ウィルヘルムの父ユリウス・ヘルムは1869年横浜に着く。日本女性小宮ヒロ(Hiro)と結婚する。1895年の二人の結婚は日本人の国際結婚190番目である。(『国際結婚第一号』 小山騰)
族は運送業、牧場、アパート経営などで横浜の外国人社会で大きな地位を占めるようになる。
 
1943年時点、本牧元町に住む標題のウィルヘルムは4男でドイツ国籍である。
長男カールは日本国籍、3男ジュリーはアメリカ国籍と多国籍なのは、国際関係の悪化による経営リスクを分散させる知恵でもあったという。
 
戦争中はカール一家の長男ワルターは、日本国籍だが収監され拷問を受けた。アメリカ人の友人があり、本牧の家から海が見下ろせたからという。
 
ウィルヘルムとワルターはヘルム家の資産をドイツ籍の新会社ヘルム兄弟商会に移して、日本政府に没収されることなく、終戦まで機能させた。それでも経営する山下町のヘルム・ハウスは政府に接収され、ドイツ海軍将校の施設となる。
 
ウィルヘルムが終戦直後、アメリカの兄ジュリーに書いた手紙によれば、戦時下の様子は次のようだ。
 
自分は軽井沢に1944年の3月に移った。立派な家具、洗濯機、太陽燈などは山下町90番のヘルム商会の地下倉庫に置いておいたが、すべて焼けた。
 
ワルターはジュリーの家を買った。(上記本牧の家とは別であろう―筆者)そこは要塞地区ではなかったので、移転する必要はなかった。
 
しかし1945年の5月29日の大空襲で家は全焼し、ワルターとウィルヘルムはヘルムハウスに移った。
 
終戦後の8月24日、日本の権威筋は、焼け残ったヘルム・ハウスのすべての住民にすぐに退去するよう命じた。そして今度はアメリカ将校の司令所になった。」
 
ウィルヘルムは戦後、闇市で潤った。ヘルム・ハウスの地下にドイツ海軍の残した備蓄があったからそれで商売をしたからだ。横浜で最も裕福な男と呼ばれたという。
1946年夏、ジュリーの長男ドナルドが日本に来て、かつて家のあった場所を訪問する。
 
「市電で10分の所の、昔の家の廃墟に行った。陶器の破片が散らばる。自分の自転車はねじれ、焼けてかろうじて分かるほどだった。」
(『Yokohama Yankee』 Leslie Helmより 原文英語)
 
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山手外人墓地の入り口近くにある、長男カールの墓石。
 
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旧山下町48番のヘルム・ハウスに付帯していたとされる建物。1926年から1978年までヘルム兄弟商会の所有で、現在神奈川県指定重要文化財として保存されている。
 
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