍艦の艦長の子として生まれ、幼時には毎年日本の箱根で夏を過ごしたという。その時の滞在先はやはり富士屋ホテルであったかと推測される。

 

富士屋ホテル本館入口付近

 

彼らに対する日本政府の対応は丁寧であった。日本の外交官が同様にこれらの国で抑留されたから、日本がひどい対応をとると、同僚も同じ目に合う危険があった。その後1942年7月、英国の外交官は戦時交換船で母国に戻った。

 

次に宿泊者が分かるのは1944年4月の疎開者である。タイ、フィリピン、中華民国などの外交官がいた。表向きの日本の同盟国の外交官は、その大東亜政策になるべく巻き込まれまいと、早めに疎開をしたか。

そこにイタリア外交官の2家族の名前もある。日本政府が正式に外交官の疎開を決める前なので、かれらイタリア外交官一家は主人が病気療養等の目的で早くからの滞在となったか。

 

外交官の疎開が始まるのは44年7月である。中立国は軽井沢、枢軸国は箱根方面という指針が出された。日本政府は中立国と枢軸国の接触を、機密保持の観点から好ましく思っていなかった。

 

イタリア代理大使プリンチピニ一家、妻のティナ―と娘のステファニが同年8月14日にチェックインする。5室の部屋番号を記入したという。大使館執務室としてか、他の館員用であろう。先にも引用した『消えた宿泊名簿』の著者山口由美は富士屋ホテルの創業家の一族で、当時の宿泊者名簿を閲覧することが可能であった。

 

1945年1月1日にホテルの前で宿泊者の記念写真が撮られ残っていることは書いた。写る皆の表情は表向き穏やかであった。

 

外務省の出張所として富士屋ホテルに詰めていた亀山一二は同年7月17日、本省に宛て最近こちらに疎開する外交官が多く、配給する小麦粉、肉類、煙草などが足りないと書き送っている。

 

8月25日、終戦時の外務省の記録では、プリンチピニ一代理大使以下38名のイタリア人が滞在(疎開)していた。多くは外交官でホテルが実質大使館の機能を果たしていたと言える。

 

一方日本の最大の同盟国であったドイツ人もゲオルク・スターマー大使、妻ヘルガ他35名とイタリアのほぼ同数が滞在した。ただし外交官関係者は多くない。ドイツは大使館を河口湖畔の富士ビューホテルに移管しており、多くの外交官はこちらに滞在した。当然大使もであろう。

 

同年5月8日、ドイツ本国が連合国に降伏して間もなく、日本政府は大使館の機能停止を伝えた。それと同じくして大使館内では、スターマーを糾弾する声が上がった。大使としての資質が問われた。そうしてスターマーはその頃、追われるように一部の外交官と共に箱根の富士屋ホテルに移ったというのが筆者の考えである。これもホテルの宿泊名簿を見れば解決するであろう。

 

7月20日、新婚旅行でドイツ人でウォッカマルク号副官クルト・ピリッツ少尉と妻マルサがホテルに宿泊した記録も残っている。この時期短期滞在の宿泊も可能であったのは、ドイツ人ゆえのことか。

 

終戦時のリストを見ると他にタイ国が大使以下22名滞在している。内ひとりは花御殿の「ノウゼンカヅラ」の部屋であったという。ドイツ人、イタリア人なども含めて国籍ごとに本館、西洋館という様に部屋を割り当てられたのであろうか?ビルマは多くが近くの奈良屋旅館に居住する中、陸軍武官とその関係者のみ数名が富士屋ホテルに疎開した。

富士屋ホテル花御殿

 

終戦の直前、箱根の外交官慰問のために松竹楽団を派遣する計画が箱根の外務省事務所、軍務局、松竹の間で7月末に検討されている。演奏の予定は富士屋ホテルが8月11日、強羅ホテルが8月12日であった。対象外交官は約300名となっている。終戦のわずか3,4日前のことだ。これは実現されたのであろうか?

 

8月15日に日本が降伏し、30日に厚木基地に降り立つ。

9月11日、30名のMPを連れた大佐が富士屋ホテルに来館する。そして連合国によって接収された。富士屋ホテルに滞在していたドイツ人らは追い出されることとになり、日本の外務省は慌てて彼らの受け入れ先を探すことになる。

(続く)

 

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本編に関連する『第二次世界大戦下の滞日外国人』 
(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)は こちら