自分に勝ちに行く!!

自分に勝ちに行く!!

聞くことは、人を豊かにする。話すことは、人を機敏にする。書くことは、人を確かにする。自分の心の内側を、書くことで確認して行こうと思います。つれづれなるままに、テーマもなく...?.。心の引き出しを増やそうと思います。

縄文すごいぜ! 東京都美術館 2階作品

 

太平洋美術会東京支部展 唐山朋子作品

 

縄文すごいぜ!展作品3点

 

太平洋美術会東京支部展 鹿山朋子 作品

 

縄文すごいぜ!展作品3点

 

埼玉県立近代美術館での個展の時にご縁を頂き、東京都美術館での太平洋美術会東京支部展でも作品を3点出品させて頂きました。

 

縄文すごいぜ!!で支部奨励賞を頂きました。

 

お近くにお立ち寄りの際はぜひ

足を運んで頂けたら嬉しいです。

 

東京都美術館 2階

太平洋美術会東京支部展

 

10月15日より22日まで

上野駅徒歩3分

月曜日休館

 

 

昨年10月の埼玉県立近代美術館と、今年5月の川口市立アートギャラリーアトリアでの個展では、たくさんの出会いや、たくさんの嬉しい出来事などがあり、一歩を踏み出してみることの大切さを身に沁みて感じます。

 

そうあることは、また作品を創ること、だと肝に銘じて、面白い作品、美しい作品、楽しい作品、驚くような作品、そして、なにより、心に響くような作品を、これからも目指して作っていきたいと思います。

カリフォルニアルービックの髪の毛シートエクステ

 

カリフォルニアルービックのシートエクステ

 

 

カリフォルニアルービックの社長のルイスと、わたしのボスだったアンドレが、出張中の経費のことでケンカになり、アンドレと、カリフォルニアルービックの会社との契約が破綻したので、宙に浮いてしまったわたしを不憫に思ったのか、アンドレが、こういう提案をした。 

トモコ、君は日本にアキラ(チャリの名前)と一緒に戻りなさい。そして、年に2回、プレゼンテーションに向けて、デザインワークをするために、ベルギーに来ればいい。 
それが終わったら、香港工場に行き、デザイン説明と、仕様書作成を含めたディレクションワークをしてもらうよ。 

アメリカに骨を埋めてもいいくらいの気持ちで日本を出て来たわりには、ショボイ結果に終わった。(英語も全然マスター出来なかった。) 

そのあとすぐに、ブンカの同窓会があって、行ってみると、あれっ?なんで、タツヤマ、いるのよ? と、皆から、聞かれた。(なんたって、半年ちょいだし。) 

帰って来ちゃったぁー。と、照れながら言うと、だぁっせぇぇぇー。と、皆から、合唱された。 

ともかくも、まだ、海外との接点は細い糸で残る。 
アンドレは、ちゃーんと企画の時期にわたしを呼んでくれて、そこから1年半ほどは、呼ばれれば、ワンワン!と喜んで出かけて行った。 
行けば結構辛いこともあり、日本では泣かない私も涙ちょちょぎれることもあったが、とにかく、その刺激の強さは、たまらなかった。 

長くなったが、本題はここからである。 

付き合っていた頃は、チャリは髪の毛が多くて、固くて、額が狭かった。 
お義父さんは当時、髪の多い、ロマンスグレーで、チャリも、僕は、絶対にハゲない、と、言っていた。 

しかし、わたしが、1ケ月近く、ベルギーや、香港に行って戻ると、そのたびに、空港で待っているチャリの額は、ずん、ずん、と、せりあがった。 

当時は、髪の毛も多かったので、その額の後退は、顕著だった。あー。心配かけてるんだなー。と、痛感した。 
チャリが30を過ぎたばかりの頃である。 

その頃、すでに、わたしのカリスマ美容師のコチにも見放され、(この髪、どうやって切るのよー。) ナショナルのスキカルくんで、ひとりでお風呂で1厘刈りにしていた。たまにケガをして、痛がっていたものだ。

伸びて来ると、後頭部は、V字のグラデーションになる。 

お坊さん頭になって、もう何年も経つが、わたしも見慣れて、今ではすっかり、それがチャリだ。 

自分達の歴史を踏みしめていく中で、わたしの顔も、チャリの顔も、変わった。確実に、年をとっている。 

わたしも妙齢の年頃になり、前髪あたりにマジックテープらしきもので薄く髪の毛を貼り付けるシートエクステなるものがインスタに登場すると、やわら、目が釘付けになるのであった。(まだ、買ってはいない。 ) 

頭髪の気になり具合は、「自分の人生をどの程度自分の物にできたかを測るものさし」でもある。 とは、昔に読んだ天声人語の一説なり。
             

男性の悩みが髪の毛なら、女性はそれに加えてシミ、シワ、たるみ、肥満、だろう。(わたしも深刻に思う時は、たまに、ある。) 

