個人的にもいろいろお世話になった三村道夫(三村技術事務所代表)さんの父征雄は数学者で、戦前にはドイツ留学の経験がある。軽井沢の縁で言えば堀辰雄は一高で同級生だった。堀は意外にも中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた。道夫がドイツ通なのはそのDNAをより受け継いでいるからであろう。道夫より三村一家の軽井沢への疎開について話を伺うことができた。それは先に筆者が紹介した『芹沢光治郎と軽井沢の鉄道』の中の鉄道の話をよく補完してくれる。

道夫の父は戦前大阪大学で数学を教えていた。住まいは兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区)にあった。家の近くにはドイツ人がかなり住んでいて、子供同士が遊ぶくらいの付き合いがあったという。

文豪谷崎潤一郎が住んだのは同じ武庫郡の住吉村反高林である。長編小説『細雪』の中では実在する神戸のドイツ人を、名前を少し変えて登場させている。それは道夫がドイツ人の子供と遊んだのとほぼ同じ時期だ。(筆者の『「細雪」とドイツ人』参照)
細雪でも詳しく取り上げられているが、1938年に神戸で大洪水が発生した時、道夫は4歳であった。本山村の家は一階が浸水し、道夫ら子供と犬は二階に避難した。

三村家があったのは山の麓で市街地ではなかった。よって戦時中も安全だと思い、知人の荷物などを預かっていたほどであった。しかし山の上には高射砲陣地があり、その日アメリカの飛行機は高射砲陣地を狙って飛んで来たようであった。そして飛行途中にあった三村家も焼けた。爆弾ではなく焼夷弾によってであった。

それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化したのは1945年6月5日の空襲であった。しかし道夫は8月6日の広島原爆投下の少し前同月3日頃の事でなかったかと記憶している。高射砲基地を目指した小規模な空襲があったのであろう。

そして8月4日に一家は軽井沢に疎開をする。終戦わずか11日前のことだ。同地には1939年に購入した別荘があった。避難の経路は神戸―大阪―名古屋―塩尻―篠ノ井―軽井沢であった。一昼夜かけての移動であろうか?

篠ノ井線松本駅を発車するSL。筆者が若いころ撮影したもの。(戦時下ではありません、念のため)


当時関西方面から軽井沢ヘは東京を経由するのかとも筆者は考えていたが東海道本線、中央西線、篠ノ井線、信越線と最短距離を乗り継いだ。また「座席は埋まっていたが、押し合いへし合いという状態ではなかった」とのことであった。もう終戦間際で空襲による被災証明書を持つ人くらいしか、列車を利用できなかったからであろうか?
一方ではこれが当時の関西方面から軽井沢への通常ルートであったかというと、戦前は一家は神戸―東京間を特急「つばめ」、ないしは「かもめ」で移動し、上野から信越線を利用した。しかし「つばめ」は1943年10月に廃止される。

先に紹介した芹沢は三村家より少し前の7月20日、同じルートで名古屋から軽井沢に向かっている。名古屋駅付近で3時間、空襲のために退避するが、混雑はそれほどでもなかったようだ。また三村一家が名古屋から向かった8月4日、この日芹沢は上野から軽井沢に向けて列車に乗るが、こちらは窓から乗り込まないといけないほど混んでいた。いずれにせよ終戦直前まで、ほぼ通常通りに機能していた軽井沢への鉄路であった。

なお同年7月、スイス公使館は神戸方面に住むスイス人20家族60人を軽井沢に疎開させようとしたが、日本政府は関西方面の外国人の疎開先は「宝塚箕面地区」と断っている。三村家は自分らの別荘を所有していたから疎開できたのであろう。
三村家の隣にはアフガニスタン公使一家が疎開していた。また他にも政財界の大物の別荘が周りにあった。三村家の別荘は今も当時と同じ場所にある。

近くには田辺三菱製薬の創始者、田辺元三郎の別荘があった。グーグルストリートより。

今は存在しないので貴重な情報だ。

道夫は終戦の勅語は軽井沢で、音質の悪いラジオで聞いた。小学5年の子供であったから意味は分からなかった。

 

この内容は書籍『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』に掲載しています。

他にも豊富な記事と写真がお楽しみになれます。こちら

 

『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』はこちら

『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら

 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら