筆者の欧州における邦人の調査はもっぱら書物によるところが多い。もう存命する方も数少ないからである。そうした書物を読む中で、気になる人物に出会うことがある。
 
多くの場合、書かれているのはほんの数行である。そして何年か経つとまた数行、別の書物で出会う。そんな奇遇を喜ぶが、その人の半生を語るにはあまりにも情報が乏しい。でも待っているといつ書けるか分からないので、このタイトルで書いてゆく。これを読んだ方により、新たな足取りがつかめることを期待しつつである。
 
ビュルガー ジェンヌ (Jeanne Buerger)>
 
追加
久しぶりの新情報である。2015年12月以来か?
本稿の主人公であるジェンヌが戦後、ベルリン駐在であった伊藤清一大佐と結婚したこと後述するが、ベルリン時代の繋がりが判明した。それは「わたしの来た道」(井上陽一)という本からである。ドイツ三菱に勤務していた井上は日本参戦後、仕事がなくなると情報活動援助のためとして、スウェーデンの陸軍武官室勤務するようになる。そして伊藤大佐もドイツ降伏直前にストックホルムに転勤してくる。
 
伊藤は到着後、ベルリンで深い仲となっていたドイツ女性(ジェンヌの事)をスウェーデンに連れて来るべく、いろいろ工作したが、降伏間際のドイツからスウェーデンへの入国ビザを得ることは出来なかった。スウェーデンまで連れて行こうとしたのはある種驚きである。なぜなら当時の駐在員にとってドイツ夫人は、多くの場合現地妻であったからだ。
 
彼は悶々の情堪え難きものがあり井上はある夜、夕食を共にした。伊藤はこの時、ジェンヌから届いた手紙の一通を見せると、井上は「あっ」と驚いた。この手紙には日本語で
「玄関ドアーの前に靴音を聞く度に、あなたのお帰りかと思う毎日よ、、、」と書かれていた。ジェンヌが戦前から俳句に親しんでいたことは、この後で述べる。
 
日本の終戦後まだ数年しか経たない混乱の中、ジェンヌは貨物船に乗って日本にやってきた。この時、伊藤に付き添って横浜港まで迎えに行ったのが井上の義妹、野口圭子であった。彼女は当時(伊藤と同じ?)東洋紡に勤め、社命によって伊藤を横浜港に案内したのであった。
横浜ふ頭で二人は久しぶりの再会を果たし、抱き合い、涙々のシーンであったと野口圭子は後に伊藤に語った。そして狭い伊藤の住居には北欧風にローソクの灯が灯され、クリスマスの夕食が彼女を待っていたという。(ジェンヌ自身の回想では1951年2月来日)
 
そして伊藤はジェンヌと再婚を果たす。森鴎外の「舞姫」とは異なるストーリーであった。その後はふたりでジェンヌの故郷、ドイツで暮らした。
(2023年6月2日)
 

 
1 出会い
2006年ころ、当時一橋大学の加藤哲郎教授が戦時中ドイツに滞在していた崎村茂樹について、広範な調査を行った。興味深い取り組みで、私も持ち合わせた当時の欧州邦人の情報で協力させていただいた。
 
その調査の中で崎村のベルリンでの上司であった新日鉄(当時)の島村哲夫の追悼集『島村哲夫君を偲んで』(非売品、1978)という本が探し出された。そしてその中には伊藤ジェンヌという女性による「戦時下独逸での島村さん」という記事が寄せられていた。
 
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写真中央の女性が伊藤ジェンヌである。筆者はドイツ人が書いた戦時下の欧州邦人ということに興味を抱いた。夫となる伊藤清一元大佐も写っているのであろうか?

彼女の文章からすると次のような人物像となる。
母親はフランス人である。(そこからJeanneという名前が来ているのであろう。)
1941年当時、ベルリンでゲッペルス率いる宣伝省のための仕事を手伝っていた。島村哲夫のヒトラーユーゲント施設見学のための通訳として、4,5日間労働奉仕した。
 
この文章を書いてから5年後の2018年12月、島村の親族の方から、1枚の写真を提供していただいた。右端が島村だが、ニッカポッカを履いており、場所も郊外だ。その左隣は陸軍関係者の風貌だ。筆者はこれはジェンヌが書くヒトラーユーゲントの施設を見学した際で、左端がジェンヌでないかと考える。このホームページでまた嬉しい繋がりが出来た。
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親族の方の提供
 
しばらくしてその島村から近く「鉄鋼統制会ベルリン事務所」を開設するので、仕事を手伝うよう依頼があった。彼女はすでに朝日新聞ベルリン支局に勤めていてかなり忙しかったが、何とか午前中都合をつけて、働くことにした。
 
戦争も末期となり、他のドイツ人は皆西に向かって避難を始めた。ジェンヌは出来るだけベルリンに留まって仕事を続ける覚悟であったが、島村のお蔭で1945年春まだ浅き朝、年老いた両親と共にベルリンのはるか西南のアイゲンリーデン(Eigenrieden)に避難した。
 
