終戦時の軽井沢の外国人資産に関しては英国人は拙著『続 心の糧 戦時下の軽井沢』の中で紹介した。またドイツ人のものはこのブログで「終戦時、軽井沢のドイツ人不動産」としてすでに紹介した。
この度、アメリカ人の資産の完全なリストが見つかったので、地図と共に紹介する。これらの別荘の所有者は日米開戦が近づき帰国するが、意識してかしなくてか、資産は売却しなかったと解釈できる。開戦により、正式な手続きを経ずに日本人の手に渡ったものとして終戦後、GHQが返還を要求した一覧である。彼らの用いた地図が2枚に別れているので、紹介も2回に分ける。
まずは愛宕山方面である。黒の四角が資産を表す。
軽井沢はハウスナンバーで管理しているので、場所の特定も容易だ。
以下のリストはGHQの史料に筆者の情報、コメントを足したものである。
いくつか気づく点を先に述べると、1930年のリストと見比べると開戦時、つまり10年経っても所有者はそのままという例が多い。別荘は長期保有が当然であった。
次いで当然の如く宣教師の別荘が多い。よく言われるように宣教師は複数の別荘を所有し、日本、アジアの各地から避暑に来る同僚に提供したという史実を裏付ける。実際に2軒並んで所有する例も見られる。
また筆者の『続 心の糧 戦時下の軽井沢』で写真と共に解説した建物はリストの「続」の欄に丸を付けた。そちらも合わせてお読みいただけると幸いだ。
ハウスナンバー 家の状態 続 所有者 1930年
603番 B H.J. Fox ー
615番 B E.O. Mills 同左(宣教師)
630番 A M.B Madden 同左(個人)
661番 B- Jessie Wengler E.O. Mills(宣教師)
662番 B- Jessie Wengler E.O. Mills(宣教師)
689番 B 〇 K.S. Beam H.B. Newell(宣教師)
691番 C 〇 H.B. Newell H.B. Newell(宣教師)
709番 B- 〇 J.M. McCaleb (宣教師) -
⇒709番の宣教師マッケーレブが自らの居宅として建てた宣教師館は、東京都指定有形文化財に指定されている。筆者はここを訪問したが、館内には長女アニー・ルイスの写真があり、説明文には「築地の自宅か軽井沢の別荘地で撮影されたものと思われます」と書いてある。
雑司ヶ谷の宣教師館
827番 B- E.L. Neville 同左(個人)
830番 B- C.B. Reifsnider (手書きで Soldと書かれている) 同左 (宣教師)
⇒戦前に立教大学の総長を務めたライフスナイダー宣教師の別荘。開戦2か月前の1941年10月にアメリカに帰国する。同年夏の軽井沢国際テニストーナメントで女子シングルス優勝者はライフスナイダーである。娘さんであろうか。
838番 B- R. M. Andrews 同左(個人)
⇒貿易商アンドリュースは軽井沢で一、二を争う広い別荘を持つカナダ人であったが、アメリカ資産にリストアップされている。戦時中は誰か日本人の手に渡っていたのであろうか?それとも閉鎖されたままであったか?外国人は住んではいない。
865番 B R.F. Moss 同左(個人)
866番 B 〇 C.S. Gillett 同左(宣教師)
885番 C 〇 Arthur Lee 同左(宣教師)
951番 B- 〇 A.E. Child 同左(ハーレー支社長)
⇒興味深い話を先述書で紹介している。
書籍にて発表しなかったものの内、何とか建物のイメージが掴めるも写真を以下に紹介する。
603番:ベランダがあり、奥がおそらくパーラーでいわゆる宣教師の別荘だ。
屋根が白いのは雪で、ベランダの柱も偶然白である。
630番:個人別荘
865番:個人別荘だが立派な建物。白い塗装がしっかり残っているが、GHQの診断では建物の状態はB。
1930年別荘所有者は「戦争中の軽井沢の外国人別荘の変遷とコミュニティとの関係」花里 俊廣
を参照しました。
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