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俊子さんはチャリのお父さんの妹で、山口県の下関に住んでいる。
初めてお会いしたのは和也君の結婚式の時で、無口なお義父さんと兄弟とは思えないお話上手な人で、一度で大ファンになった。
一度下関にも遊びにおいで。わたしが生きとる間じゃないと、意味ないけんね。。。先が知れとるよ。と、下関へ電話をすると、いつもそんなことを言っていた。
敏子さんが圧迫骨折をしたことを知り、下関への旅に行った時のお話である。
いい音はやさしい。
そして激しい。甘ったるくない。あったかい。乾いていない。元気が出てくる。いい音は、どんなに音量が大きくてもうるさく聴こえない。音量が小さくてもちゃんと聴こえてくる。
いい音はなつかしい。
どこかで聞いたことがあるような気がする。それは、絵でも文章でもそうだ。ステキな人に出会った時もそうだ。しかしどこかで聴いたのではない。どこかで見たのでも、触れたのでもない。かつてどこかで会ったのでもない。
会いたかった人なのだ。求めていたものなのだ。表したかったものなのだ。ずぅっと心の中にしまってあったものなのだ。
たましいの場所 早川義夫著より
早川義夫は、美しい言葉を書くなぁ。と、いつも思う。
わたしがここに、思うことを素直にありのままに書くようになったきっかけも、この人の書いた文章だ。
繊細で、簡潔で、正直で、なによりも、きれい、なのだ。
心は、年をとらない。と、教えてくれたのは、この人の言葉からだ。
昔、はがきが当たって出かけて行ったNHKの番組で歌っていたとき、けっしてステージ慣れしている感じではなかった。
でも、彼が、一生懸命、という言葉がそのまま当てはまるように、心をこめて歌っていることはわかった。だから、その歌は、心にしみ込んで来た。
見つめていれば、息づかいから、そのひとが伝わる、と、教えてくれたのも、早川義夫の言葉である。
そのひとが、何がいいたいのか、は、彼の文章を読んでから、言葉だけを聞くことはしなくなった。
そのひとが何を話したいのか、伝えたいのか、は、そのひとを見つめているうちに、わかる。
そのひとの瞳をのぞいているうちに、わかる。
ひとのこころは、こころだけで、本当は、話が出来るのだろう。
だからわたしも、心を透き通らせて、語りかければいい。
チャリの実家がある清瀬に行った時のお話。
清瀬のお義母さんは、要介護4で、うちの母と同じだ。老いにもいろいろと個性があって,お義母さんはリウマチから、痛さのあまり、動く事をやめてしまい、寝たきりになった。在宅介護で、週6日間ヘルパーさんが来てくれる。看護婦さんは1日おき。お風呂は週1回バスが来る。
清瀬は車で行くと,1時間半かかり、大変なので,1ヶ月に1度様子を見に行っていた。在宅介護は、いろんな人が家に入り,義父の事も、合わせて見ていてもらえるので,助かっていたのだ。
義母は、少し認知症もあるので、機嫌が悪いときは言葉の暴力が大変だ。いろいろ可愛がってもらったし,わからなくなっている人に腹を立てても意味がないので、やり過ごしているが,トモコ出て行けー!! とか、トモコが一番キライだー!! とか言われたりすると、結構へこむ。
そんなお義母さんも、元気な頃は遊びに行くと,得意の餃子を作ってもてなしてくれた。清瀬のお正月の定番料理でもあった。
チャリのお母さんは、彼が小学2年生の時に、胆石の手術の際に、おなかに忘れられた鉗子が原因で,腹膜炎をこじらせて亡くなった。
その盲腸の手術をした病院は、お義父さんが、レントゲン技師として働いていた病院だったので、訴訟とかは出来なかったと聞く。
だから、お義母さんはチャリの育ての親だ。
若い頃はチャリと合わず,けんかばかりしていたようだ。
ただ、あとに出来た弟と分け隔てなく育ててくれたと言っている。
大学もろくに行かずに,早くから北海道に出て来てしまっていたのも,そんな家庭環境があったかららしいが、細かく聞いた事はない。
http://ameblo.jp/ni3tttym/entry-11139819263.html
その日は餃子を作る事にして、材料をひとそろい、買っていった。お義母さんの餃子は満州仕込み。お義父さんが満州にいた時のやり方で作る,本場の味だ。お義母さんが元気な頃に教えてもらった。
