本日(7月2日)再放送された、「お宝鑑定団」に長谷川潔の銅版画が鑑定に出された。

筆者には”日本であまり知られていない”戦時下の欧州邦人の画家のイメージであったが、素晴らしい価格が付き、自分も嬉しい気分になった。それにしても先日の「孤独のグルメ」の「シーキャッスル」といい、再放送だが恐るべき影響力の地上波テレビ放送。急に閲覧が増えている。

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昨年9月に紹介した戦時中もフランスに留まった画家長谷川潔に関し、興味深いプログラムのコピーを、同じく当時フランスに滞在した方からいただいた。

 

1938年6月1日、パリの日本大使館が主催したと思われる音楽会のプログラムである。

表紙のスケッチは長谷川潔の手によるものである。右下にK. Hasegawaのサインがある。作風はまさに昨年の特別展で見た作品と同じである。(本編下の部分参照)

貴重な史料を提供いただいたFさんにはいつも感謝している。

 

演奏者の名前が載っている。

1 草間(安川)加寿子 ピアノ

2 牧嗣人  バス歌手

3 原智恵子 ピアノ

当時パリに滞在していた日本人の音楽家の中でも最高レベルの3名だ。

あと欠けているとしたら諏訪根自子(バイオリン)くらいか?

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2022年9月13日の朝日新聞に「仏訳『竹取物語』挿絵」の見出しで
「長谷川潔 海渡ったかぐや姫、完璧なわけ」という記事が載った。

第2次世界大戦中に欧州に滞在した「欧州邦人」を調査している私は「長谷川潔」の名前は知ってはいた。連合国軍のパリ解放で、大方の日本人がベルリンに避難した1944年以降もパリに残留した数少ない日本人の一人としてだ。筆者は最近このテーマで『第二次世界大戦下の欧州邦人(フランス編)』を上梓している。

 

連合国軍に抑留される危険があり、かつパリの日本人の外交官からは残る選択はないと言われたにもかかわらず、残留の道を選んだ芸術家を中心とした邦人は、主として妻がフランス人ゆえに悩んだ末の決断をした。長谷川も1943年に長年生活を共にしてきたミシュリーヌ・ビアンキと結婚する。52歳の時だ。そして美術に門外漢の私はあまり名前の知られた人物はいないと決め込んでいた。

 

ところが朝日新聞でそんな一人の人物の個展の紹介が載ったのには驚いた。
1942年の日本人会のリストでは長谷川の住所は 3. Villa Seurat(14区)だ。モンパルナスに近い。
当時の様子を語るものとしては同じく画家でパリに残留した板東敏雄の日記風記録に
「戦争中には長谷川(潔、画家)、鈴木は芋など炊いていた。長谷川はカン(監獄のこと)からの手紙で、サツマ(薩摩次郎八)を(監獄から?)出す世話をしていた」とあることは拙著で紹介した。
 

特別展は町田市国際版画美術館で9月25日までというので慌てて訪問した。美術館は都下町田市の緑豊かな芹ヶ谷公園内にあるが、いわば谷の底で、帰りはかなりの坂を登ることになる。

 

どういう基準からかは不明だが、嬉しいことに何点かの作品は「撮影可」となっている。それらの中から印象に残ったものを紹介し、解説する。

 

今回朝日新聞に紹介された「竹取物語」の挿絵(表紙)

上部にS. MOTONOとある。そうか、長谷川は挿絵で物語をフランス語に翻訳したのは本野盛一だ。本野はフランスに縁のある外交官で、妻は伊東義五郎の三女で日仏混血の清子(仏名レネー・マリー)である。こちらも注目したい。

光線の関係で影が出ないようにするには斜め方向からの撮影にならざるを得なかった。

 

「窓からの眺め」

1939年9月に第二次世界大戦が始まると長谷川はフランス西部のサルト県ヴェヌヴェルにある友人の画家、斉藤豊作(とよさく)の自邸、シャトー・ドゥ・ヴェヌヴェルに疎開し1940年3月まで滞在した。その疎開先の窓からの眺め。

先の板東は書いている。

 

「斉藤豊作(画家、妻カミーユ)は息子の保がドイツ人と結婚したので、一晩(警察署の)セメントの上に寝かされた。君枝の生まれた時(44年9月)は、奥さんと二人でお祝いを持って来て下さった」

斎藤は1914年、フランス人の画家カミーユ・サランシンと結婚し、19年妻子とともに渡仏する。26年にヴェヌヴェルの古城を購入し、1951年に没するまで同地に過ごす。

 

長谷川は独軍パリに迫るで40年6月15日、途中爆撃に逢いながらもボルドーに避難する。さらに多くの邦人同様にスペイン国境に近いビアリッツに疎開する。パリに戻るのは9月4日であった。パリは食糧不足で生活も困難であったが、創作活動を再開する。

8月28,29日引き続きビアリッツ滞在。海岸にて水浴少女たちを素描す。相馬夫妻に会う。

 

大阪の裕福な家庭に生まれた相馬政之助は銀行家の娘谷村夏と結婚する。夫妻はパリに向かい長谷川と知り合う。その後1927年、ビアリッツに移り住む。そうして長谷川と劇的な再会となる。

相馬夫妻もドイツへの避難に加わらず、終生ビアリッツで暮らした様だ。

 

41年1月28日、大使館から速達で、帰国勧告通知が届く。日本から特務艦朝香丸が派遣されたのであった。

長谷川は大いに悩みながらも残留を選ぶ。

 

子孫の方の話では、44年6月7日付けの日本領事館が発行した、妻ミシュリーヌの通過査証が残っているという。フランス国外でも保護されることを希望するものであった。長谷川は家族を連れて日本への帰国を決意していたことをうかがわせる。

 

1944-45年の作品。

連合国に開放されたフランス時代。

長谷川は45年6~7月、他の残留邦人と共にドランシーの収容所に収監される。スランスの知人、有力者の尽力で釈放されたが、心身ともに打撃を受けほとんど制作が出来なくなる。先に紹介した斎藤豊作のカミーユ夫人は夫・豊作のみでなく長谷川の釈放に尽力した。また薩摩次郎八もその一人であったという(「長谷川潔の世界」より)のは先の板東の手記とは異なる。

7月に帰宅後もある期間、定期的に警察に出頭し、絶えず監視される生活をおくる。

 

長谷川潔に関しては「長谷川潔の世界」(猿渡紀代子)という本が上中下の3巻シリーズで出ている。本文を書くに際しても参考にさせていただいた。

パリに残留した画家に有名は人物はいなかった、という筆者の浅はかな判断は取り下げる。また猿渡さんは戦時中日本に滞在したフランス人画家「ポール ジャクレー」研究の第一人者でもあられる。

 

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