自分に勝ちに行く!!

自分に勝ちに行く!!

聞くことは、人を豊かにする。話すことは、人を機敏にする。書くことは、人を確かにする。自分の心の内側を、書くことで確認して行こうと思います。つれづれなるままに、テーマもなく...?.。心の引き出しを増やそうと思います。

緑のセーターを着た女性

 

サンディエゴの海辺、モデルのニットセットアップ

 

ファッションモデルが海辺でポーズをとる

 

 

サンディエゴにある、カリフォルニア・ルービックという会社に、アンドレを通じて契約社員となったわたしは、文化服装学院を卒業してすぐに、単身でアメリカに渡った。

海外旅行も一度もしたことがなく、ましてや言葉もままならない。それでも、なんとかなるさ。と、思っていた。楽天的。 

取りあえず、就職がアメリカに行く、という形で決まった後、付け焼き刃に日仏学院で3ケ月、英会話とフランス語会話をならった。最初の頃は、一番前の席で、なんとか理解しようとしていたが、3ケ月を終了する頃は、うしろの方で、爪をいじっていた・・・・。意味なし。 
今,覚えているフランス語は、ジュ、フェ、ド、ラ、ナタシヨン(わたしは水泳が出来ます。)と、ニ,ト、ロン、ニ,ト、クー(長くもなく,短くもなく。)こんな言葉くらいだ・・・。意味なし。 

シンガポールエアラインのビジネス席だった。がらがらだったので、肘掛けをあげて、北海道行きの夜行列車に乗る様にL字になって、眠った。 

ロスについて、空港を変わるのに、スーツケースをずるずるしながら、何十人の人に声をかけて訪ねた。旅行英会話の本を持って行ったので、訪ねる質問は完璧だ。ただ、帰ってくる答えが、なんと言っているのか,全く解らなかった。そのとき、荷物をロスで受け取る様に日本の空港で言われていたが、ダイレクト to サンディエゴも、可能だったのではないだろうか? 
そのチケットはアメリカから送られてきたものだった。

重いスーツケースを持って、バスに乗って、別の空港に行かなくてはならず、汗だくになった。 
自分が宇宙人になったような気がした。 
その時、初めて、わたしは、とんでもない所にいくのだなー。と思った。 

ようやくサンディエゴ行きの飛行機に乗れた。カトンボのように小さい小型機だった。 

その飛行機が飛び立つと、荷物置きの棚が壊れそうにガタガタゆれた。 わたしの抱えた不安のようでもあった。 

でも、空は晴れて、めちゃくちゃきれいだった。そして、小さい家が、カラフルに並んでいるのが見えた。ひとつひとつの家の脇に青い丸が見えた。目を凝らすと、プールのようだった。 
今までで、その時にしか見た事がない、ボールのようにまん丸い雲が、いくつも飛行機の下に浮かんでいた。 

天国の様に、きれいだった。 

思えば、あの飛行機の中で見た風景が、わたしの初めての、海外体験の印象だ。 

ここの人はみんなプール付きの家に住んでいる。 
澄み切った青い空の下で。 

サンディエゴ空港には、来てくれるはずの迎えはなかった。 
なんて事 ? と、思ったが、せっかちなわたしは電話のかけ方もわからないので、タクシーに乗って、住所の紙切れを見せた。 
タクシーの運ちゃんはしきりに話しかけてくるが、わたしにはわからない。適当に相づちを打つしかない。それがよくなかったのか、なめられたからなのか、32US$のメーター表示なのに、渡した50ドルをサンキューサンキュー、と、言って、そいつはお釣りををよこさなかった。けんかするすべもわからず、わたしは、会社の前にスーツケースごと降ろされた。 

わたしのサンディエゴでの初日。

楽天的なわたしをメッタ斬りにする一日は、まだ、終わりでは、ない。    続く~。

ほくろの位置が動く様子

 

ブンカであった、生体学の授業で,ひとりの人間の顔を、何十年間分、早回ししていく映像を見た。 

多分それは、外人の写真だったので,生体学の先生が,追っかけた調査ではないと思う。 

そこに写る愛くるしい赤ちゃんは,みるみるうちに,長い顔の少年になり,そのうちに、巻き毛の青年になり,目の下がたるんで来て,頬も下がり,中年の男になった。 

赤ん坊のとき以外はなるほど長い顔は変わらなかったが,驚いた事は,ほくろの位置が,くるくると動いて行ったことだった。 

右の鼻の脇にいつの頃か出来たほくろが、何十年もかかって、耳の方へずれたり、目の下に行ったりしながら,最後には口元のあたりまで動いた。 

早回しなので,ほくろが自分で移動しているように思えて、面白かった。(その授業はほくろを研究する授業、ではなかったが。) 

佐々木閑氏の書いた朝日新聞のコラム「日々是修行」の中で,仏教が考える「時間の流れ」は、点滅する一瞬の繰り返しである、と書いてあった。


実は、仏教が考える「時間の流れ」もこれと同じだ。私たちの世界は、本当は一瞬ごとに生まれては消え,生まれては消えを繰り返している。その、刹那ごとの点滅の連続を「時の流れ」という。(中略) 

たとえば私という存在も、一瞬ごとに生滅している。前の瞬間の私と、次の瞬間の私は別ものなのだ。 

ただし、そこには「コピーの法則」というものが働いていて,特別なことがない限り、同じ私の姿が、次々にコピーされながら続いていくので,まるで一人の人物がずっと生き続けているように見えるのである。 

しかし、一枚の絵を繰り返しコピーし続けると、少しずつブレが重なって、画像が狂ってくるのと同様に、刹那刹那のコピーが繰り返されるうちに、私という存在も少しずつ変形していく。 

気がつけば、生まれた時の赤ん坊とは似ても似つかない、オジサンの姿になっている。 

このような、避けがたい崩壊現象を「諸行無常」というのである。 

       朝日新聞 日々是修行より 佐々木閑著 


時間がある中に,わたしたちは生きているのではなく,一瞬を過ぎていく、わたしたちの繰り返しの連続を、時間と呼んで、とらえているだけである。 

昨日と今日のわたしは、明らかに,違うものである。 

いくつかの細胞が入れ替わり,目に見えない変化を遂げている。 

そして、いつの日か,わたしたちは、時間という一瞬の連続の中から,粒子となって,消えてしまう。 

大きな大きな計り知れない存在の下では,人の命など、ほんの一瞬の、点滅にしか,過ぎない。 

しかし、生まれては,消えていく,限りある命を感じるからこそ、わたしたちは、「諸行無常」の一瞬に,光りを放つのだろう。

窓辺で本を読む女性、食事風景

 

言葉というものは不思議なもので、それが伝わるのは、やはり「心」という目に見えない部分も関係しているように思っている。 

ついこの前のことのように感じるが、すでに40年になろうかという、大昔の記憶になっている、サンディエゴのカリフォルニアルービックで仕事していた時、コミュニケーションというのは、言葉だけではなく、心が重要なんだという印象を強く持ったことを思い出す。 

文化服装学院を卒業して、ひょんなきっかけを得てカリフォルニアのアパレルで働くことになった時のことだ。どうなるかまったく不明だったが、コワいもの知らずだったわたしは、とにかく、行ってみることにした。 

言葉もろくに覚えずに、行けばなんとかなる。と思っていたわたしは、その場に立って、いかんともしがたい現状に立ち尽くしたものである。 


言葉が出来ないというのは、その人たちにとっては、わたしは、サル、のような存在であった。 
多少英語にいそしんでいた人ならともかく、英語の授業はほとんど寝ていたわたしにとって、それは、行ってなんとかなるものでは、全然、なかった。 

わたしは英語を少ししか話せません。というセンテンスはなんとか覚えて行ったのだが、向こうの人の思う「話せません。」のレベルは、わたしの「英語力」と比べられるものではなかった。 

それは、「サル」以下のものであった。 


わたしをアメリカに連れて行ったのは、アンドレという企画会社をしていたベルギー人のデザイナーで、彼が文化服装学院に求人を出したことによる。 

アンドレも契約して、カリフォルニアルービックの商品の企画を任されることになった「よそ者」であった。 

コミュニケーションが出来ないイミ不明の日本人を、やはりイミ不明のベルギーの企画会社のデザイナーがどこかからひっぱってきた。と、あっては、会社の中にいて、ワケわからんわたしでさえも、社員の人たちとは一線を画した「よそ者」感を感じたものである。 

おまけに彼はお気に入りの美しい台湾人のジェニーをフィッティングモデルとして雇っていて、自由なようでいて保守的なアメリカンにとっては、アンドレは「ヨーロピアンのバッドガイ」というイメージがあるようだった。 


わたしは英語をほとんど話せなかったが、皆、フレンドリーにわたしに話しかけてくれた。 

その時に、不思議なことに、その人の言葉が、すんなりと理解出来る時もあったし、または、どんなにゆっくりと話してくれても、全くわからない時もあった。 

わたしに好感を持ってくれている、と感じる人の言葉は、早かろうが、わからない単語が混じっていようが、なんと言っているのか、簡単に理解出来るのだった。 

反対に、どんなにゆっくり話してくれても、何か否定的な感情のある人の言葉は、わたしの緊張が邪魔をするせいか、相手の心の何かなのか、壁が降りたように理解することが出来なかった。 


夕食はアンドレと、ジェニーとわたしで、いつもスーパーマーケットに行って何か作って3人で食事した。生きたままの大きなロブスターをぐつぐつに煮えたバットに放り込んだこともある。 

違う母国語を持っている3人が英語を介して会話した。この時間は、わたしにとって、短かった海外生活の、本当に楽しい記憶となっている。 


みんなが英語が外国語だから、ということもあるのかもしれないが、唯一リラックスできたその時間は、今思い出しても、言葉に苦労している記憶がない。 
2人の話す言葉は、どんなに複雑な内容でも、息をするように理解出来ていた。と、感じている。 


言葉とは、つまり、心を開かないと、伝わって行かないものなのだと思う。 


そして、巧みである必要もないのかもしれない。 


どんなに気持ちがあっても、言葉で話さなければ伝わらないし、逆にどんな話し手も気持ちがなければ言葉はただの記号になってしまう。と、三浦しおんも言っている。(by 舟を編む)


その記号に、気持ちを乗せた時、それは、相手の心へと、伝わるのではないだろうか。 


言葉は不完全で、すべてを伝えきれるわけではない。とも、三浦しおんは話している。 (by 舟を編む)


だからこそ、言葉という記号は、心と一緒に使わなくてはならない。 
饒舌でなくても、話し上手でなくても、それはそれでいい。 

伝えたいものを、たくさん持っているのかも、自分の心の引き出しをそっと、開いてみるといい。

伝わるとき、それは言葉ではない何かによって、相手の心に、溶けて行く。
本当に、そう思う。

桐野夏生 著「IN」の書影、緑の道

 

「死の棘」島尾敏雄著 夫婦の写真

 

桐野夏生著「IN」のインサイト

 

決して面白かった,とは言えないが,なんともキョーレツな本を読み終わった。 

ここんとこ、ハマッている桐野夏生。 


さらに進んで,桐野夏生探検。彼女の「IN」に、入ってみる。 

この小説 (と、言えるのか? ) の、テーマは、恋愛の抹殺。 

抹殺、とは、無視,放置、逐電など、自分の都合で相手との関係を断ち,相手の心を「殺す」こと。と、本の帯に書いてある。 

目次を見ると,第一章から淫、隠、「無垢人 (緑川未来男作)、因、陰、姻、 
そして最終章の第7章が本の題名の「IN」となっている。 

読む前から,おどろおどろしい。 

ここに、「無垢人」という小説が登場する。

それは、島尾敏雄著の「死の棘」 をモチーフにしているのだろうか。「死の棘」は、小栗康平監督で、映画にもなった。 
ある小説家の浮気がもとで,精神を病んで行く妻を赤裸々に描いた小説である。その狂った妻、「島尾ミホ」は、鬱病を患った後,作家となって文壇に登場している。 

「IN」の中の「無垢人」という小説に登場するのは、未来男、妻の千代子、そして愛人の◯子。◯子は小説の中では記号にされて、実体のない存在として登場する。 

未来男の不実を知って逆上する千代子。そしてそれを収めようとする未来男に失望する◯子。 
◯子の家に鍵を忘れ,「カギヲオワスレニナリマシタ」と、電報で知らせてくる◯子に、落ち着いていた千代子が再び荒れ狂う。 


(前略) 
で、もしもだよ。もしも。たとえそういうことがあったとしても、電報でわざわざ言ってくるのには魂胆があるんだ。見え見えだよ。相手が、僕とあんたを引き離してしまいたいからだよ。僕の家族を消滅させてやりたいと思って憎んでいるんだよ。いいかい、千代子があんまり興奮して見境のないことをすると、女の思う壺だよ。あっちは僕ら夫婦の仲が悪くなることを見越して、嫌がらせをし続けるよ。見ててごらん」 

「そうは思わないわ」 
千代子が急に冷えた口調で言った。「きっと、◯子も怒っているのよ。あなたの不誠実にね」 
       
僕はいとも簡単に千代子が真実を衝いたことが空恐ろしかった。 
    「IN」桐野夏生著 第三章 「無垢人」(緑川未来男作)より抜粋 

千代子と◯子の間にいて,身勝手に二人の女の反発に腹をたてる未来男。 
必死に女たちをコントロールしようとすればするほど,女たちは激しく憤るのだった。 


また、少しうまくいきかけていた雰囲気をぶち壊した◯子に、ひどく腹がたっていた。千代子がおとなしくしていれば、◯子の家にも通えて二人の関係は落ち着くのに、どうして自ら破壊しようとするのかが、まったく解せないのだった。要は、僕の家庭の平和が最優先されるべき事柄であって、それは◯子を愛していないことではないのだ。 

むしろ逆で,家庭の平和が保たれていれば、僕の◯子に対する愛情を深めさせ、長続きさせることに他ならないのだった。なのに、◯子はなぜその真実がわからないのだろう。 
    「IN」桐野夏生著 第三章 「無垢人」(緑川未来男作)より抜粋 


その◯子とは誰だったのか?を、主人公の女性小説家、タマキが追って行く。 

どこまでが、真実で,どこまでが、虚構なのか?? 
もうひとつのストーリーは、そう、桐野夏生本人の、独白なのであった。(わたしの想像。) 

主人公のタマキは、緑川夫妻と◯子について思索を深めて行くにつれて、かつての愛人、敏腕編集者としてタッグを組んでいた青司との関係に思いを重ねて行く。 

激しく愛し,激しく傷ついたお互いを、なかった事として抹殺できるのか。


自分と青司は、「一線」と呼ばれるものを幾度も越えて、「涯て」近くまで行かざるを得なかったのだ。無意識に越え、躊躇しつつ越え。そしてとうとう最後には、もう二度と元に戻ることの出来ない大河を渡ってしまった。 
        「IN」桐野夏生著  第4章 因より抜粋 

赤裸々に書いて,主人公に,真実は,真実でないからです。と、言わせるこの巧妙さ。 

真実と思えたものを書いた時点で、それはフィクションになります。その為には真実に間違われるフィクションが必要なのです。とも、言わせて,読者をケムに巻く。 

ここまで克明に,己の恋愛の経緯を書き記しながら,それが真実かどうかは,読者に委ねて舌を出す桐野夏生。(わたしの想像) 

86歳になった千代子 (島尾ミホ?) に会いに行き,彼女に、こういうセリフを吐かせている。 

「その通りですよ。だから、小説はそのようにお読みください、ということです。」 

一度、踏み越えた線は消せない。つまり、みんながみんな、手酷い痛みと苦しみを味わった。 
だから、決してお互いを、許さない。 

千代子も,未来男も,◯子も、青司も、そしてタマキも。 

許さないこと,それも、愛、なのであった。 

「IN」は、関係という檻に閉じ込められた人間の話だと、桐野夏生は、対談の中で話している。 

そしてその消えぬままの愛を抹殺するための、方法とは、、、!!? 

最初のとっかかりずらさから、最後のこの読後感。 
駄作かどうかも見極められない,不可思議な作品。 
それに、酔ってみるのも,一興かも、、、、!! 


わたしは、、、合格、かな?? 

桐野夏生「OUT」の書籍カバー

 

DVD「OUT」のジャケットとディスク

 

お待たせしました!(誰も待ってないか。) 

桐野夏生の代表作、OUT,読み終わったっす。 

で、読み終わってすぐ、映画も見た。(なんか、こういう性格。ヤだな。) 

結果から言うと、小説と映画は、全然 別物だった。だから、小説と映画は、切り離して考えていい。 

映画は、テルマ&ルイーズ的な現実逃避の解放感が核となっている。 
小説にあるような、細かな主人公の心の動きを描いていないので、えーっ。なんで、そうなるの??という展開で見てしまうだろう。 

映画のエンドロールを見てみたら、監督も脚本も、オトコだった。ははーん。なるほど。 

そう、多分、このOUTな決意は、オンナにしか、わからない。 

新青梅街道からほど近くの弁当工場に、夜勤で働きに出ているオンナたちが主人公である。 

人気のない工場の駐車場から、工場は少し離れていて暗い。 
今では使っていない工場の建物もあり、闇に覆われたその道は、工場に出勤したオンナが、引きずりこまれて強姦されたこともあった。 