キャベツとねぎとしいたけとひき肉、にんにく、この種は同じ。
そこに大量のショウガをすりいれて、ごま油をつなぎに結構いれる。
あとは皮でまいて、お湯の中に入れる水餃子だ。
お湯からあげて、透明になった餃子は本当に美味しい。
3人で餃子を食べていたら,介護ベッドで寝ているお義母さんが、餃子ちょうだい。と言い出した。今はほとんど何も食べられず,パン粥やすりりんごを 食べているので,皆びっくりした。
少し食べさせてあげると,もっと,と言って,一個食べてしまった。
今日は少しわたしの事もわかるのかな ? お義母さん、わたしの作った餃子はまだまだですか ? 何点くらいですかね? 60点くらい? と聞くと、100点だよ。。。と、言ってくれた。
そんなたわいない事が、結構、嬉しかったりした。
子供のころは,犬でも猫でも,捨ててあれば、拾って来た。
小学校前でひよこを売っていれば,ピンクやみどりのひよこを買ってくるし,( 大人になると色はなくなる。)科学の雑誌のプラスチックの観察用水槽のおまけには,捕まえた小さいへびなど入れて飽きもせず見ていたりした。
前の田んぼでは、どじょうも、死ぬほどとった。普通に,さわれた。
今思うと,あれが、本当に自分だったとは,にわかには信じ難い。
犬や猫はさすがにさわれるが,かえる,蛇,モグラ、蝉、このへんが今もさわれるとは思えない。
もはや,今は,動物好きなのかも、定かではない。
清瀬のお義母さんは,動物が大好きで,一時は,チャウチャウを3匹飼っていた。これは、弟のカズヤ君が,これがいい、と決めた種類だったらしいが、成犬のチャウチャウを3匹お散歩に連れて行く図は,それはそれは壮観だった。(1回だけ見たことがある。)
だるまインコも飼っていて,外に鳥かごを置いておくと,どこかで逃げただるまインコがやってくるらしく、増えていた。
ある時,遊びに行くと,青い顔をしたような、鳥がいた。なんだろう?と、思ったら,ドバトだと言う。
からすがひなをくわえて,食べようとしたところを落としたらしかった。
まだ、羽も生えていない,ねずみか、鳥かもわからないような、肌色の物体だったようだ。
お義母さんは、それを拾って、あわやひえをガーゼにくっつけて食べさせ、母親代わりになって、育てたという。
今度は、そろそろ飛ぶ練習をさせないと、いけないのよ。鳥は、最初に見たものを母親と思っちゃうからね。と、言っていた。
どうやって、一緒に飛ぶ練習をさせたのかは、不明だが、次に訪ねた時には、ドバトはいなかった。
ある時。仕事の合間の昼時間。ひとりで外に食べに出た。
すると、道の真ん中に、なにか、ちっこいものが、落ちていた。
ん、、、、?と、近寄ってみると、5.6cmの鳥のヒナのようだった。
やっぱり、肌色で、目が,閉じているような、生まれたてのヤツだった。
わっ。それは、動いていた。
その時に、瞬時に、あの、お義母さんのドバトを思い出した。
どどど、どうするよ? わたし????
1. 連れ帰って、育てる。
2. 誰かが拾うまで、脇から、覗いている。
3. そっと、その場を、離れる。
一瞬悩んだが、さわれそうに、なかった。
子供時代のわたしだったら、躊躇なく拾って、嬉しそうにうちに持ち帰っただろう。それなのに、そんなわたしはどこにもなく、そのヒナを手でさわる勇気がなかった。
3。わたしは、そっと、その場を離れた。
この記憶は、結構わたしのココロをキズつけていて、今も、チクッとイタい。
ある時、たまたまうちに遊びに来たユリやんが、からすのひなを育てて、飛ぶ練習をさせて、もとの場所に返した、という話しをしていた。
その時に、あの時を思い出して、古キズが痛んだ。
フツーは、そうなのか、と。
そして、今日,チャリの後輩、クラハヤシ夫妻に会ったのだが、奥さんのケイコさんは、んー。わたし、だったら、拾うなー。と、言っていた。(彼らのお家には、うさぎが放し飼い。熱帯魚がいっぱいと、ラン中の金魚もたくさん飼っている。)
そうなんだー。でも、今,思い出しても、ブルルっと、さわれそうにない。
食事を終えて、その道を戻った時に、そのヒナは、いなかった。
あのヒナは、そのあと、どうなったんだろうか、、? (今さら、何を言うか!!)
母は、晩年の2年半ほどを、蕨にあるサンクチュアリ特別養護老人ホームで過ごした。
それ以前の半年間は、明生苑という有料の老人ホームで過ごしている。
パーキンソン病がかなり進行してしまい、それまでの父との2人暮らしは叶わなくなった。
毎週末、蕨で両親と一緒にご飯を食べるようになったのは、母が弱り始めた頃からだったろうか。
最初の頃は、わたしが食事の支度をする横で、母は、片手で出来ることを手伝ってくれたりした。
杖をつきながら、ずっと台所のテーブルにもたれて立ったまま眺めていた。
2階に上がることが出来なくなってきて、その頃に子供たち(わたしたち姉妹)が使っていたベッドを1階に下ろして、母だけ居間で寝るようになった。
トイレまでの通路に手すりを付けて、伝い歩きでトイレに行けるようにした。
ある寒い朝、父が起きて階下へ降りて行くと、母は、トイレの前で転んだまま、立てずに何時間もそのままになっていた。
寒い廊下に転がっていた母を見つけて、父は行天した。
母は我慢しきれずに大便をもらしていて、起こした父は、どうやって母を助けたのか、夢中だったよ。と、話していた。
トイレの脇に風呂場があり、とにかく服を脱がせて、身体をきれいにして暖め、ベッドに寝かせてから掃除と洗濯をしたという。
それから、父も1階で寝るようになった。
子供が使っていたシングルベッドに頭を互い違いにして2人で寝ていた。
わたしとチャリが行くと、2人でベッドに並んで座って、TVを見ていた。
母がひとりでは立てなくなり、家の中用の小型の車椅子を入れてトイレまで母を運ぶようになった頃、父は母をホームに預けることを決めたようだった。
蕨に行っている時はわたしもトイレを手伝ったけれど、その頃まだ太っていた母を持ち上げるのは容易ではなかった。
こうするとね。うまくいくのよ。と、父は、ダンスをするように母をくるりと車椅子に座らせていた。
ママ、パパと毎日ダンスが出来てよかったね。などと母に話しかけた覚えがある。
母は、うれしそうに、にっと笑っていた。
http://ameblo.jp/ni3tttym/entry-11194940422.html
明生苑に母を入れるのを父が決めたとき、母はショックでわたしの前で泣いていた。
パパ、、ママ、、、おしまい、、。
と、もうそんなに自由にならない言葉で、わたしに訴えた。
母の、そんな生々しい言葉を聞いて、ひるんだと同時に、夫婦間には子供たちにも見えないつながりがあるんだなぁ。と、思ったものだ。
父は、明生苑にも、次に移ったサンクにも、毎日通って、母に会いに行った。
それは本当に感心するほどで、その為に父は、82才にして車を買ってしまったほどだ。
1日に数時間のデートが父と母の夫婦の時間になった。
明生苑から、サンクへの引っ越しが決まった時は、母は家に帰れると思ったようで、とてもうれしそうだった。と、姉がその時の様子を話してくれたことがある。
しかし、行き先は全く別な母の知らない場所で、母と、付き添って行った父と姉の前で、館長さんは「タツヤマさーん、今日からここがあなたのお家になるんですよー。ここにいる人たちがみんな、あなたの家族ですよー。」と、言ったそうだ。
そして、説明があるからと父と姉を置いて母は別室に連れて行かれたという。
そのとき、母は、こちらを振り向きながら、泣いていたそうだ。
あの時の母を思い出すと切ない。と、姉が言っていた。
もうずいぶん前の話になる。
母が亡くなって、心の中が空っぽになったようだった。
あんまり、家の事が出来ていない。そんな訳で、冷蔵庫がからっぽだ。
しばらくは、まともに夕食を作れなかった。部屋も、散らかし放題。
そんな中、仕事を終えて、巣鴨のそば屋まで歩いて行った。そこは、以前見つけた小さなそば屋で、出し巻き卵とか、合鴨のつくねとか、今なら、たらの芽とふきのとうのてんぷらなど、サイドディッシュが充実していて、ゆっくり飲めるので、チャリは、好きなようだ。
サイドディッシュから頼んで、ゆっくり食事した。こんな事はめずらしい。チャリも久しぶりに日本酒などを頼んで、ちびちび飲んでいる。
日常の生活の時は、早食いの2人は、外食しても、来たものをばばばっと食べて、頼んでから、30分しかたってないよー。どうするー? と、なる。そして、普通の人は、何話してるんだろうね? と言いながら、仕方なく店をアトにする。