戦後の1951年2月、希望がかなって日本に来ることが出来た。そしてベルリンの鉄鋼統制会で働いたことが縁で、当時丸ビル内にあった八幡製鉄本社渉外部で、再び島村の下で勤務する。それから28年経った時点(1979年)では同社渉外管理部嘱託であった。上記の写真はこの間に撮られたものである。
 
この時、彼女の消息がつかめるかと合併後の会社である、新日鉄住金に問い合わせを我々崎村調査メンバーの一人、大場定男さんが行ったが、記録は残っていないとのことであった。(1979年時点でも嘱託であったということは、もう少し頑張れば足取りはつかめると今は思うが、、、)
 
母親がフランス人で、日本語をよく話し、戦時下のベルリンの日本人社会で働いた女性。そして戦後はおそらく伊藤姓の男性と結婚して長く日本に暮らしたと思われる。
 

2 再会
その彼女に次に“出会った“のは2012年であった。
駐伊海軍武官、光延東洋少将の調べを進める中で、当時の欧州駐在海軍関係者のトップであった阿部勝雄中将のご遺族から、中将が後難を恐れずに日本に持ち帰った記念署名帳を見せていただいた。中将のベルリンの公邸を訪れた人が記帳したいわゆるゲストブックである。
 
1943年10月16日の日付の所に、彼女のドイツ語によるコメントと署名があった。
「Ein schoener Tag ist vorbei! Jeanne Buerger.」
そして日本語でビュルガー、ジェンヌと書かれている。日本語は堪能であったと思われるが、名前以外はドイツ語である。
書かれたドイツ語を訳すと「美しい日は終わった」である。

阿部邸でのその「楽しい一日が終わった」と意味なのか、さらには戦争が長引き連合軍によるベルリンへの空襲も強化されてきた。「良き日は過去のものになった」という意味なのか?おそらく両方を意味しているのであろう。
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阿部勝雄中将記念署名帳より
 
残念ながらこの日に阿部邸を訪問したこと以上は分からない。しかし戦時中、実際に日本人社会と深く関わっていたことが推測される。同じページ左側に朝日新聞ベルリン支局の笠信太郎の名前がある。先の自身の文章で、ジェンヌは朝日新聞ベルリン支局に勤めていたという。笠の訪問は10月11日の様だが、彼の名前があるのは偶然か?
 
国会図書館の憲政史料室に阿部勝雄中将の日記が保存されているので、1943年10月16日の所を見ると
「PM4時30分 Buerger来たり。お茶の後小野田(捨次郎大佐)と3人で森の中を散歩し、後はすき焼き。9時30分PM帰る。」との記述あり。
 
遣独使節団としてドイツに来て間もない小野田大佐とは偶然一緒になった印象である。阿部中将を一人で訪問することからすると、海軍の仕事も手伝っていたのであろう。(この部分2014年3月1日追加)
 

3 戦前のジェンヌ
そして最新の出会いは俳人高浜虚子の本からであった。当時のベルリン日本人学校に通った加藤綾子さんが「高浜虚子も学校を訪問したことがある」と教えてくれたからである。
 
虚子は1936年2月16日に日本郵船箱根丸で欧州に向かう。次男友次郎がパリに滞在していたのが、旅行に出たきっかけであった。当時では珍しい個人による海外旅行である。筆者にとっては戦後、戦中、戦前と時代をさかのぼってジェンヌの足跡が見つかったことになる。
 
4月、虚子はパリからベルリンに向かう。4月25日、日本学会で俳句の講演を行い、その後別室で一同がサンドイッチなどをつまんでいると、ベルリン大学教授の村田豊文が二人の女学生を虚子の前に連れて来て、特に紹介した。姉妹は村田が教鞭をとるベルリン大学日本科の学生であった。
 
「それはイヴォンヌ・ビュルガー、ジャンヌ・ビュルガーという姉妹であって、二人ともよく日本語を話すが、殊に妹(ジャンヌのこと)の方が達者であるとのことであった。妹の方は姉よりも丈高く、明晰な日本語で、自分は一年半ばかり神戸にいたということを話した。」。
 
一人で神戸に暮らし、盲腸を患った時は心細かったが、それ意外は何不自由なく生活したとのことであった。その年の6月末に日本語の試験があって、それに受かると
「今度は姉と二人で日本に行くとお母さんに言ってあるけど、許して下さるか分からない」と彼女は語った。どういう経緯か、若い時から日本に対し強い興味を抱いていた。
 
そして翌日ベルリン日本人会で俳句会を催すので、虚子は姉妹を誘う。句会にはビュルガー姉妹を含めて4人のドイツ人が参加した。「木の芽出でざれど寒さ未だ身にしむ」という句をジャンヌは日本人の助けを借りずに作った。
 
虚子は「調子が五七五になっていないばかりで、ちゃんと十七文字になっているし、殊にこれはベルリン近傍の写生であって、とっても良かったと思った。」と感想を書いている。
 
ベルリンにも同行した友次郎は雑誌「婦人公論」に「ビュルガさん姉妹」という題名で文章を書き、その中で
「(ビュルガさんら)ドイツの方たちと仲良く、本当に親しくお話出来たことは今度の旅行中一番うれしく本当に忘れられないこととなりました。」と、いかに印象的であったかを語った。
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渡仏日記より(左下に彼女の署名。俳句は日本人のもの)
 