しかし、どれも、自分が、自分を認めてあげられたら、たいしたことでないことでもある。なぜなら、本当は、ひとがどう思うかではなく、自分が気になる、だけだからだ。

年をとってくれば、生きてきた証しが、表情に残るだろう。 

懸命に生きてきた自分を認めて、胸を張ろう。 

魅力的な人は、ハゲだろうが、デブだろうが、たるんでようが、シミだらけだろうが、どんなであっても、魅力的なのだ。 

、、、そして、そう、瞳が、光っている。 (エッ! 額、じゃ、ないよ!! )

 

アンドレとジェニー、フランセのテーラードジャケット試作

 

アンドレ一行、バリの赤いテーラードジャケット

 

 

ヴィラ、ラ、マサに滞在して、2週間くらい経った頃、イタリアの長靴のかかとあたりにある、バリという田舎に、アンドレ一行は向かった。そこには、布帛の縫製工場があり、そこにテーラードジャケットを試作させるのが目的だった。 

とはいえ、わたしは、未だに英語はたどたどしく、フランス語なんて、とんでもなければ、イタリア語なんか、ちゃんちゃらおかしかった。 

連れ立ったメンバーは、モロッコ人のパリ育ちのネマと、ジェニー、アンドレの娘のフランセ。アンドレ、そいでもってわたし。 

着いたそばから、すぐ打ち合わせとなり、デザイン画が並べられ、その場で、作らせるデザインを決めた。 
もう予めデザイン画は用意してあったので、何型かのデザインをピックアップし、その中の一型を今日中にトワル製作をさせて、 シルエットを見る、という形になった。 

モデリストと呼ばれる、パターンナーが紹介され、打ち合わせにいてもあまり意味をなさないわたしは、その人と一緒に、テーラードのジャケットのトワルを作成するようにと、言われた。 

ロマーノというその人は、70過ぎたくらいの好々爺で、くりくりした蒼い瞳で、いろいろと、手順を教えてくれながら、仲良く、アトリエで作業した。丁度、くりくりカールの白髪を耳の脇あたりだけに蓄えた、お茶の水博士を外人にして、青い目にしたような感じかな? 
わからない時は、身振り手振りで、一生懸命にゼスチュアで伝えようとしてくれた。 

わたしも、しばらくぶりに触る、布の感触と、立体で作るパターンの作業が楽しくて、うきうきと仕事に励んだ。 
夕方近くにジャケットが出来上がった。日本はシーチングと呼ばれる生成りの布を使うのだが、その工場は真っ赤な布を使っていた。 
出来上がったのは、形を見るだけの赤いジャケットだった。 

出来上がりも上々で、久々に晴れやかな気分になった。 
2週間の滞在で、話せないストレスもそうとう溜まっていた頃だ。 
好きな事を一日出来て、とても嬉しかった。 

その夜の食事は、その工場の社長と、モデリストのロマーノも加わって、うちらのメンバーと食事を一緒にした。 
ロマーノは、今回の仕事の為に、どこかから、呼ばれて来ていたらしい事をその時に初めて知った。本当は工場とアトリエは別の場所にあるのだろう。 
ロマーノも私たちと同じホテルにステイするらしかった。 

相変わらずおとなしいわたしは、食事中、ほぼ口尻だけは微笑み体制をとって、だまって修行を積んでいた。 

工場の社長とロマーノと挨拶をかわし、私たちは部屋へ戻った。 
わたしはシングルルームで、たしか206だったと思う。 
アンドレとジェニー、フランセとネマは別の階へ向かった。 

部屋に戻って、スグにシャワーを浴びてリラックスムードになって来た頃、突然ドアがコンコンコン、コンコンコン、と小さく叩かれた事に気がついた。あれっ?気のせいかな?と思い、シャワールームから顔を出す。するとまた、コンコンコン、コンコンコン、と小さなノック。 

ジェニーが足につける為に、わたしのフェイスクリームを借りに来たのかしら?と、思った。(彼女はわたしの残り少ないフェイスクリームを、向こうずねが乾燥すると言って、よく、借りに来た。) 

Who is it ? とわたしがドアに向かって声をかけると、返事は、ない。 

わたしはもう一度ドアの前でWho is it ? と言った。 

すると返事のかわりに、ドアの下から、するすると紙切れが差し込まれた。 
これって、いったい、なんてこと!??? 

ROMANO 203 

小さな紙切れには、今日一日仕事した、好々爺のロマーノの名前と、部屋番号が書かれていた。 

ボキャブラリーの少ないわたしは、ただ、ノー。を繰り返した。 
声は、腹から出た。 

次の日の朝、また今日も一日、彼と仕事するのは勘弁と思い、アンドレに言いつけた。この卑怯者が!! 

アンドレは、げらげら笑って、Tomoko ! That's Italian guy. と言った。 
まぁ、イタリア人にとっては、年寄りだろうが、若かろうが関係なく、それが礼儀なのだ、というアンドレの説明。 

ともあれ、その日の朝にロマーノは返されて、わたしは一緒に仕事をせずに済んだ。セーーフ。 

だけど、その時のモデリストが、めちゃめちゃイケメンの、グットルッキングガイだったなら、わたしは、いったい、どうしていたのか??? 

次に2度とそんな機会に恵まれなかったわたしの、それは、永遠の謎となった。

伊藤みどり カルガリー五輪 フィギュアスケート

 

伊藤みどりフィギュアスケート演技24文字

 

伊藤みどり、カルガリー五輪、フィギュアスケート

 

 

わたしがアンドレと仕事をしていた頃といえば、1988年からの2年間だが、1988年の2月にあったカルガリーオリンピックを、わたしはベルギーのブリュッセルで見た。 

ちょうどアンドレの自宅にホームステイをして、1ケ月くらい彼の企画会社に行き、デザインワークを缶詰でした。 


アンドレのうちにはマリナという奥さん(3番目の妻)と、フランセ(20歳)、レジナ(16歳)という、最初の奥さん (交通事故で亡くなった) の子供たちが住んでいた。 

たまに2番目の奥さんの娘セシール(6歳)も預けられたりした。 

日本を離れるとたいていは1ケ月帰れないので、最初のうちはいいのだが、2週間も過ぎるとかなりフラストレーションがたまり、なにかのきっかけで泣き出したりもした。(言っとくけど、日本では絶対に泣かない。) 

すると、アンドレたちは、トモコはホームシックだ。ホームシックだ。と言っては、わたしのまわりを取り囲んだ。 

ブリュッセルはバスを使うと15分くらいで町へも出られたので、何度かひとりで映画を見に行ったりもした。 
帰って来て、レジスに、何を見たのかと聞かれ、答えると、彼は、それは、絶対トモコにわかるはずがない。とか生意気なことを言った。(確かに、それはヨーロッパ映画で、少し頭のおかしい女の子が、壁に目の絵ばかり描くような内容で、確かにレジスの言う通り、理解しがたいものであった。) 

カギを持たされていないわたしは、ある時、夕食後に出かけて行き、(映画は最終は10:00くらいから始まったので。)12時頃アンドレのうちに戻ったら、家に誰もいなくて、入れなかったことがある。 

みんな出かけてしまったようで、困ったわたしは近くの(とはいえ郊外には店などほとんどない。)Barにひとりで行って時間をつぶした。ひとりでこんな時間に、もののオーダーの仕方もわからないようなガイジンが入って来た。ヤツはなにものだ??と、店にいる人たちの注目を集めたが、わたしはじっとその視線に耐えて、小一時間ほど時間を送った。 

再び戻るとアンドレがいて、ようやくわたしは家に入れたが、わたしが出かけていることをすっかり忘れて出かけてしまったアンドレは、ひたすらわたしに謝っていた。(マリナは親戚の家に出かけてしまったようだった。) 

平静を装おうと思っても、12時を過ぎた深夜に家に入れなかった心細さで、涙がぽろぽろこぼれて、よけいアンドレを慌てさせたことを思い出す。 

ちょうどそんな頃だった。たまたまリビングでTVを皆で見ていたら、カルガリーオリンピックのフィギィアスケートのプログラムが始まり、ソファなどにくつろぎながら、それを見ていた。 

しばらく見ていると、レジスが、トモコ。ジャパニーズの演技が始まるよ。と、教えてくれた。 

見ると、伊藤みどりの演技が始まるところだった。 

音楽がスタートして、彼女が動き始め、わたしたちも彼女に注目した。 
リンクに立つ彼女は、確かに外国選手に比べると、プロポーションも見劣りがした。 

しかし、スピードに乗って行くごとに、彼女は素晴らしく生き生きとしはじめ、彼女が高いジャンプを決めるごとに会場からどよめきが起こるのを見て取れた。 

レジスが、シーイズグレイト!!と、興奮して叫んだ情景を思い出す。 

異国の地にいて、この興奮を味わえたことを、強烈に記憶している。 
その後に出てくる他の選手の演技がすべてチャチに見える程、伊藤みどりの印象は強烈だった。 

それは、アンドレの家にいて、彼らの目から見た伊藤みどりの印象からも、きっと、そうであったのだ。 

この時の伊藤みどりの結果は、5位。 

誰もが到達出来なかった3回転半のジャンプを成功させて、ノーミスの演技をしてなお、芸術点の低さにおいてメダルに到達しなかった。 

しかし、あの瞬間の彼女は、まさしく、世界中を驚愕させ、興奮させ、感動させていた。 

あの地にいて、わたしには、それが、はっきりとわかる。 

異国にひとりいる寂しさと、あの時の暖かい部屋の中で見た伊藤みどりのジャンプの映像は、わたしの中で、リンクしている。 

思い出すと、ちょっぴり、孤独の風が、吹き抜ける。 

http://www.youtube.com/watch?v=oodRRLwtpjo (コメントに注目!!) 

http://www.youtube.com/watch?v=SOyIag2QTKY&NR=1

ヴィラ・ラ・マサ、プールとアルノ川の風景

 

アルノー川沿いのヴィラ・ラ・マサの景観

 

 

フィレンツェにあるヴィラ・ラ・マサはアルノー川のほとりにある静かなホテルだ。

 

アンドレの仕事で呼び出されたわたしは、ブリュッセルからアンドレのBMWに乗せられて、このホテルにやってきた。 

200キロのスピードで走るBMWは生きた心地がしなかった。

 

たまにアンドレが羨ましいと思う車に(ベントレーだったり、ジャグァだったりした。)出会うと、その車を猛烈なスピードで追い越した。

 

彼は、スピード狂で、車の事故で最初の奥さんを亡くしていた。なんかわかる気がした。 

ヴィラ・ラ・マサの中には、長期滞在用の一軒家みたいなところがあり、わたしとアンドレの娘、フランセと、もう一人のデザイナーの、パリに住む、モロッコ人のネマが、その別棟に滞在する事になった。

 

フランセは学校を出て、見習い? のような形で一緒に来ていた。

 

アンドレとジェニーは別の建物のホテルの方の部屋だった。

 

ジェニーがイタリアにいるとは知らなかったので、本当に驚いたが、その頃彼女はイタリア語の語学スクールに通っていると知った。

とにかく、ジェニーがいてくれると知って、この滞在期間をなんとかやり過ごせる、と、思ったものだ。

別棟は一階がリビングになっていて、昼間はそこに皆で集まって仕事した。ひと月ほどの滞在となった。 


2階が2部屋あり、ツインの部屋をニマとフランセが使い,ダブルベッドの部屋をわたしが使う事になった。 

昼間はざぁます眼鏡をかけて、ヨージヤマモトのロングスカートとグレーのカーディガンを着ているネマは、夜になると全裸で前も重ねずに黒の留袖をガウンにして、怪しい風情で歩き回った。 


フランセといえば、こちらはパンツいっちょうだ。

 

ヨーロピアンは恥じらいがないという事を知った。 

そんな事はどうでもいいのだ。

それよりも深刻だったのは、わたしの部屋ときたら、ダブルベッドのスプリングが真ん中がほとんど壊れていて、50cmくらい陥没していた。 
どういう寝相になっても腰が落ちて曲がってしまうので、朝起きると体中が痛かった。 

でも何よりかにより、わたしの眠りを妨げたモノは、網戸の壊れた小窓から容赦なく入ってくる、ヤブ蚊のヤツラに他ならなかった。 


耳元でウィーンウィーンとうるさいし、気を許すといくつも刺されてしまった。

 

アルノー川のほとりで、静かで、瀟洒なホテルだとぉ ! 

アルノー川はボウフラの天地じゃあ ! 

歪んで閉まらなくなっている小窓の網戸は大きく破れて、網がだらりとぶらさがっていた。

 

今だったら、言葉が話せなくても、いきおい、クレームをつけに行って、なんとか網戸を直させることが出来ただろうに、その頃のわたしは、その境遇に文句の一つも言えなかった。 

毎日毎日わたしは、なすすべもなく、シーツを全部はずして、ベッドの穴に身体を丸めていれ、一晩絶対にシーツから身体をださないようにして夜を過ごした。

 

当然深い眠りにつける訳でもなく、 ただ、ちょっとも動かないで、長時間じっとしている技だけは、 きっちりと身につけて帰った。。。

 

 

備考 これは40年近く前のお話なので、ホテルに関しましてはこちらを参考になさらないように、、、。あしからず。。。

 

茶色の鼻長犬がベッドにいる

 

 

サンディエゴのコンドミニアムを引き払って、日本に戻ってきたのは、10月末。だから、アメリカにいたのは、半年とちょいだ。 

その後は、日本に戻って、2年ほど、ベルギーにある、アンドレの企画会社に籍を置いて、お呼びがかかれば、ベルギーに、出かけて行った。 

年に2回くらいは、お呼びがかかり、航空券が送られてくる。行くと、ひと月ほど缶詰状態で仕事した。(それと、香港の工場に2~3回くらい。) 

ベルギーのブリュッセルに、アンドレの自宅があり、ブリュッセルの時は、そこにホームステイした。(ベルギーから、フィレンツェに移動するときもあった。) 


アンドレの娘のフランセは、犬を飼っていた。 

その犬は、大型犬で、鼻先のやたらに長い、毛足の短い焦げ茶色の犬だった。エレベーターに乗ると、だれかれかまわず、その長い鼻先を人のまたに突っ込んだ。全くシツレイな犬だ。わたしも、何度か突っ込まれて、そのうちに、エレベーターに乗ると、必ずバッグで防御するようになった。 

わたしは、娘のフランセの部屋を与えられ、フランセは、わたしがいる間はどこか、他の親戚(?)のうちへ移った。 

フランセは、その犬と一緒にベッドで寝ていたらしい。連れて行ってくれればいいのに、犬は置いて行った。 
わたしが寝ようとすると、ベッドの真ん中に寝そべって、わたしに明け渡そうとしない。自分のナワバリだと、目が,主張している。 
おまけに、唇を持ち上げて、歯茎を見せて、ウー、と、唸る。 
なにおー。と、思い、わたしは日本式にシッシッと言いながら、ベッドカバーごと犬をベッドから、引きずり降ろしたが、毎晩のように、その攻防戦は続いた。ベッドも、犬臭かった。 