わたしがお酒を飲まないので、食べたあとは、手持ち無沙汰になってしまうのだ。だから、あんまり外食はしない。時間をおしゃれに過ごせないのだ。
その時のそば屋では、めずらしく、チャリが饒舌だった。
日本酒でリラックスしたのか、トクエお義母さん( 亡くなったお義母さんの方で、今のお義母さんは、清瀬のお義母さんと、呼んでいる。)が、亡くなった時の様子を話してくれた。何十年も一緒にいるが、チャリは、そう言う事は、あんまり話さない。いつも、状況だけをさらりと説明する。
チャリのお母さんは、彼が小学校1年生の時に、胆石の手術をした。(今までわたしは、盲腸の手術かと、思っていた。)
その手術の際に、お腹に鉗子を忘れられ、それが元で、体調が悪化し、腹膜炎から、長い入院の後に、亡くなったと言う。
その手術をした病院が、お父さんがレントゲン技師として働いていた病院で、訴訟などは、起せなかったらしい。
体調が徐々に悪化する中、何度も病院を転院したそうだ。
小学生くらいの息子が、病院に連れられて来ると、普通は、おかあさーん。と、走って、抱きつくようなシーンを、誰もが想像する。
チャリは、父の後ろに隠れて、なんだかこわくて、母に近づけなかったと、日本酒を飲みながら、話した。
母親にしてみると、それは、期待はずれの息子の対応で、後々、チャリが大人になってから、そんな様子を寂しがっていた、と、誰かから、聞いたらしい。
長い入院の間、親戚が、預かってくれたり、じいさんが面倒を見に来てくれていた。と、言っていた。
だから、病院に連れて行かれるのが、すごくいやだったんだ。遊びたいしさー。病院の白い壁とか、こわかったし。昔の病院なんて、古くて、今みたいにきれいじゃないんだよー。
お母さんが亡くなった時、お父さんと親戚らと一緒に、病院の霊安室に置かれている、お母さんにあったという。その後、だだっぴろい畳の部屋に連れて行かれ、ここで親戚が来るから、待っていなさい。と、ひとり、置いて行かれたそうだ。
もう、その時の恐怖って、言ったら、すごいもンだよ。子供だからさー。こわくても、どこへ行けば、みんながいるか、なんて事もわかんないしさー。とんでもなかったよ。
布団がしいてあったからさー。
多分、それでも、子供だから、寝ちゃったと思うんだけどね。そのうちに、気がついたら、親戚が迎えに来てたよ。
チャリの母の死の、心象風景は、さびしい。
母の死を理解出来ず、ただ、夜のただならぬ恐怖に怯えていた息子と、その息子のさびしさを埋められぬ無念で、逝った母と。
何年か前に、清瀬のお義母さんが、チャリの母子手帳を見つけて、渡してくれた。
見てみると、入院中のお母さんの、チャリに宛てた手紙がはさんであって、みんなで驚いた。
その手紙には、お父さんの言う事をよく、聞きなさい。とか、ちゃんと、宿題をしなさい。とか、忘れ物のないように。とか、その時のお母さんの心配の言葉がつづられていた。
想いを残して逝った、お母さんのココロ、そのものだ。
スズキのうちはね。わたしが2歳の時に満州に渡ってね。6年いたのよね。
トクエお義母さんの妹であるツネコさんがそう言った。
トクエお義母さんはチャリの亡くなったお義母さんで、会った事はない。
チャリが小学校2年のとき,医療ミスの手術がもとで、39歳の若さで亡くなった。
10人兄弟の長女で、一家を背負って、親分気質のヒトだったらしい。兄弟をまとめる求心力のあるヒトだったと聞いている。
満州では、看護婦をやって、家族の生計を支えていた。父親は戦争に召集され,一家の大黒柱にならざるを得なかった。
10人いた兄弟のうち,引き上げのときに男の子の兄弟を二人亡くしたという。
満州で戦争に巻き込まれた人たちの苦労は,ほんとうに大変だったのだろう。
お義父さんとは、中国で知り合ったらしい。
お義父さんは終戦の後も,中国の医療機関に残り,帰国出来たのは終戦後8年が過ぎてからだ。
チャリが生まれたのは,お義父さんが36歳の時だった。
年をとってからの子どもだったので,わがまま放題に育てられたという。
おやじには可愛がってもらったよ。いろんなところに連れて行ってもらったのも覚えてるなー。
下関に行く時はさ。寝台車なんだけど,おやじに,6歳なのに5歳って言え。とか言われるんだよねー。5歳だとタダなんだ。だから、一つの寝台に2人で寝たんだよ。だけど、子どもだから寝ながら動き回るじゃない。
気がつくと,おやじがいないんだよね。はっと気づいて廊下をみると、寝台車のデッキで、煙草をくゆらせてるおやじがいて,ぼくの寝相が悪いから,寝ないでデッキにいたんだなぁ。と、わかったよ。