日本人が外国に来て、日本語を話す現地の人に出会う喜びは今以上に大きかったのであろう。そして姉妹がおそらく美人であったので、それはなおさらであったと思われる。
 
以上がこれまでに私の調査の中に顔を出したビュルガー・ジェンヌさんである。邦人ではないが筆者にとって気になる人である。
(2013年12月31日)
 

4 姉との出会い。
筆者が10年以上前に書いた「スイスを愛した日本人」を見直していた時、朝日新聞のスイス特派員で戦後も長くドイツに暮らした笹本駿二の妻の名前が、イヴォンヌ ビュルガーであることを発見した。(自分で書いたものに対して発見したというのも変であるが、元は外務省外交史料館の史料からである。)
 
高浜虚子が姉として書いた名前である。自分の記録を読み返すと、彼女は1912年12月14日、ドイツザクセン州の生まれである。笹本は日本に戻って間もない、1950年2月、フランスに住む妻(イヴォンヌ)の親戚筋の世話で、フランスに向かったという。母親がフランス人であったという記述とも合致する。灯台下暗し、手元にこんな情報があったとは、、、
 
戦前、珍しく日本語を話すドイツ人の姉妹は、共に日本人と結婚したのであった。またこの姉のルートから妹ジャンヌのさらなる情報がつかめそうな気配である。
(2014年2月2日)
 

5 ご主人は伊藤清一大佐?
彼女の主人は伊藤姓であるが、ドイツ駐在者の中にいたのかは分からなかった。しかし先述の追悼本『島村哲夫君を偲んで』に平野国松という方が次のような事を書いていたのを見つけた。
 
「島村さんのベルリン在勤中の事務所(鉄鋼統制会)の職員に一人のドイツ夫人がいた。彼女はベルリン大学の東洋学科を卒業し、日本語の会話に堪能であったが、戦争中に親しくなった在ベルリンの陸軍武官と結婚するため、来日の強い希望を持っていたのである」
 
この女性がビュルガー・ジェンヌを指しているのは間違いない。そしてベルリンには陸軍武官補佐官に伊藤清一大佐がいた。彼のことを指している可能性が高い。伊藤大佐は1901年生まれである。姉イヴォンヌは1912年生まれであること分かっている。また1936年にベルリン大学の学生であったとすれば、妹のビュルガーは1915年くらいの生まれであろうか?
彼がご主人であったとすれば、今の言葉で言うと”年の差婚”であった。
(2014年3月16日)
 

6 山口青邨
山口青邨は鉱山学者で東大名誉教授、そして俳人である。その著書「滞独随筆」にベルリンの短期滞在をつづった「伯林便り」が出ている。そして1937年5月14日にはこうある。
 
(高浜虚子)先生が会ってみろと紹介状を下さったビュルガーの家、そこにあるんです。(中略)
そんなわけで、ここにいますが、今は二人の娘たち、イヴォンヌもジャンヌもニッポンに行ってしまって、ここにはいません。ジャンヌは満州国のジャパンツーリストビュローに行き、イボンヌは西宮市に行きました。二人は相前後して出掛けたそうで、よほどニッポンがいいとみえます。
 
高浜虚子にとって、姉妹との出会いは印象的であったので、こうしてその後ドイツに向かった山口にも会うことを勧めた。またこの時期、姉妹は日本、および満州に行っていたことが分かる。そしてその後開戦前にはまた、ドイツに戻ったのであろう。
(2014年8月17日)
 

7 ご主人は伊藤清一大佐でした。
今週伊藤清一大佐の親族の方から、連絡を頂いた。その方が有る事情で戸籍を取り寄せたところ、伊藤清一とビュルガー・ジェンヌは婚姻関係にあったことを確認したとのことであった。そしてその戸籍から読み取れる情報としては、ジェンヌは1914年生まれ、1954年に日本に帰化し、結婚した。伊藤は再婚であった。
 
これまでの筆者のジェンヌのご主人と、年齢の推定はほぼ正しかったことが確認された。連絡していただいた方はビュルガー・ジェンヌ、伊藤清一と面識はないとのことだが、親切に教えていただき、ここで深く感謝する。
(2015年6月27日)
 

8 徳永康元「ブダペスト日記」
ハンガリーに留学した徳永は克明に日記をつけていた。その一部が、標題の本の中で紹介されている。そして1942年4月21日、ベルリンを訪れた際
 
「日本人会へ行ったら、山本(正雄、毎日新聞)君、島田(日出夫 全購買連から後毎日新聞)さん(彼も帰る事を画策している)と会った。武井(宗男 留学生)君と食べた。大島(鎌吉 毎日新聞)君もいた。
 
ジャンヌのうちへ寄って、預けてあった荷物(写真類)をとり、一度パンションに戻って、朝日に行く。」と書いている。
 
このジャンヌはビュルガー・ジェンヌであることは間違いない。本では紹介されていないが、日記の中では他の日にも登場しているのであろう。
(2015年12月15日)
 

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