それから、大好きだったはずの、犬を、少し嫌いになった。 
特に、ハナヅラの長い犬は。 

そんなわけで、ベルギーでの夜は、落ち着かないモノだったが、もっと、落ち着かないコトもあった。 

わたしのいた部屋は、娘のフランセの部屋で、その隣が、アンドレと、奥さんのマリナの寝室だった。( 40代半ばの夫婦 ) 
その部屋から、最初の晩に、犬の遠吠えのような、叫び声が、響き渡った。 

それが、ハンパでない、ハラの底から出るような大声なのだが。 
夜中に、ガバッと、飛び起きて、殺人事件か???!!! と、緊張したくらいだった。 

激しいウナリ声は、部屋中に轟いている。、、、なんじゃ、こりゃ? 

それが、夫婦の営みの声である事を知った時に、ガイジンのハンパじゃない、パッションを知り、やっぱり、日本は、戦争に勝てっこない。と思った。80ホーンは、あったと思う。 

わたしが、ホームステイしていた1ケ月、ほぼ、毎日のように、犬との陣地合戦と、真夜中のロックフェスティバルは、繰り返された。 

娘は、そのサウンドを平和の証し、として、熟睡していたんだろうか? 

とりあえず、わたしも、聞き慣れてくると、その騒音の中、熟睡出来るようになった。

子守唄とは、いかなかったが。

サンディエゴのアパートで本を読む女性

 

サンディエゴの友人たちと食事する人々

 

サンディエゴの海岸で楽しむ4人組

 

思い出したのだが、87年にサンディエゴで借りたアパートメントは、プール付きのコンドミニアム(集合住宅)であったが、据え付けになっている絨毯は、蚤の大群がいた。



ブンカを卒業して、決まった就職先であるアメリカのサンディエゴには、結局4月から10月末までいただけだ。 


最初の3ケ月はサロモン夫妻の家にホームステイしていた。 


英語もしゃべれないのに、アメリカに根を生やすつもりであった、、、。 



家の整理も何もする時間なく先に出発したわたしの後に残り、4年半住んだアパートを引き払い、荷物を整理したのはチャリだった。出発の当日に結婚届を出した。 



そしてその日はわたしの誕生日でもあった。 



チャリが仕事を辞めてサンディエゴに来たのが7月。

それからアパートを探した。 



ちょうどボスのアンドレもラホヤに住んでいて、環境のいい地域だったので、そこでジェニーにつき合ってもらい、いくつかの不動産を回った。 



しかし、滞在してまだ日が浅い日本人になかなか部屋を貸してくれるというところはなかった。 

デポジットを1000ドル支払えば1300ドルで貸してくれるというところが見つかり、当時YENは150円くらい。

 

165円の時に就職が決まって、急激にどんどんYENが高騰している頃だった。サンディエゴを離れる時は122円くらいまでになっていた。

部屋を見せてもらった。 


部屋は2ベッドルームでリビングとダイニング付きで、明るく感じが良かった。 

ジェニーは、サンディエゴでアパートを借りるのにデポジットなんてとられないよ。と、言ったが、出る時には返してくれるのだし、取りあえずそこに決めた。 


集合住宅全世帯で使用出来るプールが敷地の端についていた。 

引っ越しは、荷物など何にもないので簡単だった。そのあとすぐに、会社を辞めたウスイと、新婚のタチキさんがやってきた。 



その明るい日差しが差し込む部屋を見て、うわー。素敵だねー。広いねー。と、2人は絶賛した。(なんたって、タダだし。) 



しかし、住んでみてわかったのだが、その部屋には、蚤がいた。 



もといた人がペットを飼っていたのか、それともアメリカには、蚤がけっこういるのか、それは不明である。 
それも、目に見えないくらいの小さい蚤で、最初は、ダニがいるのかと思っていた。

 

チャリが履いていたグリーンのエスパドールサンダルをじっとみると、絨毯から、ぴょんぴょん跳ねてその上に飛び乗る蚤が何匹も発見出来た。 



ギャー!!と思ってオスコドラッグに行き、殺虫剤コーナーにいったら、蚤用の殺虫剤がずらりと並んでいた。 


あちこちにそれを撒いたが、らちがあかず、ジェニーを連れ立って不動産屋へ行き、クレームを付けた。不動産屋は慌てた様子もなく、すぐに蚤処理の業者を手配した。 

マスクをした業者はただちにやってきて、掃除機のような機械をひきずりながら、あるものかまわず手当り次第に白い粉を噴射した。(これ、絶対DDTだよ!!) 



おかげで一日4人はずっと外で過ごした。 



その粉のおかげで、ものすごい数の蚤は少しは影をひそめた。 

しかし、絨毯はそのままだし、絶滅するわけでもなく、蚤は、わたしたちと共存する形でそこにいた。 

ダイニングのテーブルにみんなあぐらをかいて食事をした。 



そのうちに、タチキさんのダンナさんも、出張のついでにやってきたっけ。(総勢5人) 



アメリカに来ているのに、日本にいるのと全く同じメンバーでワイワイやっているのが不思議だった。 (英語はますますダメになった。)

それはともかく。 

団らんの時は、ワイワイやりながら、皆、どこかしら掻いていた。

たいてい短パンの素足は、蚤に食われてかきむしったあとが残った。 

チャリを除いた3人が日本に帰った1ケ月ほど後に、わたしの契約もおじゃんになった。(わたしのせいじゃないよ!!) 

日本に帰ってからも、しばらくはその蚤に食われた傷跡が、無性に痒く、せつなかった。

ラホヤのアパートの思い出は、蚤とともに、ある。

 

FATHER of the BRIDE PART II ポスター

 

 

ブンカを卒業と同時に、わたしを雇ってくれたのは、アンドレ、ラルーという名前の、わたしのボスだ。 (おんなじことを何回も書いてゴメン。この後しばらく続きます。)

だが、実をいうと、本当に雇ったのは、サンディエゴにある、カリフォルニアルービック、という長い名前の会社だった。 

彼も、そこの、契約デザイナーで、ベルギー人だった。ベルギーでも、OKEという、企画会社をやっていた。 
どういう経路でベルギー人が、アメリカの地方都市の会社の、デザイナーを引き受けたのかは、定かではないが、彼によって、わたしが、サンディエゴに出稼ぎに行くことになった、のは確かだ。 

アンドレは、当時、日本で、けっこう発行部数を持っていた、OLEVEという少女雑誌に目を止め、日本のファッションに興味を持ったようだった。 

それで、何かのパーティに紛れ込んだ時に、たまたまそこにいた、高田賢三氏( kenzo という、デザイナーズブランドの創設者 ) に会い、高田賢三の卒業した学校へ、人材を紹介してもらえるよう、彼に、手紙を書いてもらったらしい。 

アンドレがケンゾーに会ったのは、その一度きり、らしい。彼は、アメリカでのクライアントを得て、昔もらったその手紙を握りしめて、日本にやってきた。 
そして、ブンカまで来て、教務課で、青い瞳をパチパチさせながら、そのケンゾーの手紙を見せたらしい。 

学校側は、アンドレ、ラルーなる人物を、誰ひとり、知らなかった。しかし、ぼろぼろになりかけた、ケンゾーからの手紙を持っている。( 高田賢三は、ブンカの、出世頭である。) 無下には扱えない。赴任先も、サンディエゴという、あんまり、ファッションとは縁のなさそうな土地だった。 

とにかく、適当な人材をあてがわなくては。と、いう事で、わたしが呼ばれたのだった。とにかく、文化祭とか、その他のショー活動の企画委員長をやっていて、飛び回っていて、それが片付くとアルバイトに向かっていたわたしは、就職を決める、時間がなかった。それはそれで、切実だったのだが、多分、こっちの方が、楽しかったのだ。 

どんなところか、わかりませんよ。と、教務課の先生は、そう言った。


初めて引き合わされたとき、アンドレは奥さんのマリナと一緒に来て、スティーブマーチンみたいな笑顔で、わたしの頬に3回キスをした。 
それがあいさつとも知らなかったので、面食らったものだ。 

マリナは、スタイルのいい、足のきれいなひとだったが、ビックリしたようなグレーの瞳は、にこり、ともせず、かたまっていた。 

もう、すでに20年前の出来事になるが、昨日のように思い出せる。 

アンドレは、思えば、自由人、だったのだ。とても、楽しくて、魅力的なひとだった。彼から、教わった事は多い。 

それは、人生は、楽しむためにある、と、言う事。 

次の来日の時、今度は、ガールフレンドのジェニーと、やってきた。 
わたしに、マリナの話はするな、と、そっと耳打ちした。なんだか、英語は分らないはずなのに、日本語のように、理解出来た。 

そして、トモコ、コウベビーフを食べさせる店に連れて行け。と、言われた。 

貧乏のまっただ中にいた、わたしは、神戸ビーフ、なんて、見た事も聞いた事もない。急遽グルメ本を買ってきて、調べてみると、当時のコースで、1万円以上していた。( バブル期だし。) 連れて行くのは、いいけど、いったい、誰が払うことになるんだろう? と、ドキドキだった。

小心者のわたしは、心配のあまり、コウベビーフはとってもエクスペンシィブだ、と念を押した。すると、アンドレは、オー、トモコ!! ノープロブレム。イッツ、カンパニー、ペイ。と、答えた。 

今はなき青山のオーベックファンという店に連れて行き、わたしも生まれて初めてコウベビーフなるものを食した。(チャリも、なぜか、ついて来た。) それはそれは、夢のような味わいだったが、アンドレと、ジェニーは、おのおの、2人前をペロリと平らげた。 

それがカンパニーペイだとすると、その日、会社は、いくら支払ったのか? 
ワインもしこたま飲んでいた。。。

美食家で、白ワインが大好きで、お話好きだった。 
マリナといれば、マリナを愛し、ジェニーには、心から恋をしていた。


プレゼンテーションをするアンドレは、饒舌で、自信たっぷりで、会場から笑いをとりながら、話を進めていった。いつの間にか、ひとの輪の、中心にいるひとだった。

誰もが、彼のそばにいると、わけもなく、楽しい気分になった。 

ロスや、香港に出張にも行ったが、その時も、相変わらず食事はいつも、豪華だった。アンドレは、美味しいものを知っていて、わたしや、ジェニーにいつも、新しい味を教えてくれた。タイ料理、インド料理、ベトナム料理。
いくつもの種類のある中華料理、オリーブオイルとにんにくととうがらしだけで作る、ペペロンチーノと、バルサミコの酸味と。 

外国なんぞに出た事がなかったわたしは、未知の味を、その時にほとんど体験した。

しかし、わたしのサンディエゴでの生活は、半年ちょっとで立ち消えた。 

アンドレは、香港や、日本や、ロスへ出張していた時の、数々の美食を、みんな、カンパニーペイにしていたからのようだった。 
社長のルイスと、経費の件でケンカとなり、アンドレと会社の関係が、壊れてしまったのだった。(当たり前のような気もする。) 

20年ほど前に日本に来て連絡をくれた、当時の同僚デザイナーのニマが、こう言っていた。 

アンドレは、ホント、楽しくて、みんな、大好きよね。でも、友達なら、こんな楽しい人はいないけど、仕事を一緒にするのは、勘弁したいって、言う人が、ほとんどね。 
お酒で体を壊して、あんまり仕事もしていないらしいけど。 

今は、ベルギーと、イタリアで、半々くらいで暮らしてるらしいわ。 

白ワインの飲み過ぎで、42.3歳だった当時も、ペンを持つ手がふるえていた、アンドレ。 

わたしも、もう一度、一緒に仕事をしたいとは思わない。(けっこう、いろんな意味で苦労した。)

だけど、友達として、もう一度、アンドレには、会いたいなぁ。 

そんなふうに、ココロから,思う。(シツコク、まだ続きます。)

香港行き案内標識

 

香港の女性経営者とのツーショット

 

大昔前にサンデイエゴにあるカリフォルニアルービックでちょっとだけ働いた。 

ブンカを卒業前に、たまたまそんな求人が学校にあったのである。 


そこはベネトンみたいなアメカジのアパレルで、工場は香港を使っていた。 
なのでサンプルチェックの際にはボスのアンドレに連れられて香港へ飛んだ。

 

初めて行った時は、わたしはサンディエゴに来てそう時間は経っておらず、
ビザはワンタイムワークビザだった。


アンドレに出張が決まったのでそれを伝えると、
オー。トモコ、イッツノープロフレム。ビコーズ、ゼアリズ ジャパニーズエンパシー イズ ゼアー。と、言った。

 

しかし、香港を出る際になって、香港ではそのビザを出せないことが判明し、わたしだけ一度日本に戻ることに相なった。えらい騒ぎ。

それはともかく、その頃はまだ香港はイギリスの領地で、あと何年かで中国に返還されると聞いた。 

使っていた工場は2つで、どちらもオンナ社長であった。 


アイリーンとイービーはすでにその頃、アメリカとのビジネスを成功させて仕事も順調そうだった。 

彼女達には家庭があり、子供たちがいたが、香港が中国に返還される事を非常に危惧していた。 

二人とも、子供たちの教育先にカナダを選び、もう少し大きくなったらカナダに留学させると話していた。 
そして銀行もカナダへ移し、いずれはカナダに移住すると話していた。 

会社は香港に残してカナダで管理すると話していた。 

当時は何げなく聞いていたが、昨今の香港の状況を見聞きするたびに、彼女たちがそんな話をしていたことを思い出す。 

あの当時に香港で成功していた人たちは、とっくの昔に海外で暮らしているのかもしれない。 

 



イギリス人として生きてきた香港の人たちは、自由に発言すること、自由に人生を選択することを許されていた。 

中国という国の、人々の治め方、つまり、束ねる、という形を香港の人々は受け入れられない。 

香港のデモがあのような激しさを増したきっかけは、2019年に提出された「逃亡犯条例」の改正案への反対運動からだった。 

香港の歴史を辿ると、イギリスと中国の2国間での統治という複雑な経緯がある。 

香港島は1842年のアヘン戦争後にイギリス領となり、その後、イギリスは当時の清朝政府から「新界」と呼ばれる残りの地域を99年間租借した。 


それ以後の香港は活気ある貿易港となり、目覚ましい経済発展を遂げて行く。 

イキリスと中国の間で返還が迫った1984年に「一国二制度」の下に香港が1997年に中国に返還されることで合意した。 
つまり、返還前の経済活動を維持したままで、50年間は中国本土とは違う統治を行うというものだった。 

だから香港は自由な経済活動が許されているし、中国で禁止されている天安門事件の慰霊祭なども行うことを許されていた。(2020年以降は禁止となっている。)

しかし、すでに返還されてから29年が過ぎ、中国の干渉を避けられるのも残すところあと21年となっている。 



国家に盾を突く思想家たちを弾圧し、摘発する「逃亡犯条例」の閣議決定があれば、中国政府の国民への圧力がますます拡大することは人々の肌感覚にびしびしと伝わってきたのだろう。 (とりあえず2020年9月4日に撤回を正式決定されている。)



逃亡犯条例改正案の撤回の要求から始まった香港デモは、デモが長引くにつれ人々の中に明確な問題点も浮かび上がってきた。 


そして「5大要求」に名言化されていった。 

5大要求とはこの5つである。 

1. 改正案の完全撤回 

2. 警察と政府の、市民活動を「暴動」とする見解の撤回 

3. デモ参加者の逮捕、起訴の中止 

4. 警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施 

5. 林鄭月娥の辞任と民主的選挙の実現 


国を捨てて行った人たちと違い、ここに根を張る人たちは戦うしか方法はなかったのである。

痛ましいことに、デモによるけが人や死者まで出た。 

静かな市民のデモ行動が、どこでこのように激化してしまったのか。 
感情的であることは、事をいいようには運ばないような気がしてならないのだが、それでも運動が下火になっていかなかったのは、香港の人々に何が何でも守らなくてはならないものがある、からである。 



宝石のような魅力をたたえて観光客を魅了していた香港だったのに、と、当時のニュースの映像を、信じられない気持ちで見ていた。

 

しかし、わたしが宝石のようだと香港を感じた時でさえ、住んでいる人たちは複雑な気持ちで未来を憂えていた。

 

お辞儀と挨拶の文化の違い

 

日本式のお辞儀をする二人の女性

 

親しい人との頬への挨拶

 

息子と父、抱擁する自然な姿

 

 

 

はるか大昔になるが、サンディエゴの仕事が決まり,半年間とちょっとだったが、アメリカで暮らした。

 

それから、約2年ほど、日本にいて,アンドレからのお呼出しがあると、喜んでベルギーヘ出稼ぎに出かけて行った。 


英語もフランス語も喋れなかったし、もちろん、それ以前に外人に近づいた経験もなかったので、最初の挨拶で,アンドレから右,左、右,の西欧式ほっぺたくっつけの挨拶をされた時はそりゃー、びっくりしたものだった。 


アメリカでは握手とか、お辞儀でもOKだったが、アンドレの国ベルギーでは、完全にほっぺ式挨拶だった。 

まー、フランセ( アンドレの娘 )のボーイフレンド達は、ギリシャ彫刻のようなイケメンだったり、キアヌリーブスのような和テイストのハンサムボーイだったりもしたので、たまには、ラッキー。と、ココロでほくそ笑んだ事もあり。 

とにかく、あちらの文化に文句もつけようがないくらい無知なわたしは、とにかく、その例に倣い、従った。 

外人さんの、産毛の生えたほっぺたに自分のほっぺたを合わせた。 

考えてみると,その時はなんにも思わないで慣習に従っていたが,日本人の友人とは、男でも女でも,そうそうほっぺをくっつけるほど接近した人はいない。 

まして、男の友人の、ヒゲの固さなんて、想像も出来ない。 

が、その頃の仕事関係の外人さんたちのヒフ感は、なんとなし、記憶がある。 

かなり前に切り取っていた朝日新聞に,日本式の挨拶についての利点が書かれていて、なるほどー。と、思った。 

 

 



高温多湿な日本の夏は肌がべたべたし、食べ物が腐るので疫病が流行る。 
この夏への恐れが日本人を無類の清潔好きにした。 
挨拶も握手やキスや抱擁のように体を触れ合うのではなく,少し離れたままお辞儀をするようになったのも夏への恐れのためだろう。


お辞儀は互いに頭を下げるので二人の間には一定の間がなければならない。あまり近すぎると、頭がぶつかってしまう。 

お辞儀は親しみの表現であると同時に「これ以上、近づかないで」という無言の合図でもある。 
      朝日新聞 文化 私の収穫より抜粋  長谷川櫂著 




記憶に新しいコロナの時も、マスクして手洗いうがいを徹底していたら、幸運にもわたしはまだコロナにかかっていない。

 

挨拶にキスをする国では、コロナの時は、どんな挨拶をしていたんだろう?

 

とにかく、目に見えないから、菌は、怖いのである。

 

 

それだけでなく、冬は冬で乾燥し、寒さで肺をやられる。
昔はそれが細菌のせいとは知るよしもなかったが、人から人へ移るものだという認識はあったのではなかろうか。


これから湿度もなくなって、温度も低くなり,インフルエンザの流行にはもってこいの季節になっていく。 

テーブルの上や、ドアノブなんかも、マメに拭いて行こう!! 

やっぱ、日本式の挨拶は,お辞儀がいいに決まっている、のである。