自分に勝ちに行く!!

自分に勝ちに行く!!

聞くことは、人を豊かにする。話すことは、人を機敏にする。書くことは、人を確かにする。自分の心の内側を、書くことで確認して行こうと思います。つれづれなるままに、テーマもなく...?.。心の引き出しを増やそうと思います。

ニケ像:翼を持つ女神、心に翼を

 

 

サモトラケのニケ像レプリカ、翼広げる女神

 

藍染め浴衣に描かれたニケの羽模様

 

 

6日間の龍山朋子染色作品展ー心に映るものPART2ーが無事に終わり、ホッとしています。

 

暑かったり寒かったり、大雨だったりとどうなることかと思いましたが、370人を越える方達に作品を見ていただくことができ、とても嬉しく思っております。

 

ニケの羽の着物 仮仕立ては女子美術大学工芸専攻科の卒業制作として初めて正絹の反物を染めた作品です。

 

若い頃は恵まれた作品作りの環境にいたのに、そんなに熱心に学んでいなかったかも。と、思いますが、卒業制作だけは夢中になって制作していたのを思い出します。

 

私たちに同じ時間は2度と戻ることはありませんが、永遠に同じ場所にはいられないことを知れたら、その時から、未来が見えてくるのだと思います。

 

 

 

 

 

高校時代と大学時代で計7年間通った、杉並にある女子美術大学のパティオには、サモトラケのニケ像のレプリカがある。(現在は大学は相模原へ移転) 

 

ニケの像とは、翼をひろげた女神の像で、紀元前200年から190年くらいのものと推定されている。 

 

ギリシャ共和国のサモトラケ島で118片の断片で発見された。 

その後その欠片たちは復元され、現在の形となっているそうな。 

優美でダイナミックな姿と翼を持った女性像ということから、おそらく女子美に飾られたのだろう。


生徒たちは何年もその姿を目にとめ、意識しなくても、なにかしらを感じていた。 

わたしも在学中はたびたび中庭にたたずんでは、理由もなくニケの像を眺めていた。
のびやかで、力強く、美しい。その姿に憧れた。 

眺めていると、本当に勇気がわいてくるような、そんな力を持っていた。 

それほど、この翼をひろげた女性像は、わたしにとって意味のあるものだった。


卒業制作では、シルクの着尺に「ニケの羽」の図案を描いた。 

 

先日、友人が再び女子美の生涯学習セミナーに参加していて、その作品展があるというので立ち寄ってきた。


彼女もわたしと同じ工芸専攻で染色を学んでいたが、もう一度始めからやり方を思い出す。と言って、昨年から3年間の染色コースをとったのだ。 

 

わたしは4年生のとき、藍染めの型染めを専攻していた。
細かい柄が苦手で、構図がどんどん大きくなって行った。
藍の管理を任され、毎日藍の釜をかき回していたっけ。
それなのに、今はどんなふうに調合していたかさえ、全く思い出せない。 

 

あの頃は、就職なんかしないで、北海道にわたって染織家にでもなろうかと、ばっくり思ったりしたこともある。 

 

その頃の未来は曖昧に扉を開けていて、わたしはどこへ向かったらいいのか、よくわからないままでいた。 

それでも、その扉からは眩しい光が漏れでていて、どこへ行こうと不安なんてなかったことを思い出す。 

 

常に目の前に、光が差し込んでいる。それが、若さというものなのだ。 

 

あれから何年経ったんだろうか。


もの作りをするのにあんなに恵まれた場所にいたのに、あの時なんでもっとのめりこんでやらなかったんだろうと悔やまれる。 

 

でも、そんなわかりきったことさえも、「今」でなければわからなかったことだろう。 

 

ヒトは確実にトシをとっていく。。。

 

目の前の扉は、プラスなこともマイナスなことも含めて、わたしに用意しているのだと思う。 

 

いいことばかりを確信できないことも、年月を重ねた者にとっては、当たり前のことである。
そして、昨日と同じように明日が続いて行くとは限らないことも、だんだんとわかってくる。 

 

それが、あの頃の自分と、今の自分が一番違うところなんだろう。 

 

わたしが不安を感じていたとき、チャリが言った言葉に、とても楽になった。 

 

「今日が永遠に続くことなんて、あり得ないじゃない?」 

 

曖昧な未来は、今でも続いている。それは、誰の目の前にも。


明日のその先はいつもわからないけれど、前に進んで行く勇気だけは忘れない。

 

人とのつながり、小さな幸せ、そして健康と笑顔。
そして、気持ちはあの頃と何も変わってはいない。 

 

心に、翼を持って生きる。

これが、わたしのこれからの決意である。 

 

新しい扉に向かって、ニケのように、翼をひろげて行く。

柚木沙弥郎氏の個展にて燕の絵の前で記念撮影

 

2015年3月24日

 

「ひたすらかけのぼった夢の階段をふりかえり、今生きている自分を表現してみようと思いました。」 


そう書いてある燕の絵のポストカードが届いたのは1ケ月前くらいだったろうか。 

そのひょうきんな表情をした燕があまりに可愛くて手に取ったとき、しばらくじっと眺めてしまった。 

染織家であり、女子美術大学の学長でもあった柚木沙弥郎先生は、わたしたちが在学中のときは工芸専攻科の顧問の先生だった。 

いつもいらっしゃるというわけではなく、時々やってきてぐるりと染め場を見渡し、私たちの作品を面白がったりしていた。 

そう言うときは、にこにこしながら、「愉快だね。」と言った。 


柚木先生の年賀状はいつも楽しくて可愛くて、それが欲しくて毎年年賀状も出していた。

何年か前だったか、「年賀状は来年から失礼させていただくことにしました。」と書いてあった。 


御年94歳だそうだ。 

そのポストカードを見ていたら、女子美工芸科のクラスメイトのみんなと行きたいような気がした。 
ハナエちゃん、イミ、ハセ、ナオミさんの5人で一緒に行こうということになった。 

みんなとは2年前に横浜のエリスマン邸で卒業以来初めてのグループ展をした。 

何度かフツーのクラス会をしているうちに、このまま食事会を続けても、思い出話を2時間するだけの会になってしまったら、もう行かなくなるだろうな。と、思った。 

考えてみると、毎日四六時中染め場で顔を合わせて、話しをするでもしないでもなく過ごしていたのは、わたしたちは言葉ではなくて、やっぱり、もの作りという共通のコミュニケーションをしていたんじゃないのかな。と、思ったりした。 


それで、それなら、同窓会を作品展にしてしまおう。ということになったのだ。 
作品を出せない人も、見に来てくれれば会えるし、展示された作品は出品した人の今を感じさせるはずだと思ったから。 

全く創作することから離れていたが、その日に向けて、なんとか形にした。 

出品したメンバーでは、短い期間だったが、かなり盛り上がり、また新しい扉がひらいたような気がした。 


今年も9月頃、抽選が当たれば開催しようと話している。 


しかしあの展示会が終わってしまってからは、またもや元の生活に追われ、作品のサの字も作ってない。 



柚木先生の個展は松濤の瀟洒なギャラリーTOMで開催されていた。

重い木の扉を開いたら、そこにはたくさんの燕たちが、自由に楽しそうに羽ばたいていた。 

ポストカードの燕を見ていて、小作品なのかと思ったら、広巾の布いっぱいに羽を広げた燕だった。前面の壁面に3匹が活き活きと飛び回っている。 


わぁ!! と思い、気持ちがウキウキした。愉快な気持ちになる。 


階段を上ったところには空っぽの鳥かごをモチーフにした布があり、それには「鳥かごは 空っぽなので鳥を探しに行きました。」(こんな感じの言葉)が染められていて、あんまり元気そうに飛んでいる燕が、羽を休めにくるのを待っているようで面白い。 


ラッキーなことに、柚木先生もギャラリーにお見えになった。 
1階で編集者の方と次の絵本の題材の打ち合わせをされているようだった。 

お話をしたくて、ご挨拶に行ったら、椅子に座る柚木先生を5人で囲んで、少しだけお話を伺うことが出来た。 


作品を作ることには、「何でもいいから面白いと思うものを形にしてみるといいんだよ。」と、おっしゃっていた。 

型にはまらないで、どんな材料だってやり方だって、自分なりに考えてやってみるといいんだ。 

僕だってひとりでいちゃ何にも出て来ないけど、こういうもの作ってほしいとか、また人に言われると違うものも出て来たりするんだよ。 
ひとりだけでアイデアが出るってものでもないんだよ。 

売ろうと思って作るものも、結局だめだね。 

同じようなものを作ればいいって思っちゃだめ。つまらないね。裏切るものを作りなさい。 

そんなお話をされた後で、みんなまだまだ若いんだから、どんどんやってみればいいんだよ。という言葉のあとで、「それで、死ぬ気でやることだね。。。」と、最後にはそんな凄みのある言葉も出た。。。 

やっぱり、やるからには、死ぬ気でやれ。なのか。。。 

ほのぼのと優しい笑顔の奥に、改めて、芸術家 柚木沙弥郎のスピリッツをビリビリと感じた。 

94歳の先生は以前お会いしたときより半分くらいに小さくなっていて、2本の杖で歩いておられた。 

座られると、すっぽりと椅子の中に埋まってしまうほどであったが、声ははきはきと青年のようである。 



波間を跳ねる燕、夕闇になっても、まだ時間が足らないとばかりに空を急上昇する燕、滑空する群れの燕、どの燕たちも、柚木先生の描く燕は、エネルギッシュである。 


あ、これは、柚木先生の魂なのだな。と、思った。 


「ひたすらかけのぼった夢の階段をふりかえり、今生きている自分を表現してみようと思いました。」 


柚木先生の魂は、今も、こんなにも若々しく、自由に空を飛んでいる。 



5人全員が柚木パワーに圧倒されてギャラリーを出た。。。 

そしてなにかその大きなものに包まれているような、満ち足りた気持ちでいっぱいになった。 


空は、自由に飛んでいいんだ。

染料を塗る作業風景

 

うさぎの型染め作品、水面の波紋

 

染め挑戦中の鳥と亀の線画

 

2017年4月6日

 

染めをもう一度ちゃんと向き合おうとしたきっかけになったエピソードをここに。

 

大学時代に使っていた伸子や張り手は蕨を引っ越す時に捨ててしまった。 

ホーローのバットも、天秤も、乳鉢も、手元にないので捨ててしまったんだろうか。 
またやるときに、買えばいい、、、と、思っていたのだろうか。。。 

女子美の大学では、伝統工芸的な染色を学ぶ工芸専攻科で勉強した。 

工芸専攻科は30人の少数精鋭制である。。。。???? 


最初の1年は染めと織りの基礎を学ぶ。 

その為に広げるとたたみ1畳くらいになる織り機を入学時に買わされた。(親が。) 
それは教室に整然とならび、織り機には大きくマジックで持ち主の名前を書かされた。 

織りの行程はまず、糸染めから始まり、整経して縦糸を織り機に設置し、走行通しに縦糸を1本ずつ通し、4枚の走行通しを平行に調整して布を織る。 

この地道で細かい行程がものすごく辛く、わたしはしょっぱなから織りについては挫折した。 

最初にやった染めの授業は絞り染めであった。 
これは布をとにかくチキチキと縫い、後は絞って染料に放り込むというものであった。 
東高円寺の駅前のイソップという喫茶店でコーヒー1杯で何時間もねばり、絞りを縫いながらよくみんなでおしゃべりしていたっけ。 

ナオミさんは、布の全面を縫い目で埋めるほどの青海波の絞り染めをデザインし、あまりの大作で、たしか、1年後くらいに提出していたのではなかったか。 

それはそれは素晴らしい出来で、やはり、作品はその布に賭けた情熱と手間なんだなぁ、と、感心したものであった。 


とにかく、ばっくりした性格のわたしが、どうにかこうにか自分が出来そうなものとしては、型染めであった。 

型染めといっても、着尺とか帯地とか繊細なものは、やはり根気がいる。完成させるのは苦しかった記憶がある。 
(卒業する前に初めて正絹の着尺を買って着物地を染めようと挑戦したが、未完成のまま卒業し、何年後かにその袋を発見して開いてみたら、正絹の生地は型糊を全部虫が食べてしまっていて、穴だらけの粉になっていた。細かいガが、ぶぁっと袋から飛び出してきて恐怖であった。) 

そんな中で、自分に合っているのは、やたらデカいモチーフの型染めであった。 

友人のカチャバラから誘われて、参加することになったグループ展は、彼女のお姑さんの撮った写真からのインスピレーションで作品を作る、という趣旨のものだった。

東京マラソンなんかがあって、全く手つかずの状態だったので、東京マラソンの終わったすぐのある日、主催するカチャバラがハッパをかけにやってきた。 

もう、時間がないし、また、ステンシルでやるしかないかなーと思ってる、、、と、言うと、彼女がこう言った。 

でもさー。やっぱり、ステンシルだと、染めっていう感じじゃないよね。 近くだと刷毛ムラも見えちゃうし、ちょっと惜しいよね。。。 


、、、ちょっと惜しいよね。。。か。。。。 

キビシーッッッ!! 


しかし、たしかにそうなのである。 
ステンシルは染めというよりも、絵という方が近い。 
つまり、型を彫った部分に色を直接差していくという方法。 

でも、染めを本格的にやるとなると、道具も場所もない。何しろ、汚れる、はねる、飛ぶ、散らかる。。。家にとっては一番最悪だ。 

平日の仕事場はパターン台を机として使っているが、いざ、糊置きをするとなると、布を伸子にかけて張り手で吊っておかなくてはならないし。布を張って吊れそうな箇所はどこにもない。 

糊置きするための敷板もいるし、ヘラとか、刷毛とかも何にも持ってない。 
ここんとこでやっていたのはアクリル絵の具と、洋渋紙とカッターくらいでできるもの。

本格的にやろうとすると、本当、ハードルが高いのだ。 

しかし、カチャバラにダメだしされたし、自分も何か突破したいという思いもあって、ある日、渋谷にある田中直染料店に仕事帰りに立ち寄ってみた。 

田中直染料店はビルの3階に地味にやっている染色材料店で、学生時代は何度か行ったことがあった。 

わかりにくい場所をなんども行ったり来たりしながら探し当てて、店に入ってみる。 

こんなに地味な店なのに、その日は人がいっぱいいた。 

とりあえず渋紙と布を買おうと思っていたが、お店の人はこう言った。 

あー、もう売り切れててないですねぇ。今日で閉店だから。全部半額だし。。 


え。。。。???? 今日で、、閉店。。。。??? 


なんと!!  田中直染料店は、京都の本店だけで、ほぼオンラインの販売をするという。 

ちょっと行ってみなくちゃ、と何気なくやってきた田中直染料店の閉店が、明日ではなく、間に合ったわたしの運に、勝手に運命を感じてしまった!! 

こりゃ、なにかの存在が、本気でやれって言っている??、、、のか?? 


お店で対応してくれたのは、ちょっと年配のおじさんで、わたしの悩みを一緒に考えてくれた。 
蒸し器も伸子も張り手もないなら、リアック染料で布地を染めてから抜染したらええんじゃないですかー。 
抜染は糊を乾かしたらスチームアイロンかけて色抜くんですわー。 

聞いているうちに、なんだか出来そうな気がしてきた。 

おじさんは田中直染料店の染め方も詳しく載っているカタログもくれて、こまかく染め方の行程やコツも説明してくれた。 

帰宅後、敷板はインターネットで強化発砲スチロールの板を注文。それにふりかけるスプレー糊も購入。 

たらいや刷毛やヘラは100均で購入。 

田中直染料店でも毎週のように染料やら助剤やらを発注。出費もかさむ。 

しかし、出来上がった一作目のうさぎは近眼の人が見ているようなものになってしまった。。。 つまりは、ピンボケ。。

残すところ、あと3週間。。出来るのか。。。 

いろいろ大学時代を思い出しながら試行錯誤でやっているが、やっぱり、なかなか簡単に行くものじゃない。当たるも八卦当たらぬも八卦なのが、逆に染めのいいところなのかも。。。(ホントかよっ!!) 

何度も失敗して自分なりのやり方を見つけなくちゃ。

 

こうして、わたしの染めへの再トライアルが始まったのである。。

龍山朋子 染色作品展ポスター

 

 

昨年の10月に埼玉県立近代美術館にて、初めての個展を開催いたしました。

 

そのpart2として、川口市立アートギャラリーアトリアにて、龍山朋子染色作品展ー心に映るものpart2ーを5月19日より24日までの6日間で開催することになりました。

 

初日は13時より、最終日は15時半にて搬出になります。
中日は10時より18時までで、全日在廊しております。

 

多くの方に作品を見ていただきたいと思っています。お近くでしたら、ぜひ会場に足を運んでいただけましたら嬉しいです。

 

昨年の個展の際には、まず何やら初めていいのかさっぱり分からず、手探りの状態からのスタートとなりました。

 

まずは案内のハガキを作り、出来るだけ多くの人に、そういう催しがあることを知ってもらわなくては。と、思いました。

 

友達や顔見知りの方には、ハガキやフライヤーを作り、渡したり、送ったりしましたが、わたしを知らない人たちに届けるのは、どうしたらいいんだろう。

 

どうしたら、興味を持ってもらい、面白そう。と、足を運んでもらえるんだろう。

 

そして、自分はなぜ、作品を作っているのか、その作品をどうしたいのか、と、自分にも問いかけました。

作ったものを出来上がった時点で完成とは思えない。

それを見た人との間に何か、気持ちを共有できないものか。

 

作ることが好き、それで満足、と言う人もいる。

でも、わたしの願いは、純粋に、その作品を見てもらいたい。という欲求なのだと感じています。

 

拙い作品や、いきおいだけの作品もあると思うのだけど、それでも、その時に感じたものを、少しでも見た人に感じてもらえれば。。。

 

そんなふうに思っています。

 

今回は2回目の個展となり、どんな形での表現にしようと思った時に、今の世の中に感じるわたしの思いも、テーマ作品として展示するつもりです。

 

今までのわたしの作風とは少し違ったものになりますが、2対としたことで、これもまた、わたしの作品なんだと納得できるようになりましたし、ひとつのチャレンジでもあります。

 

そして、2024年に偶然にご縁を得て、この2年間貴重な時間をくださいました、生粋の染め職人でおられる西 耕三郎師匠に、ここアートギャラリーアトリアにて、御礼を述べさせていただきます。

 

個展をすることになった経緯も、師匠(と、お呼びしています。)から、こんな言葉を言っていただけたことからです。

 

 

あなたは 個展がいいよ。 個展をやりなさい。

それは、とても自由だから。天地自在 が 一番 のびのびと出来るんだよぉ。

 

 

工芸や、民芸、伝統、という言葉から、どうしても外れてしまうわたしの目の前に、自由という言葉が飛び出してきました。

 

師匠には、染めの技法だけでなく、生きる姿勢も、教えていただいたと感じています。

92歳の若者でいらっしゃいます。。。
その西師匠のエピソードなどは、また後日ここで。ということで。

 

6日間、全日、会場にて皆様をお待ちしております。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

龍山朋子

 

笑顔の3人:マサミチおじさん、アキコさん、父

 

名古屋訪問、高齢者家族の団らん

 

名古屋訪問、高齢者4人の記念撮影

 

 

2015年の年末旅行の1ページである。

3日目は名古屋に住む、父の兄であるマサミチおじさんを訪ねる。 

マサミチおじさんは妻のアキコさんと子供達が巣立っていった長女のミチヨちゃんのうちにひきとられて一緒に暮らしている。 

ミチヨちゃんと旦那様のヤマモトさんは5年前に両親を引き取るために一戸建てに引っ越したらしい。それまではマンション暮らしだと話していた。 

年末のこの忙しい時期にお宅を訪ねるにあたっては、いろいろ気を使い、お昼をすませてからほんの小一時間でもあがらせてもらいお茶をしておいとまするつもりであった。 
しかし、前日にチズコさんの所に連絡が入り、うちは大丈夫だから、早くから来てください。とのことで、10時半くらいにおうちに到着した。 


4年前のマサミチおじさんが最後に出席した父の兄弟会では、どうもオレは認知症らしい。と、話していたそうだ。 
父は「あたしと会って、兄さんあたしのことわかるのかしら?」と、心配していた。 

89歳の父の兄なので、当然父より年上である。91歳になる。 

奥さんのアキ子さんも同じく認知症で、しかし、その症状の表れ方は全く違うらしいのよ。と、チズコさんがいう。 

お兄さんは話をしてると相づちがうまいので相手は全然わからないみたいなんだけど、シャツを足から履いたりしちゃうらしいのね。 
お義姉さんは何でもすぐに忘れてしまうらしくて、さっき食べたことなんかもすぐ忘れちゃうみたいなのよね。。。 

昨日来たミチヨちゃんのメールでは兄さんはこんなことする、あんなことする、義姉さんは あれも忘れてこれも忘れるって、だーって、書いてきて、ストレスもきっとそうとうたまっているかもしれないわよね。 

でも、ヤマモト君がいいご主人でねー。 
兄さんをちゃーんとお風呂に入れてくれたり、散歩にずっとつきあってくれたりするんだって。。。 

チズコさんの話を聞いて、父はますます不安を募らせる。 


ほどなくi-phoneのナビはミチヨちゃんのお家近辺に近づき、ご主人のヤマモトさんが玄関の前ににこにこしながら立って待っていてくれた。 

わたしはヤマモトさんにお会いするのは初めてであった。 

総勢5人がどやどやとお邪魔して、居間のこたつのある部屋に入ると、ピンクのセーターを来たアキコおばさんがこたつに座っていた。 
誰が来たのかとキョトンとしている。 

ヤマモトさんが「ばあさん。マサノリの家族が会いに来たで。わかるかぁ?」とアキコさんに聞くと、目をきらきらさせながら、「ほぉ?マサノリか? 、、、、うーんと、、、、よぅ、わからん!!」と大きな声で言ってあっはっは!!と、笑った。 

ミチヨちゃんがお茶を入れてくれている間にマサミチおじさんも部屋に入ってきた。 

誰が来ているのかいな。と言う。ミチヨちゃんが、さっきも言ったでしょ。マサノリおじさんが来てるのよ。もー。さっき話してもすぐに忘れちゃうのよねー。と笑う。 

そういうとニコニコしている父をみて、おぅ。マサノリか。と言った。 
父が、そうだよー。と返す。 

わたしや姉を見回して、マサノリはわかるが、他はようわからんな。と、言う。 

チズコさんが、兄さん!!わたしはわかるでしょ!! チズコだよ。と、耳のそばで大きな声で言った。 

アキコさんがたくさん現れたお客さんにすごくハイテンションになった。 

姉が隣に座ったが、何度も姉に、マサノリの長女か。。。うーん。。。忘れてしもたなー。なー。(マサミチおじさんに)よう、わからんな!!な!! 

マサミチおじさんも、それを受けてそやなー。よう、わからんて。と言う。 

ノリコちゃんか!! なんとのう、ちょびっとだけ記憶があるわな。。でも、そっちの方は(わたしのこと)よう、わからん!!! と、大きな声で、元気である。 

マサミチおじさんは、すこしどんよりした表情であるが、ゆっくりと父の顔を見て、マサノリだけはわかるなー。と言った。 

ホントにミチヨちゃんたち、二人をひきとって大変だけど、ほんとによくやっているわよね。と、チズコさん。 

ミチヨちゃんが言う。 

大変なことも多いけど、お父さんもお母さんも今が一番しあわせって言ってくれるからね。。。 

わたしの父も、いつ聞いても、今が一番しあわせ。と、必ず言う。 

足るを知ることと、感謝の気持ちをたんたんと、心に修めている。 


大拙和尚の厳しさと、子供時代のお寺での暮らしは、後のどんな苦労も乗り越えられる強さを兄弟に植え付けた。 


ヤマモトさんとミチヨちゃんと話を交わす間にも、アキコおばさんは何度も姉に話しかけている。 

あらっ。ノリコちゃん? うーん。。すこーし記憶にあるわな。いやー。なんだか美人になってしもて、そんなんやから、やっぱり、よう、わからん!! じいさん、わからんな!! 

うん。よう、わからん。とマサミチおじさん。 

その繰り返しを姉はたんたんとにこやかに応対する。そして、そのやりとりがとてもユーモラスで、わたしたちは全員で何度も大笑いした。 

マサミチおじさんも、話しているうちに何かの思いがよぎるのか、父に話しかけようとする。父と共通の思い出をはっとするように口を開きそうになるのだが、そのとき、また、アキコおばさんのお話が始まる。 

マサミチおじさんは、また東京へ行きたいなー。東京オリンピックが6年後にあるで、その時に生きとるかわからんが、生きとったら見てみたいなー。と、父に話しかけていた。

ま、生きとりゃせんだろうが。。。と、その後につぶやいていた。 

アキコおばさんも、マサミチおじさんも、ほんとうにとてもしあわせであることがわかった。 

ミチヨちゃんと、ヤマモトさんが、とても優しい目で二人を見ている。。。 

みんなで近くのうどん屋さんに行って、名古屋名物の味噌煮込みうどんを食べた。 
姉に話しかけられない場所になってしまったアキコおばさんは、すっかりおとなしくなってしまった。 


帰りの車の中で、マサミチおじさんが、マサノリだけはわかるがな。と、言っていたことを父はとても喜んでいた。 

東京オリンピックをマサミチおじさんと見られるように、ずっと元気でいてほしい。 

いつでも、今が一番しあわせ、と、言ってくれる父。 
それがどんなにありがたいことか、娘たちは、知っている。

 

 

大鹿村の雪景色、冬の美しい風景

 

 

2015年の年末旅行の記憶から。

 

 

最近はねー。何処に行くのも億劫なのよ。ここで寝てるのが一番楽なのよ。。。と、父。

年末、いつも家族旅行してるしねー。今年はどうしたもんか。。。 

仕切り直して年末に父の生家である岐阜にある正願寺と、愛知県に住んでいる父の91歳になる兄であるマサミチおじさんと父を会わせに行く旅を計画。 


それを話したら、最近では何を話しても乗って来ない父も、興味ある顔をした。 

パパが死んじゃったら、おじいちゃんのお墓の場所もわからないもんね。 
パパ、おじいちゃんのお墓の場所、トモコたちにまだ教えられる?? 行ってみてどこかわからない、なんてことないー??とわたし。 

大丈夫だよー。まだぼけてないからねー。と、父が返す。 

だったら、お寺に行ってみる?それと、マサミチおじさんにも会ってこようかー?と、わたしが言うと、ふーむ。。と、考えて、父がこう言う。 

4年前に兄弟会で会った時は、「どうやら俺は認知症らしい。。。」と、言ってたからねー。あたしのこと、わかるのかしらん??と、父が言う。 

いつも上品で背筋がぴっとして、紫の法衣を身にまとったマサミチおじさんはとても美しいお坊さんであった。 
そのおじさんが認知症って、なんだか、信じられない。。。 


貧乏な山寺の次男として生まれた父の、兄弟はなんと13人。(この旅行で14人だったことが判明!!) 
子供の頃に亡くなってしまった弟や妹もいるようだが、今は7人の兄弟が残っている。 

残っている兄弟はみんな仲がよく、毎年のように兄弟会をして集まっていた。 
それは、それぞれが、生家を離れたり、苦労をしたりして、兄弟たちへの思いが、また独特に強いからではないかと思ったりする。 


父は小学校を出てすぐに、檀家の紹介で自ら望んで台湾に奉公に行き、生家で兄たちと生活を共にした時間はごくわずかである。 


妹のルリコさんは翌年、明石のお寺の養女となり、生家を離れた。 

チズコさんは兄弟の下から3番目だったそうだが、たまに遊びに行く明石のお寺にいるルリコさんが実の姉だということは知っていた。しかし、話しはしても、お互いにそれは言えなかった。知らないふりをし続けていた。と、話していた。 


父は台湾で招集され、赴いたソマン国境であっという間に終戦を迎えた。しかし、そのままシベリアに連れて行かれ、足掛け5年の捕虜生活を送ることになった。 

そして、生きるか死ぬかの捕虜生活を終えて生家に戻ると、親や兄弟の会話の中に知らない名前が何度も出てくる。 

それが、一番下の妹の名前で驚いた。と、言っていた。 
捕虜生活を送っている間に、もう一人、妹が出来ていた。 

その末っ子のリョウコさんの名前はなんと、龍子と書く。龍山龍子である。あまりな名前だと思ったりするが、こんなに兄弟が多くて、末娘だし、どうせ嫁に行くのだから龍山の龍を名前にしておけ。と、大拙和尚が決めたそうな。 

お母さん(父の)はそんなのはあんまりだ!!と、怒っていたのをチズコさんは見ていたという。 

そのリョウコさんと父とは、24歳差の兄弟である。凄し。 


父の兄弟たちの、そんな一筋縄ではなかった時代の「絆」である。 


耳も遠くなり、ひとりで旅行に出かけて行くには少々不安になってきた父は、去年「もう兄弟会には行かない。」と、連絡したそうだ。 

わたしたちが連れて行ける時しか、もうお兄さんに会えることはない。 


その旅行のプランを提案してくれたのはチャリで、お父さん、お兄さんにも今のうちに会っておいた方がいいんじゃない?と、言ってくれた。 

それをチズコさんと姉貴に話したら、年末で忙しいけど、それなら無理してでも一緒に行きたい。と、言ってくれて、5人で車にぎゅうぎゅう詰めで西へ向かうことになった。 


一気に岐阜まで行くのは厳しい、というのもあって、大鹿村のお気に入りの宿「右馬充」でゆっくりしてから、と、初日は大鹿村宿泊、2日目は正願寺でお墓参りをしてから蒲郡に宿泊、最終日はお兄さんご家族に会って、2泊3日の父のルーツを探る旅、海南島からの、第2弾となった。 

特別参加のチズコさんの計らいで正願寺へのご挨拶も、翌日のお兄さんとの再会もスムーズで、本当にお世話になった。 

車の中、お宿の夜、そして正願寺のお墓で、鐘楼のある鐘突き堂で、いろんな話に花が咲いた。 

耳の遠くなった父も、遠くの記憶を呼び覚まして、いろんな話をしてくれた。 

快晴の天気、大鹿村の一瞬の雪景色、帰りの高速で見た輝くばかりの富士山。 

どれもが、父のこの旅を喜んでくれているような、冬の美しい風景であった。 

大拙和尚も、父に会いに来てくれただろうか。

 

コカ・コーラ缶、鹿と山並みデザイン

 

 

 

離婚して、今一人暮らしだし、会社もタスク(課題)がキツくて、なんだか自分にいっぱいいっぱいだったりするんですけど、そんなんで、これからどうしていけばいいのかなぁーなんて、悩んだりしますよ。。。 

と、言うのは、旅先で初めて言葉を交わした男性である。 
そこは1日に2組のこじんまりしたお宿である。
夕食の時にひとりで食事をされていた。

自分より年下の女性が上司として迎えられたそうである。 

問わず語りにご自分の話をする。 
少し酔っていらっしゃる。 

学生時代はテニスに明け暮れていたそうだ。 
なんの心配も不安も、感じることはなかったと話す。 

ボランティアと現実逃避をかねて、子供達にテニスを教えたりしているそうで、今はそれが一番楽しいと話していた。 

夏休みに山歩きをして来たと言うと、「ふーん。山歩きはそんなにしたわけじゃないんですけど、あんまり好きと思ったことはないんですけど、、、ほう、、、いいですか!!」と、感心しながらうなずいている。 


こんなところへ来ると、田舎もいいなぁ。。田舎に住んでみたいなぁ、、。なんて、思いますけど、そんなふうに思われたことないんですか? と、訊ねられた。 

わたしたちが30代の頃、バブル真っ盛りで東京に家を持つなんてコトは夢のまた夢であった。それで、いずれは田舎に家を持とうかという気持ちになったこともある。 
車で行ける距離の田舎に家を建て、しばらくは週末に通うのもいいかもね、と思って実現も考えた。その頃は週末のお休みは自分たちの為だけに使えた。 

しかし、40代には親たちが歳を取り、そちらに意識が向いて行った。お互いの親の元へ通うようになり、いつの間にかそんなことも考えなくなった。 
両親たちを見ていると、住み慣れた土地に住むということは、安全を手に入れている、ということでもあるとわかった。 

結局は住み慣れた土地が、自分の「居場所」なんだと思うようになった。住んでいる土地には、自分の土地勘という手足が伸びている。 
行き慣れた病院があり、どこへ行けば何が手に入るかを、感覚としてわかっている。 

もし、本当に田舎暮らしを改めてしたいのだとすれば、その土地の懐に飛び込むことになる。心落ち着けて暮らせるようになるまでには、何年もかかる、ということだ。 


今はときどき、大鹿村みたいな場所に来て、命の洗濯して帰る、というのがいいかなと思っています。と、答えた。 


私はいま、53歳になったんですが、これからどうしていきたいのか、どうなるのか、わからなくてちょっと考えてしまうんですよね。。。 
仕事もそんなわけでなかなか自分がクリア出来ないぶん、ちょっと辛くて、、、。 

家に帰ってもひとりだし、なんかやっぱり、張り合いないっていうか、さみしいんですよね。。。 

岐路に立って、方向を見失いそうになっている。。 


年をとる、ということは、わけもなく不安になったりするものである。 
変わりゆく状況は、すべて年齢のせいにもしたくなる。 
そして、確かに自分自身に昔のようなキレはなくなっていくのである。 

誰でも どんな風に生きていくのか、改めてそれを考える時期は、来る。 

ひとは変化しながら生きて行く。 
その変化は、誰もが経験する未知の扉であるのだろう。 

ひとの人生は、長い放射線を描く。 

そのピークを越えた後は、ゆっくりとしたスロープが待っている。 


年をとるってのは、難しいですね。。。と男性が呟く。。 


上手い年の取り方はわからないけれど、いろんな状況が変わったとしても、自分らしさだけは失わなければ、それでいいんじゃないかな、と思う。 


同じ場所に永遠に立つことは出来ないのだ。 


そして、おそらく、それさえ理解していれば、年をとるのは簡単なことなのだ。 

その男性と同じように、わたしもその分岐点に差し掛かっているのだろう。 



そんなことをぼんやりと考えていたら、男性がまたわたしたちに同じ質問をした。。。。


こんなところへ来ると、田舎もいいなぁ。。田舎に住んでみたいなぁ、、。なんて、思いますけど、そんなふうに思われたことないんですか? 

、、、今夜の話は、きっと明日には、忘れていらっしゃるだろう。。。

とんかつ定食、キャベツ、ご飯、味噌汁

 

 

ヒトに与えるその人の印象は,やっぱり、どう、生きてきたか,どう,生きているか? に左右されるものだと思う。 

政治家なんかも,この人,絶対,悪い事してるよ。と、思うような顔をしている人は、けっこう多い。 

TVじゃわからなくても、近寄ると,何かしらのその人の電磁波が来る事もある。 
もちろん、その電磁波は,高感度な印象で届く時は,その人に興味を持つし,その人と,話をしてみたくもなる。 


でも、近づくと、不穏な空気を持っているひとなんかも,いるのである。 


何で,こんな話をするのかと言うと,先日観た,ディパーテッドで、ビリーを演じていたディカプリオの目を、わたしは、以前、見たことがある、と思ったからだ。 

それは、たんなる偶然で,知り合うべくもない、定食屋のカウンターで隣り合わせた人だった。 

そこは、近所にあるとんかつ屋さんで,目黒にあるとんきの兄弟店だが、わたしとチャリが行く時は、特別に何かいいことがあったようなわくわくしていく場所だった。

 

そこに行ったとき、どさっと、セカンドバッグをひのきのテーブルにおいて,とんかつを注文した隣の人に,ただならぬ空気を感じた。 

なごやかだった、店の空気も,一瞬にして,変わった。 
店の主人も,何気ないふりを装いながら,緊張しているのがわかる。 

わ、わ、わたしの、隣なのである。 

真横にいるので、どんな人かわからないが,隣から迫ってくるオーラが、ただごとではない感じなのだ。 

他の客も,素知らぬ振りをしながら,緊張しているようなので,その筋のひとなのだな。と、思った。 

若い人で,背が高く,痩せている。髪は真っ黒で,センターパーツに分けた少し長い髪型だった。(武田鉄矢の少し短め。) 
スーツを着ているが,痩せているので,体に合っていず,がたごとしていた。見てはならない角度にいながら,隣なので,危険を察知しなければ,という義務感も加わって,何気なーく,何気なーく,そのヒトを観察する。 

とんかつが出来て,そのヒトが,受け取った時,わたし側の左手の、小指が第一関節から,すっぽりと、なかった。 

びっくりしたわたしは、ついに、その人の顔を見てしまった。 
彫りが深く,眉が太い。そして、一重なのに,大きな目が,なぜ?と、いうくらい、落ちくぼんでいた。 

かかって来た携帯電話に,店にいるのに関知せず,大きな声で話すそのヒトの声は,緊張で、うわずっていた。 
年の頃は,30半ば。まだ、チンピラの域なのだろう。 

その男の目。 

そのヒトの人生に,どんなことがあったのだろう? 多分,わたしなんかの、想像を絶するような,世界の中で,過ごしてきただろう、その目。 

自分で切り落としたのか,それとも、誰かに押さえられて切り落とされたのか,大きくて,長い指を持つその人の小指は,不自然に,途切れていた。その事柄だけでも,そんな顔になってしまうだろう。きっと。でも、起こる事すべて,そんな風なのかも知れない。 

見開いたような,上瞼と,下瞼。奥にひっこんでしまったような、異常な目、だった。 

電話が終わると,静かに,とんかつを食べ始めた。 
わたしたちには、目もくれずに。 

その食べている様子を,隣に感じながら,ああ,この人は,ひととき、ここで、やすらいでいるのだ。と、思った。 

どんな目に遭いながら,ここまで生きてきたのだろう。 

又,電話が鳴り,そのヒトが電話に出ると,急に,静かな声で話し始めた。 

え、うん、うん、買って行くよ。何がいい? ん? ひれかつね。 

そのヒトは,主人にお土産のひれかつを一人前注文し,また、下を向いて,静かに,とんかつを食べはじめた。 

ちいさなしあわせ、を持っているらしい事に,わたしは,ほっとした気分になった。

木製遊歩道と草原の風景

 

2007年04月01日

なかなか気持ちを切り替える事が出来ないのか、今日も母の事。 

サンクの施設に、荷物の整理と書類等の必要事項を段取りしに、父と姉が挨拶に行ってきたという。 

その時に、施設長のクマガイさんが、タツヤマさんのような看取り看護のケースは、サンクでは初めてだったので、これからは、参考にさせてもらいます。と、言ってくれたそうだ。

昨年7月に、食事が出来なくなって、スタッフから胃ろうの処置を勧められた。胃ろうとは、喉に穴をあけて流動食を胃から流し込めるようにする処置で、サンクの場合、医者が在中しない施設の為に、入院しなくてはならない。 

そして、昨年決定した法律で、3ケ月以上の入院は出来なくなり、入院すると、また3ケ月で次の病院を探さないといけなくなる。 

父は、そうすると自分が行けなくなるし、次々に病院を移すのもかわいそうだ。と言って、サンクにこのままいさせてもらえないかと相談した。 

サンクの方でも、食事を飲み込めなくなっていた母の世話をすることは、かなりのプレッシャーだ。 
誤咽させて、窒息死させる可能性もあるし、リスクが高いのだ。 
施設内で死亡することも、まわりの老人達の精神状態にも、影響があるだろう。 

通常は、いよいよとなったら、病院に移すようだった。母は、その、いよいよだったのだ。 

それでも、父が看取り看護のサインをすることで、サンク側は、母を受け入れてくれた。 

1.すべての医療措置は、サンクでは行えない。 

2.何かの事故があった場合、(誤咽などでの窒息)責任を問わない事。 

3.積極的な延命措置はしない。 

この3点についての誓約書を提出して、母の看取り看護は始まった。 

サンクのスタッフにとっても、試行錯誤の連続で、何度も会議で話し合われたという事だった。 

父も、入院をさせず、却って、母に苦しい選択を選んだ事は、何度も、これで良かったのか、反芻していたし、わたしたちも何が母にとって、いい選択だったのかわからずに、悩んだ。 

今回の死を看取って、サンクのスタッフも、看取り看護について、認識を新たにしました。と、言ってくれて、これからは、タツヤマさんのケースをもとにして、家族と一緒に泊まれる部屋を用意したり、危篤の時に、親族が集まれることなどを考えて行きます。と、添えてくれた。 

人間らしい、いい逝き方でしたね、と、言ってくれた。 

この言葉は、とても嬉しかった。 

亡くなる前に、一度、家に帰してあげられたり、畳の部屋で家族で一緒に寝たり出来た事は、本当にサンクのスタッフのおかげで、ありがたかった。この一連がなかったら、母の死はさびしいものだったろう。

 



母の事を何気なく書いて、姉のコメントで、一晩泣きはらした夜。あれは、やっぱり、さびしく死んで行きたくない、という、母のSOSだったのではないかと思う。 

 

 

 



また、新しい週が始まり、わたし達はまた、日常の生活に戻る。 

何も変わらない。そして、それで、いい。

 

 

 

 

姉のから返信

ママがサンクに移るその日は、私も一緒に居ました。特養に入る前にいた施設を出るとき、車の中で、ママはなんとなく嬉しそうでした。施設を出て家に帰れると思ったのではないかとその時私は思いました。 
特養に入るのだとは、パパが言って聞かせていたはずですが、そう思えたのです。 

ショートステイで施設にいるのと、特養に入るのとでは、意味合いが大分違います。説明を聞く私とパパをおいて、ママはお部屋に連れて行かれました。ママはこちらを振り向いて泣いていました。切なかったです。

 

 

 

 

この記事についての姉からの返信 2026年5月7日

 

これは主観の問題ですが、パパは面談の医師に相談したのではなく「看取り看護をお願いします。」と、はっきりと言いました。

その時、同席していた看護婦長さんの表情が固まったことを覚えています。

もしかしたら、これは大変なことなのではないだろうか?

 

そのパパの依頼を結局は受けてくれたのですが、ママが最初のケースだということをその時にはきいていません。

 

その時のことをその日のうちに、朋ちゃんとまぁちゃんに伝えたと思いますが、私の受けた衝撃をそのまま伝えることができなくてさんざん考えた末、かなり、楽天的に伝えたことを覚えています。

 

パパが看取り介護という言葉をどこで知ったのかは分かりませんが、結果としては、亡くなるまで管に繋がれることもなく、畳の部屋で、朋ちゃんに手を取ってもらって逝ったのですから、パパの判断は間違ってはいなかったのです。

 

 

同じ時期にサンクに入っていた野瀬さん(私の小中が同じお友達)のお母さんも、ママの後くらいなのかな?胃瘻を勧められて、野瀬さんは胃瘻を選び、サンクを出て入院してその後2年か3年 生きながらえたと聞いています。

 

ママが亡くなった時、施設のお友だちのお婆さんたちが、ママのいる部屋までご挨拶に来て、手を合わせてくれたのを覚えています。

 

施設の人たちにとっても、ママの死は忌避するモノではなく、自然に受けいられていたと思います。

奇岩と青空

 

朝起きるのが、苦手だったわたしは、1年とちょっと通った幼稚園を中退している。しかし、そこまでの間も、歩いて30秒の明星幼稚園には、行ったり、行かなかったりだった。 

うちから歩いて15分くらいのところにおばあちゃんが住んでいて、そこから、わざわざ、幼稚園の送り迎えをするために、おばあちゃんが迎えにきてくれた。 

そういう時だけ、幼稚園に行った。 

中退したのは、幼稚園のトイレに入れなかったわたしが、雨の日にお漏らしをしたことで、わたしのプライドが激しくキズついたことが原因かとも思うが、夜遅くまで起きていた宵っ張りのせいで、朝起きられない、ということも理由のひとつだったと思う。

 

 

 

 

その頃はよく、おばあちゃんと歩いた。商店街に買い物に行った時は、荷物を少しだけ持つのを手伝った。 

おばあちゃんは買い物袋を持った手を後ろに回して、腰のところでぶら下げながら、歩いた。 
まだ60歳になったばかりくらいかと思うのだが、その頃から、歩く速度はかなりゆっくりで、時々、立ち止まって腰を伸ばしていた。 
わたしは同じように足を止めて、再びおばあちゃんが歩き出すのを待ったりした。 

高校の時に隣に離れを建てて、そこの2階に、わたしの独り部屋が与えられ、おばあちゃんと一緒に住むようになった。 
1階は貸店舗にして、ユニットバスの会社が入った。 

小さい台所も付いていて、おばあちゃんはそこで自炊していた。母が時々、作ったものを届けていた。 
社交的なタイプでもなかったので、母と、わたしとくらいしか、会話していなかったのだと思う。 
大学くらいになると、おばあちゃんは耳も遠くなり、話しかけても、曖昧に笑うことが多くなった。 

おばあちゃんが亡くなる時は、きっと、わたしのところに知らせに来る。と、思っていた。 

わたしは飛び出すように家を出てしまったし、その事を突然知って、泣いていたおばあちゃんを置き去りにして、さよならも言わなかった。 

おばあちゃんが夢に出てくると、必ずわたしは泣いていて、起きてからも、夢なのか、現実なのかわからないまま、しゃくり上げていたことが、何度もある。 

でも、死の報せを受け取ったときは、何も、何も、感じなかった。 

電話の向こうの姉の声が、キーンとした耳鳴りの中で聞こえていただけだった。 

ある時、母の告別式の後に、イトコのナオちゃんにメールをもらった。 

それはおばあちゃんのお通夜の夜の事で、ナオちゃん達家族は、その時は使っていなかった、わたしの部屋に泊まったという。 

ナオちゃんはその時、おばあちゃんの夢を見たという。 
その夢はなぜか荒川で、おばあちゃんとナオちゃんが流されていて、追いかけても追いかけてもおばあちゃんがどんどん流されてしまって追いつけず、わーん。と、泣きながら目が覚めた、と、あった。 

家族で泊まっていたが、夢を見たのはナオちゃんだけだった。 
うちの父や母に話したら、きっと三途の河を渡れたんだね、と言われたのを覚えている。と、書いてあった。 

それを読んだとき、あっ!! おばあちゃんは、わたしのところへ来たんだ。と、思った。 

わたしの部屋にいた、ナオちゃんを、わたしだと、思ったんだ。と。 

ちゃんと出来なかったさよならが、おばあちゃんも、心残りだったのだ。そう思ったら、そのメールの前でしばらく泣けた。 

ナオちゃんも同じ孫なのだ。これは、単にわたしの思い込みでしか、ない。 

でも、このメールをもらった時に、おばあちゃんのかきむしられるように別れて行った気持ちを、受け取った気がしたのだ。 
わたしが夢を見て、しゃくりあげていた夜は、おばあちゃんもわたしの事を考えていたのかも知れない。と、そんな気がした。 

ナオちゃん。勝手な事を言って、ゴメンネ。 
でも、この夢のお話は、わたしの心にも、共有させて、ください。