おふくろはさ。スズキを背負ってたから、兄弟が、いろいろ出入りしてたんだよね。親戚の中で,融通し合って,職を紹介したり,ぼくを預けたり。とかね。家族全員で,ひとつの方向に向かうっていう感じがあったよね。その頃は。家族を存続させていく事が大事。みたいなさ。それで、その家族って言うのが、全部、なんだよね。核家族じゃなくて。
今の中国からとか、フィリピンからの出稼ぎの人たちみたいに,自分はどうあれ、家族を守っていく,っていう考え方が,その頃の日本にはあったんだよ。きっと。今の日本には,そういうのはなくなっちゃったけどね。
おふくろも早くに死んじゃって,その求心力がなくなって、おやじのとこにアサ子さんが来たから,だんだん疎遠になっちゃったけど。
スズキの親戚には、ぼくは世話になったんだよ。と、チャリ。
お義父さんの納骨式は、少し早めて執り行なったんだった。
49日を待つと、年末の一番忙しい時期にバッティングしてしまうからだ。
カズヤ君家族,アサ子お義母さんの妹チーちゃん。
そして、トクエお義母さんの妹さんのツネコさんも駆けつけてくれた。
娘さんのヤッコちゃんも一緒。
通夜の時、ツネコさんとは告別式でお会いしたが,初めてとは思えないような,懐かしい感じがした。
会った事がない、トクエお義母さんを、ツネコさんに重ねたのかもしれない。
写真でしか見た事がないトクエお義母さんと似ている気がする。
またここでお会い出来た事も,うれしかった。
ツネコさんも、同じように言ってくださった。
お義父さんのお骨は,トクエお義母さんと、アサコお義母さんの真ん中に置かれた。
お坊様が,両隣にいらっしゃる方はどなたですか?と、聞かれたので,わたしが、あー。えっと。第一夫人と第二夫人、、、。と、言った。
みんなで,大笑いした。。。仲良くしてくれるかしらねぇ,,,。
戦中戦後の大変な時期を乗り越えて,わたしたちの父母の時代は、ここまでやって来た。
家族の絆を必死で繋がなければ,生きていけないような、時代をくぐり抜けて。
その ご先祖様の,誰か1人でも欠けていたら,今,ここにあるわたしたちは、存在しないかも知れないのですよ。
納骨式に読経をしてくださった、お坊様が、そんな事を、話されていた。
父は19歳で召集され、通信兵として満州に渡り、あと何日かで前線へ送られる、という時に終戦を迎えたという。
あと何日か戦争が伸びていたら、確実に死んでいたよね。と、よく話していた。
やっぱり、生きてて良かったわよ。だってこんないい世の中になるとはあの頃は思ってなかったものー。
父は最後の召集兵であった為、2等兵のままシベリアに抑留され、2等兵のまま捕虜として足掛け5年日本には帰れなかった。
チャリの生みの母方の家族は、満州に移り住んでいた為、終戦となって国から見放され、自力で日本に帰国したと聞いた。
満州の住処を終われた日本人難民は、大陸を果てしなく南下し、日本海側へ抜ける港を目指した。
国は大量の難民が一度に日本に戻ることを恐れ、(日本各地も惨憺たるもので、大量の難民を受け入れることが出来なかった。)日本行きの船は差し止められた。
それを詳しく聞いたのは親族のお葬式の時で、ツネ子おばさんがその時のことを問わず語りに話してくれた。
終戦の知らせを受けて、中国人からの襲撃を怖れて、着の身着のままで家族で家を離れたという。ツネ子さんはその時はまだ小学生くらいだった。
その時父親は軍部の徴用を受けて不在。
おばあさんとお母さんと、ツネ子さんと弟2人。チャリのお母さん(ツネ子さんの姉)は中国の管理下で看護婦をやっていてそこにはいなかった。
何日も山の中を彷徨って、日本人の収容所なるところへ身を寄せたが、ソ連兵が来て、金目のものは全て剥ぎ取って行ったという。
ソ連兵が来ると、娘や母親たちは床下に隠されたと話していた。
わたしは子供だったからね。知らんぷりして遊んでいたけど、やっぱり、緊張していたんだと思うのよ。子供ながらにね。
それでも連れて行かれそうになって、抵抗して殺されちゃったひとなんかもほんとにいたのよ。わたし、見たもの。。。
わたしは、その帰国への逃避行がはるかに長い道程を徒歩だけで歩いたことは想像できたが、叔母たちの家族がいったいどれくらいかかって日本に帰れたのか、知らなかった。
その話の途中に、わたしが、どのくらいで日本に帰れたんですか?と、聞くと、驚くべき答えが返ってきて、びっくりした。
そうねぇ。翌年の冬くらいだったからねえ。
1年半くらいだったかしら?、、、、、。
家を追われ、中国人からの報復を恐れ、ソ連兵に略奪され、ぼろぞうきんのようになりながら、ようやく帰国できる船に乗れたのは、翌年の冬だったとは、、、。
その困難のうちに、2人の弟が亡くなったと話していた。
いまも時々思い出すけど、食べるモノもなくて、ひもじくて、可哀想だったなぁ。と、思うのよ。。。
大きな夢を膨らませて、日本は、広大で豊かなアジアを自分の領地にしたいと思った。
そしてその夢は日本人たちの希望となってたくさんの人が、豊かさを求めて日本を旅立った。満州だけで27万人とも、32万人とも言われているという。
帰国できた開拓民の数はそのうちの11万人だそうだ。
あとは、国から、打ち捨てられた。。。非常事態だから、仕方がなかった。。。
非常事態の場合、今でも、国から見捨てられることもある。。。たとえば、、福島。。
日本人が見た夢は、世界の総スカンを喰らい、己の小ささを、他国の膨大な物量を目の当たりにして思い知ることになった。
戦える準備をするから、戦わずに済むのだ、という論理が果たして通るのか、それはわたしにはよくわからない。
もしくは、攻めてこられた時、丸腰だとやられっぱなしになるから、とにかく、反撃できる用意だけはしておかないと。という考え方。話し合いも決裂して、もはや相手は荒っぽいやり方で来るしかないだろう。という意見も、偏ったバランスで考えられているように思える。
実際に何隻かの船などが不気味にうろうろしているのは、気持ちのいいものではないと思うが、それは、国を挙げて、軍隊が押し寄せているのとは意味が違う。
政府はどうあれ、まだ日本と中国、(韓国もしかり)の国交は実際につながっていて、密接なビジネス関係にもある。だから、関係がこじれることを困っているひとたちも大勢いるはずだと思う。
中国人全員が日本人やっちまえ。と、思っているわけでもないし、日本人も、同様である。
要するに、その考え方を、「どの方向に持って行くのか。というスタンスを作る」ことが、対相手国との関係形成なのだと思う。
そして、それが日本の現政府が作る隣国との「未来図」である。
始めから、反発の気持ちが反映されるやり方では、相手国も牙を隠す。そうそう和やかに事は進まなくなるだろう。わかりきった結論である。
今、日本は、近隣国に対して、ハナから相手は信用できません。だから、武器を携えて相手を観察して行きます。という姿勢で相対する方向に進みつつある。(このことだけが国防軍にするための意図ではないと思ってもいるが、一応。)
不戦の誓いを立て、80年前の愚かな戦争を悔い、他国との波風をなるべく立てないようにやってきた。
貿易を通じて近隣国とビジネスパートナーになり、繁栄を築いてきた。
このやり方で、何がいけないのだろう。
武器を持つ、ということが、どれほど、「自分が大きいと錯覚させるもの」なのかを、よく考えた方がいいと思う。
戦後80年。
町に死体が転がっているのも、今日食べるモノがない。という暮らしも知らずにやってきた日本人たち。
そして、それらを体験した人たちは、さらに、少なくなりつつある。
人間はほんとうに、歴史からは学べないイキモノなのだと、心底思う。
そして、歴史は、繰り返す。。。のか。
自分が大きいと錯覚をしたい日本人たちには、今一度、勇ましく振り上げそうなこぶしを、見つめてみて欲しい。
隣国との「未来図」は、反発ではなくて、(みんなと、)手を取り合えるもので、あってほしい。
そう、心から、願う。
自分の戦争体験記を書いた後、もうすっかり何も書かないままになっているけれど、父のMIXIにはまだ何人かその記事を読みに来る人がいるそうだ。
以前、そのMIXIを見たなにやらのタウン誌から父のMIXIにメッセージが入り、その内容について取材させて欲しいと言って来たことがあった。
何年か前、オレオレ詐欺の被害にあってから、父もそういうたぐいには用心深くなっている。返事はしていないと言っていた。
調べてみたら、実際ホームページなどもあり、美容室に置かれているような専門系の情報誌のようであったが、それを伝えたとき、父は、あれはね、断ったよ。と話していた。
父の戦争体験は、小さい頃からよく話は聞いていた。
シベリアで捕虜になり、丸3年の足掛け5年もの間、日本に帰れなかったことや、42キロしかなく、その捕虜生活で生き延びられたのは、逆に痩せていた為に、少ない食料でも体が持ったからだ、とか、そんなエピソードをよく話していた。
MIXIには、父が辿った戦争への記憶が、覚えているままにたんたんと書かれており、それを読んだとき、こうやって、父の経験を形にして残してくれてありがたいなぁ。と、思った。
タウン誌はどうでも良かったが、この記録は、なにかの役に立つのかも。と、思って、NHKの戦争の証言プロジェクトに、わたしから父の記事のコピーを、送ってみたのは、去年のはじめか一昨年の暮れあたりだったか。
しばらくして、NHKから連絡があり、番組に使用するかはわからないが、一度取材させて欲しいと連絡があった。
戦局が圧迫されて、日本がにっちもさっちもいかなくなった頃、父は、19歳の乙種合格で(本来は不合格の適正)召集された。
二等兵のままで戦争が終わった父の戦争体験は、戦いの中にいたというよりも、捕虜生活の方が長い。
満州に渡り師団通信兵として訓練された後、前線にいつ送られるかと思っていた矢先に終戦を向かえた。
日本に帰れるかと思いきや、シベリアまで連れて行かれ、日本の軍隊の序列を保ったままの捕虜生活が始まったという。
戦争は終わり、戦いの緊張感はなくなる。そしてある程度の配給もそれらの部隊に支給されるようになると、父のいた部隊の幹部たちは、靴の紐が結べないほど太っていったと書かれている。
軍隊での厳しい訓練や苦労も子供の時から忠君愛国の精神をたたき込まれて、国の為につくす事が、愛する家族の幸せに繋がると死を覚悟して来て、しっかりした目的意識があったのですべて我慢出来たし、当時は皆何となく納得していました。
中略
旧軍隊組織での捕虜生活では、敗戦になって何時までたっても最下級の初年兵が何時も一番こき使われるという状態を、そうそう我慢できるはずがありません
中略
このような状態の時隊長におべっか使う下士官と、軍隊はなくなったのだからすべて平等でなくてはいけないと、兵隊に味方する下士官に別れ初年兵の中にも苦学して大学出ておる者が絶対このような状態はおかしいと話し合い、兵隊に同情する下士官と手を組み隊長におべっか使う下士官を呼びだし殴打する事件が発生しました。
父のMIXIより抜粋 (2007年5月20日より8月20日までに記録)
ここからの革命的な動きの一連が、社会主義運動へ捕虜たちを動かしていく場面が面白い。
取材の後、シベリア抑留の番組は、構成されることになりました。と、NHKから連絡はあったものの、父の取材は、その番組には取り上げられていなかった。
取材のとき、ずいぶん楽しそうに話しちゃったからねー。と、父は舌をぺろりと出して笑っていた。
先日、NHKの「戦争証言プロジェクト」から手紙が届き、取材した人たち全員のアーカイブを見ることができるようになりました。と、あった。
さっそく、そのアーカイブを見てみた。
うーん。。。。
たしかに、そこに映る父は、身振り手振りを交えて、とても楽しそうに、その戦争体験のことを語っていた。おまけに横に控えていたわたしに話しているように、何度も横を向く。
毎年終戦の近くになると特集される番組の重厚感は、そこにない。(ははっ。)
しかし、話はけっこう佳境に入ると面白い。普通の日本人が、社会主義のピンクに染まっていくところ。
革命の起こるべき下地。そして、社会主義になった後の窮屈さ。etcetc....。
面白かったが、父のインタビュー場面は、あまりに楽しそうで、番組の主旨にはふさわしくなく、ボツになったことを、納得。
しかし、父は、これからの日本に対して、残すべきものを、残せたと思う。
これから日本が、ふたたび過ちを繰り返さない為の、これは、大切な、証言であると思う。
そして、この映像は、わたしたちがいなくなった後も、きっと、末永く残るのだろう。
収容所内の階級差別
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150021_00000
NHKアーカイブス 父のシベリア捕虜生活の証言
(とくに4.5がオモロいです。)
岐阜の可児郡御嵩町にある正願寺の13人兄弟の次男に生まれた父であるが、そのルーツを辿ってみると、明治時代に血縁の途絶えたその時の住職が、3人の養子をもらい、龍山を名乗らせたのだそうだ。
その一人は九州の方へ移り、もう一人は静岡の方へ移ったらしい。
