横浜市中区に住むものの、勤務地が東京というドイツ人もかなりいた。
当時は京浜東北線は桜木町までであるから、家からはまず今の石川町あたりまで徒歩で出て、そこから桜木町まで市電に乗らないとならない。結構時間のかかる通勤であったはずで、空襲が激しくなると危険も高い。奇しくも二人の武官補佐官が横浜から東京のドイツ大使館に通っている。

<48 ノルベルト・ベルステット 海軍武官補佐官 中区滝之上140>
 
ベルステット(Norbert Bellstedt)は日本に来てウールの商売をしていたが、戦争勃発後に東京で海軍武官補佐官に任命された。日本軍では武官補佐官は職業軍人しか任命されていないはずだ。

1941年から1943年の間、一家は根岸の競馬場のそばに住んだ。そこは湾を見下ろし、横須賀の軍港まで見渡せた。これが枢軸国であるとないに関わらず、1943年に強制退去させられた理由だと、息子のノルベルト・ジュニアは考えた。
(ジュニアの回想)
 
現在滝之上は139番までで140番は存在しない。ただしレストラン「ドルフィン」から遠くないことは間違いない。こんな風に湾が見下ろせたはずだ。(ドルフィンより)
 
<49 フリッツ・カルシェ 陸軍武官補佐官 中区山手46>
 
カルシェ(Dr. Fritz Karsch)は旧制松江高校で長く教鞭をとった。
1939年に松江高校を退任しドイツに帰国するが、翌年に陸軍武官補佐官として日本を再訪問する。軍務経験がないカルシュが武官補佐官として来日するのは、日本語の専門家としてか?
山手46番はこちら
 
ベルステットとカルシェは外交官に準ずる立場として、毎月40ガロン(約150リットル)のガソリンの配給を受けている。よってふたりとも車で大使館まで通ったことは間違いない。または相乗りか。
 
余談ながら各国大公使は毎月100ガロン(約378リットル)であった。石油不足に苦しんだ日本にとっては無視できない消費量であろう。
 
そして二人はドイツ人外交官の疎開地、箱根、河口湖ではなく、軽井沢に疎開する。
 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら