ハンス・シュトルテさんは、ドイツ人で戦後長く、大船の栄光学園で教鞭をとった。その傍ら山登りを愛し、とりわけ丹沢に足しげく通い、地元の人とも広く交流した。そうした体験から「丹沢夜話」、「続丹沢夜話」、「続続丹沢夜話」という三冊の本を出版している。

 

筆者がまず親近感を覚えたのがそのタイトルである。筆者は「心の糧」、「続 心の糧」、「続続 心の糧」と出しているからだ。どちらも團伊玖磨のエッセイが元になっていることは少し年配の方なら気づいているであろう。

 

シュトルテさんの3冊から戦前、戦時下に関わる部分を取り上げて筆者の説明を加える。ただし戦中迄の話が載っているのはほとんど「続」のみである。また筆者の意志とは全く異なる読み方であることはお許しいただく。

 

「1934年7月8日が天狗(シュトルテさんのこと。鼻が長く日本人はそう呼んだよう)来日の日である。
その日の昼頃、7週間の船旅を終えて神戸に上陸した。夕方三ノ宮駅で東京行きの夜行列車に乗った。一等車だったので悠々と座れた。
しばらく経って車掌が来て、通路の添乗のランプの黒布のシェードを下ろしてくれた。車内が薄暗くなった。それを合図にして、乗客の紳士淑女たちが着物を脱ぎ、下着姿になって眠り始めた。今まで見たことない風景に驚いた私は、暫く茫然として、なす所を知らなかった。
しかし、夏の夜の暑さ、旅の疲れ、そして20歳の若さも手伝って、私も思い切ってシャツと靴を脱いで、夢の世界に入ることにした」

シュトルテさんの様にそう急ぐ旅でもない人が、そのまま横浜まで船で向かわずに、神戸で降りて列車で上京するのが興味深い。船は神戸で一泊し、次いで名古屋で一泊し、そして横浜であった。2日は短縮できたか。

また夜行列車で乗客が皆下着になったというのは筆者も知らなかったが当時の日本の習慣だった様だ。混浴風呂同様に外国人には驚きの事象であった。

参考:「三村道夫 神戸から軽井沢への鉄道による疎開

 

シュトルテさんは上智大学にカトリックの司祭(研修生?)として仕える。そして次の様な山歩きを体験する。
「丹沢を初めて知ったのは1935年だった。地図は、当時外国人が地図を持てばスパイと疑われるから、持っていなかった。地名も山名も知らないで、片言の日本語で道を聞きながら目的の山に登った。

ある日、小田急の沿線案内のパンフレットを手に入れた。そこに、3年前(1934年)にできた「丹沢林道」が大きく宣伝されていた。左側友達とふたりで、自転車でこの林道を走ろうと決めた。

自転車と言えば、当時は、サイクリング用の軽く、ギアの付いたものはなかった。旧式の重いものだった。自転車屋で1日40銭で借りることが出来た。朝6時半に東京の四ツ谷を出て、横浜、厚木、秦野を通り、やっと蓑毛の林道の起点に着いた。ここから、小さく砕かれた石の敷かれた真新しい車道を、自転車を押しながらヤビツ峠へ登った。

そこからは井本、八王子に出て、甲州街道を東京へ走った。夜6時半、無事に四谷に帰った。193キロを12時間で完走したわけだ」

「1939年、神戸の六甲山の中腹にある六甲中学に勤めることになり、早速、山岳部を作った」

灘区六甲中学(現六甲学院)は38年に1期生135名の生徒と、15名の教職員でスタートした。シュトルテさんはほぼ学校設立時に派遣されたメンバーであった。戦時中はカトリックの学校故に軍部ににらまれ、存廃の危機を経験する。終戦時はカール・ライフ(教員)他9名のドイツ人がこの住所に暮らした。


1940年 
雪彦山の山の神主柏尾氏とバスに乗っていると陸軍将校が乗って来た。酔っていて、シュトルテさんを見た時
「外人が座って、大日本帝国の軍事が立つとは何事か!」と喚き散らした。思わず席を立とうとしたシュトルテさんをおさえて、柏尾さんは恐ろしい声で将校を怒鳴りつけた。そしてバスを停車させ、将校を道路に突き落とした。

 

「1942年夏、六甲山学部と長野県の北アルプス涸沢で合宿し、山々を縦走する」

「1943年8月のある日、八ヶ岳の主峰赤岳頂上で日の出を眺めていた時だった。(中略)戦争の真只中で登山者は2、3人しかいない。彼らは黙って合掌している。(シュトルテさんは)思わずこの曲(旧約聖書の詩篇19番)を歌った。

 

戦争初期はまだこのような登山が外国人にも許された。同じ時期に松本高校の講師だったヘルムート・ヤンセンはアルプス登山について次のように述べている。

「旅行のときには、何度も警察に足を運ばなければなりませんでした。あるとき、オーストリアの元外交官で上流貴族のエゴン・フォン・クラッツアーと一緒に、いわゆる日本アルプスを越えて日本海までの山岳旅行をしたとき、何度かおかしなことがありました。汽車に間に合うように、最後の区間をバスに乗っていると、立ち入り禁止区域に来たことが分かりました。日光から神戸までの地域は立ち入りの自由な地域でした。日本海は立ち入り禁止区域でし た」

(終戦前滞日ドイツ人の体験(4)荒井訓)

日本海は外国人は立ち入り禁止地域であった。2人は汽車が来る迄交番で拘束された。


終戦を疎開先の広島で迎えたシュトルテさんは幸いに原爆の被害を免れて、六甲中学に復帰することが出来た。

広島に原爆が落ちた時はシュトルテさんは長束修練院(広島市安佐南区長束西、現・イエズス会聖ヨハネ修道院)に勤めていた。本人は疎開先と書いているので、その目的だったのであろう。しかしそこは爆心地から4kmしか離れていなかった。

 

上智大学から同じく赴任していたルーメル神父は「被爆したフーゴ・ラッサール神父(後に広島市名誉市民、1990年死去)らを担架で運び、修練院へ逃げてきたやけどの市民をペドロ・アルペ院長(スペイン人、1991年死去)と治療した」という。同じ修道院のシュトルテさんも同様な活動をしたと思うが上記3冊には触れられていない。

 

1947年には栄光学園の設立に携わることになる。提言をしたのはアメリカ海軍第5艦隊司令官デッカー大佐であった。彼がイエズス会に学校の設立を要請した。

初代校長はグスタフ・フォス(Gustav Voss)であった。彼は1933年に来日し、日本語・東洋史・哲学を研修する。1939年にアメリカに留学し、戦争中は敵国アメリカで暮らす。そして1946年に再来日を果たす。シュトルテさんとは戦前の時期が重なるので、上智大学時代から面識はあったはずだ。もう一人修道院長ハンス・ヘルヴェクも上智大学の出身であった。

 

横須賀時代のシュトルテさんに関し、当時の学生が次のように回想している。

「エネ部では珍しいお菓子をたくさん食べた。天狗(てんぐ)さんが持ってきてくれた。(エネ部とは)山岳部。聖堂の裏山で練習する時、お茶とお菓子が出る。エネルギーの補充です。(中略)鼻が赤くて大きくて、天狗さんと呼んでいた」

やはり山岳部に携わっていた。

 

上智大学のカトリックの司祭でもフリップ・フェールケン先生はフォスが留学したころ、軍国主義に反対してアメリカに向かったという。そして戦時中はアメリカに連れて来られたドイツ軍捕虜の収容所を慰問に訪問したりしている。

「ロンメル・アフリカ軍団の若者は皆立派でしたよ」とはフェールケン先生が戦後、私が受けた授業中に語った言葉である。フォスのアメリカ留学にもそういう反軍国主義思想があったのかもしれない。

 

そしてシュトルテさんは戦後は特に丹沢の山に親しみ、冒頭の3冊を上梓したのである。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

最新刊『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』はこちら