注: 「日本郵船 欧州航路」は書籍化されました。こちらから購入が可能です。

<序>

筆者は戦時中、欧州に滞在した人から話を聞き、それを紹介してきた。
それらの方々の話はいつも「自分は○○丸で欧州に向かった」から始まった。その当時小学校の低学年でもよく覚えていた。またこれまで多くの渡欧者の回想録を読んでも多くの場合、「○○丸で欧州に」という一項目があった。ここではこれまでに筆者が直接話をうかがった方の、欧州航路にまつわる話を中心にまとめ、書籍等に見られる思い出話も加えて船を単位にして、当時の航海の様子を紹介していくものである。

そこでは筆者の調査の関係上、欧州戦争が始まる1939年9月1日以前のいわゆる優雅な船旅と、開戦後、航路閉鎖までのおよそ1年間の欧州からの引き揚げ者を乗せた戦時下の旅の合計2年間を主に取り上げる。重複する記述はなるべく避けたが、回想を多く記録する目的でもあるため、航海の様子など若干似通った部分もあることを、あらかじめご容赦願う。

さて1938年3月から1年間の運航表が手元にある。それによるとこの時欧州航路に就いていたのは次の10隻である。
白山丸、榛名丸、香取丸、鹿島丸、靖国丸、箱根丸、伏見丸、筥崎丸(はこざきまる)、諏訪丸、照国丸

1938年3月27日横浜港発の白山丸を見た場合、ナポリ着が5月5日、ロンドン着が5月14日の予定である。そして白山丸の次の航海は8月14日に同じく横浜発で、その後は翌1939年の1月2日発である。つまり4か月半ごとに欧州に向かった計算だ。

 
本編では船ごとにエピソードを集めているが、下の靖国丸以外は次の書庫から船を選び、ご覧になってください。こちら


 



1.靖国丸

1930年9月22日、ロンドンに向かって処女航海。総トン数 11,930トン。
1等:121人、2等:68人、3等:60人。
1940年6月に南米西岸線に配船されたのが最後の商業航海となった。
1944年1月24日、米国の魚雷攻撃で沈没。

辻正義(外交官 辻正直の長男でベルリン、モスクワに滞在)

父、母、弟の正敏と正行を含む5名は横浜から日本郵船の「靖国丸」に乗船し、自分と澄子叔母(母の妹)は門司港から乗船した。門司港では接岸できないので小さな艀船で靖国丸に近づき、高くて急な桟橋を抱かれて乗船したことを覚えている。一等船客室と三等船客室と二部屋をとってあったが、外交官待遇ではない叔母の澄子は三等船客室だったという。 
イメージ 7
靖国丸一等船客の記念撮影。「6TH JUNE. 1938 VOY. No.21」と白いローマ字が写し込まれている。前列右から三番目、船員に抱かれているのが正義。前から3列目4,5番目が正直、正敏。前から2列目3番目が静子。中ほどにはヒトラーに仮装した人物がいる。

当時の配船表によれば靖国丸の第21航海は1938年5月22日、横浜出航である。撮影日が6月6日とあるので、予定通りであったならばシンガポール入港前日の撮影である。

靖国丸には長旅の退屈さを紛らわせるため色々な施設があり、プール、映画館、その他娯楽施設も完備されていた。よって子供の正義も航海中、全く退屈することはなかった。食事は部屋でもとれるが、食事の時間になると鉄琴を鳴らしながら回って来るので、辻家はそれを合図に食堂に出かけた。
 
食事の種類も豊富であり、寄港する国々の産物も取り入れて特にシンガポールあたりで出された南洋の果物は美味しかった。また夕食にはテーブルにいろいろな記念のプレゼントも用意されていた。船では家族一同揃っての暮らしが出来て、食事も一緒で父、母と暮らす時間もたっぷりあったので楽しかった。
イメージ 1
すき焼きパーティーも一等船客への定番サービスであったようで、日本郵船米国向けの船でも行われた。左のテーブルに正直が見える。専属のカメラマンが乗り込んで、こうした写真を撮り、日付なども入れて配ったのであろう。

寄港する港では上陸できるところも何カ所かあった。門司の次の停泊地である上海で辻一家は上陸したが、日本海軍が上海に利益保護の目的で駐屯させていた海軍陸戦隊の車で、租界地を案内してもらった。その時正義は生まれて初めて、壁に銃弾跡を見た。跡は第二次上海事変で出来たものと思われる。

次のシンガポールでは街路樹に猿が群がるようなところを通って動物園に行った。小さなバナナを餌にしていた覚えがある。スエズ運河の北端にあたるポートサイドでは駱駝で近郊のピラミッド見物なども出来たが、辻家ではそれをしていない。
イメージ 2
イメージ 3
スエズ運河通過 右が澄子
(「辻家の体験した戦前のベルリン、モスクワ」より)

そしてこの辻一家の乗った靖国丸には30名の日独親善の使命を帯びた若者も乗船していた。ドイツからヒトラーユーゲントの若者が日本を訪問するのに呼応し、それに倣って日本にできた大日本連合青年団が欧州を訪問したのであった。

彼らはマルセーユからパリを経由して7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、歓迎を受けながら次いでベルリンに到着。ベルリンの日本人学校を訪問した時の写真を加藤眞一郎さんが保存している。

宝塚少女歌劇団

また同じく日独友好の一環として、天津乙女(あまつおとめ)をトップとする宝塚少女歌劇団がドイツを中心に、ヨーロッパを訪問している。当時の新聞によると1938年11月20日、ベルリン民族劇場にて初演が行われた。そいてベルリンの最終日である23日は、大島大使およびゲッペルス宣伝相の共同主催の特別公演で、売り上げの収益はドイツの「冬季救済」運動に寄付された。

宝塚少女歌劇団一行30名は1938年10月2日神戸港から靖国丸に乗船し、11月2日靖国でナポリに着く。そして4日ベルリンに到着した。大日本連合青年団が乗船したのとは次の便である。大規模な派遣団が立て続けに靖国丸を利用したのには何か理由があるのであろうか?

乗船に際し、多くの乙女の心配事は長旅での船酔いであった。古い言い伝えからおへそに梅干を張り付けたり、乗り込むや否や船の柱をなめたりしたという。
(日本郵船「航跡」より)

同じ船には満州国ドイツ公使として赴任する呂宣文が乗っており、宝塚の壮途に激励の詩を送った。ドイツが満州国を承認したのは同年5月であるので、呂は初代公使として赴いたのであろう。

また寄港地シンガポールでは在留邦人に向けて慰問の公演を行った。さらにコロンボを発った10月23日には、一等船客に向けたかなり本格的な衣装を着けた余興をやっている。後述するように一等船客は絶えず特別扱いの欧州航路であったが、この余興も船客にとっては嬉しいサプライズであったろう。(「水晶の夜、タカラヅカ」より)

船客に音楽家がいる場合、こうした飛び入りのサービスは良く行われたようだ。女優で声楽家で欧州で活躍した田中路子は、一時帰国の船上で乗客一同から「ぜひ”蝶々夫人”を」と望まれた。

 
以降、伏見丸、箱根丸、白山丸、筥崎丸、榛名丸、香取丸、照国丸、鹿島丸、諏訪丸と続きます。
続きは書籍でお楽しみください。こちら
 
メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら