戦時中のドイツ大使館にはふたりの日独ハーフの館員が勤務していた。

 

サトシ・ライフ 

カール・フリートリッヒ・ギルバート 

 

ふたりとも戦前にドイツから赴任してきて、情報部に籍を置いた。ナチス政権でアーリア人至上主義のドイツ社会であったから、日本人の血の入るふたりは外交官として肩身の狭い思いをしたことは疑いない。

 

実際の仕事は翻訳、通訳だったようだ。ドイツ語、日本語に精通していたからであろう。その内サトシ・ライフについては、由比ガ浜のドイツレストラン「シーキャッスル」の創始者として紹介した。こちら

 

最近、当時の新聞記事からカール・ギルバートについても少し分かったので紹介する。

彼の父親はドイツ人であったが、母親は日英の混血であった。母親は相当初期の日本人の国際結婚だ。そして戦後まもなくしてカールは日米会話学校教授を務めた。どうやらカールは英語の専門家であった。いわれると「ギルバート」という姓は英語圏に多く、ドイツ語圏ではほとんど聞かない。母親の元、英語で育ったのであろう。

1945年5月ごろ、カールはシャルロッテ(60歳、日英混血の母?)、ヒューズ(弟?)と共に横浜市南区唐沢に住民登録がされている。

 

カールは疎開した強羅で終戦を迎える。そして戦後まもなくGHQによって、「好ましからずドイツ人」に分類されはしなかったものの、ドイツへの強制帰国の対象とされた。1947年2月13日正午、横浜港からドイツに向かうマリンジャンパーが出航の予定で、それに乗船することになっていた。

 

ところがその2日前に荷物の処理のために、逗子に住む母親と実弟が世田谷のカールの住居を訪問すると、彼と松竹の元俳優I(26)がカルモチンを服毒、同性愛心中を図ったところを発見した。幸い共に一命は取り止めた。別離を悲しんだものらしかった。結果カールは送還を免れた。

 

事件を伝える読売新聞の記事によると、カールは終戦前に約1年半ドイツ大使館に勤務(外務省の史料では41年1月赴任)、俳優Iとは終戦当時からの交わりで、46年5月に一緒に世田谷に転入した。

 

波乱な半生のカール・ギルバートであった。

 

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