残る一人が大拙和尚で、檀家のひとつである伊藤という家から龍山に養子に入り、正願寺の住職となった。
わたしの全くの同姓同名が、香川県あたりにひとりいるようなのだが、その人はもしかすると九州に別れた龍山の縁故かななどと思う。
なので、わたしは生粋の「龍山」ではないんだった。
お寺は基本的に世襲ではないので、後を継ぐものがいなければ次に代わる人を探さなくてはならない。
うちも3人娘だが、お寺を継いだ長男のマサミチ叔父さんのところも3人娘で、その婿さんたちは仏門に入らなかったので、今では龍山ではなく、正願寺を守っている住職さんがいらっしゃる。
だから、正願寺は父の生家であるだけのものとなっている。
今回、そこを訪ねるにあたって、チズコさんがいろいろとお寺に連絡をしてくれたり、お世話になった。
チズコさんは長らくお寺に暮らしたので、いろんなエピソードもよく話してくれる。
父と話をすると、「お父さんが厳しくて、ホントにお寺はイヤだったよね。」と、必ずその点で2人の意見が一致する。
父の結婚式とマサミチ叔父さんの結婚式は1週間違いだったそうだ。
東京で結婚式をあげた父と母は、父の親族を呼べなかったので、母は父の家族に会っていなかった。
父は仕事なので休みは取れない。
で、会ったこともない義理の両親に挨拶するために、お米20キロを担いで岐阜のお寺にひとりで出かけて行ったそうである。
ねえさん、すごいわよ。
こーんな両手に荷物をいっぱい抱えて、マサノリの嫁のトシヨですって、ひとりで乗り込んで来たんだから。
タツヤマはみんなちっちゃいのに、ねえさんはほら、おっきいじゃない、そんな大女が米20キロ持ってきたんだから、お寺はみんなホントにビックリしたのよ。
マサノリは、すごいのをもらったって。。。
そんなふうに言っていたのを聞いたことがある。
そしてまた最初の娘が生まれて、孫を見せにやって来た時も父は同行せず、その時は何の理由か姉の典子をしばらくお寺に預けたらしい。
マサミチおじさんの娘のミチヨちゃんはちょうど同じ年で、姉はそれをよく覚えていて、毎日楽しかったと話す。
ねえさんが来てた時ね。ちょうどここ、鐘突き堂のたたきのところで がーって寝てたのね。疲れちゃったか、気を使ってひとりになりたかったのか、わかんないけど。
それで、檀家さんが通りかかってね。見たことない女が鐘突き堂で大の字で寝てるって、ビックリして。。。
あそこで寝てる女は誰じゃ??って、大騒ぎになったのよ。。。
母の寝姿が目に浮かぶ。。。
母の若い頃の話は、誰に聞いても豪快である。。。
http://ameblo.jp/ni3tttym/entry-11170507893.html
今回はこんな話も鐘突き堂で聞いた。
正願寺の鐘突き堂は戦時中、徴用(軍備に必要な資材を国民は有無を言わずに提供すること)の為に鐘突き堂の鐘を国に持って行かれたそうだ。
そして、戦争が終わった後、鐘がないのは困ると言って、闇市でどこかの、やはり徴用でとられた他の寺の鐘を買って来てそれを使っていたそうだ。
戦後何年かが過ぎ、気がつくとその鐘に、もとの場所であろう寺の名前が刻んであることを発見。
その寺も鐘がないと困っているだろうと、探していると、何処かの番組で探してくれることになり、めでたくその鐘を持ち主の寺に返すことができたそうだ。
その時は、何かの番組として放映されたとか。大拙和尚も出演したのか? 見てみたい。
その鐘突き堂は、御嵩町の街を見下ろすように堂々と立っている。
チズコさんが、頭の上をね。B29が連帯になってずーっとあっちの名古屋の方に飛んで行くのを見たことがあるのよ。。。
しばらく経つとね。あっちの、向こうの空がぱぁーって、赤く輝いて、ものすごくきれいだったのよね。
それで、兄弟たちでみんなでここにこうやってずーっときれいだねーって、その空が燃えるのを見てたんだよねー。と、話していた。
お墓の場所は、すぐにわかった。
先祖の霊が眠る、代々の墓としていくつもの石が立っていた。
お坊さんのお墓は四角くないのだそうだ。
涙型を逆にしたような、墓石に大拙と書いてある。
会ったこともない、祖父のお墓の前に佇んで、神妙な気持ちになった。
父が目を閉じて般若心経を唱え始め、うろ覚えのわたしも、みんなも、後に続いた。
線香の煙がたゆたう。
あちらの世と、こちらの世の、接点を繋ぐ白い煙。
思えば、自分の命には、たくさんの先祖の命が重なる。
目には見えなくても、聴こえる声がある。