教育者で文化学院の創設者の西村伊作には9人の子供があり、うち女性がアヤ、百合、ヨネ、ソノ、ナナ、九和(クワ)の6人であった。
彼女らについては軽井沢の関連していろいろと書いてきたが、7番目の子供である「ナナ」についてはほとんど触れて来なかった。本編ではそのナナについて『愛と反逆の娘たち』(上坂冬子)等を参考に紹介する。

1920年生まれのナナが父の設立した文化学院に入学したのは1932年であった。1941年に太平洋戦争が勃発し、戦火が激しくなると一家は静岡県三島市に疎開する。
終戦の年である1945年春、ナナと九和は安全な三島から五反田の自宅を経由して軽井沢に向かう。
「どうしてあれほど軽井沢に行きたいと言い張ったか分からないけど、都会的な友達のいない所にすっかり飽きて、ふたりとも行くぅーって両親の許をとび出しちゃったのよ」と述べた。

 

この列車の旅は混雑で大変だったであろうと推測したが、一緒に疎開した九和は筆者の質問に対し「それほどでもなかった」と答えた。空襲の直後であるとか、日によって状況は異なった様で、他にも「混んでいた記憶はない」と語った方を筆者は紹介している。「三村道夫 神戸から軽井沢への鉄道による疎開


軽井沢では自らの食糧を確保しないといけない。早速近くの農家にわたりをつける。ナナは「ねえ、うちの庭にお芋を植えてよ」と頼んだ。それに対する代償として
「セーターや毛布なんかを次々に自転車に積んで、南軽井沢の農家にもよく行ったわ。オバサーンって入って行くと、お茶と野沢菜を出してくれて、縁側で物々交換の交渉に入るのよ。楽しかったわ」
と回想とはいえ「楽しかったわ」という言葉が出る。軽井沢の疎開疎開生活の辛さが強調されてきたが、こうして物々交換も楽しんだ女性がいた。

九和はこの状況を「軽井沢には食料はないが、自由(心の糧)があった」と表し、その言葉に感激した筆者は著書を『心の糧(戦時下の軽井沢)』というタイトルにして借用させていただいた次第だ。

終戦の勅語は友人の家で聞いた。終戦を知った外国人はとたんに今も有名なテニスコートに集まり、いっせいにワーッと歓声を上げたという。テニスコートという具体的場所は筆者は初めて耳にした。

「戦争が終わると間もなくアメリカの将校が軽井沢に来ました。私はその人たちと気軽におしゃべりしていたんですけど、ある日一人の将校が私に、あなたはどんな仕事をしているのかって聞くの。別に仕事はしていないと答えたらびっくりして、仕事もせずに生きているのかって」 この時ナナは外国では女も仕事を持つのが当然なのかと悟った。

戦後ナナはオランダ人将校ニコラス・シェンクと結婚する。シェンクは戦時中、捕虜収容所になっていた文化学院に収容されていた縁があった。シェンクはラバブルというブラジャーの会社を戦後アメリカで設立した。日本での売込みには創設期のワコールとも販売契約を締結したようだ。

 

筆者はこれまでに「ソノ」を書籍『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編)』の中で詳しく取り上げた。

また「九和」については先に述べたように『心の糧(戦時下の軽井沢)』で触れている。今回ナナについて書き、次はヨネについても書く予定だ。

 

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