それでも、昼間の稼ぎよりも時給もよく、就労時間も短い夜勤の仕事は、女たちと、出稼ぎに来ている外国人たちの、いい働き場所だった。 

ヨシエは、夫に先だたれ、姑は寝たきりで、介護生活を送っている。長女は勝手気ままに孫を置き去りにしていなくなり、次女はわがままばかりで、介護も家事も手伝おうともしない。 
たまに雅子にお金を借りていた。 

邦子は弁当工場で働きにくるのにも、めいっぱいおしゃれして出勤してくる。ローンで買ったカブリオレのゴルフに乗っている。しかし、それらを買った金は、すべてサラ金で借りたもので、今ではサラ金からサラ金へ、自転車操業で借りていたツケが、今にも自分を滅ぼそうと迫っていた。 

弁当工場に来るもうひとりの女、山本弥生は、2人の子供を持つ主婦で、それまでは平穏に暮らしていた。 
しかし、夫が商売女にのめり込み、その女の勤める、店の下にあるバカラ賭博にハマり、生活費も貯金も使い込んでしまう。 
生活費を入れなくなった夫を責めると、その日も、弥生はしたたかにみぞおちを殴られた。 

明け方帰ってきた夫はふたたび暴力をふるおうとした。 
弥生は思わず、夫が脱いだズボンのベルトを引き抜き、後ろ向きの夫の首にかけ、力一杯引き絞った。 

そして、香取雅子。会社員の夫もいて、息子もいる。夜勤で働かずとも、暮らして行ける。しかし、なぜかその弁当工場に働きにきていた。43歳。 

雅子の家庭は、息子はある時から部屋を出て来なくなり、雅子と口を聞かなくなった。夫は雅子を避けるようにして、心の壁を閉ざしてしまった。 
それがなぜなのか、雅子にはわからない。わからないまま放置した家庭は、今では、殺伐としたものになっていた。 

それを、気づこうと、していなかった。 

弥生からの電話で、弥生の家に駆けつけた雅子は、蒼白に静まっている彼女の夫を見て呆然とした。 

しかし、何の見返りも求めず、雅子はこう決意する。 

あんたはここにいな。 
わたしが、死体を処理するから。しばらくしたら、捜索願を出すんだよ。 

この、OUTな決意が、どうして雅子の心に起こったのか。それを、小説では、丁寧に描いている。 
彼女の心にある寂寥感、それこそが、OUTな道への発端となっていく、、、。 



それ以来、緘黙症のように喋らなくなった息子の心をどう開けばいいのか誰にもわからなかった。おそらく本人ですらも閉ざした扉の堅さに戸惑っているに違いなく、雅子が合鍵を探しておろおろする時期は過ぎた。
中略 
子供を持つということは、思うようにもならなければ、断ち切ることもできない人間関係を抱えることだ。 
雅子は玄関脇の小さな部屋の前に立った。合板のドア越しに、夫の軽い鼾が聞こえてくる。納戸にする予定だったこの北向きの部屋で夫が寝るようになったのは、いつ頃からか。 
雅子はほんの少しの間、廊下に佇んで考えている。寝室を別にするようになったのは、この家に引っ越す前、雅子がまだ会社に勤めている頃からだった。 
それが不自然だとも寂しいとも思わなくなり、今や家族三人がそれぞれの部屋で寝る生活に慣れている。 
中略 
たった三人の家族は、それぞれの寝室を抱えるのと同様、それぞれの重荷を負って孤独に現実と向き合わされている。 
              OUT 桐野夏生著 


本の内容は過激に付き、R-15指定だが、映画の方では、R-15部分は、バラバラ死体の処理だけに絞られていた。全体に、怖さというより、ユーモアを感じさせる仕上がりになっている。 

大森南朋 が、死体役を熱演(?)していた。 

しかし、本の方は、もっともっとアンダーグラウンドな色合いだ。 
一つの波紋は、どうしようもないような小さなほころびを次々と作り出し、話のこちら側にいる私たちに、救いようのない世界が確実に待っていることをほのめかす。 

その危機を作るのは、他でもない、人間の弱さのほころびである。 
弥生は、犯罪を隠し仰せた喜びが、隠しきれない。 
邦子は、流されるままに流されて、自己を持たない。 
ヨシエは、目の前にちらつく金の為に、すべてのことに目をつぶる。 

そして雅子は、弥生の犯した拙い過ちを、取り返しのつかない、暗闇へと引きずり込んだ。 

この小説の怖さは、弥生の犯した殺人ではない。 

雅子達3人が処理した、バラバラ死体でもない。(2人、になったところは、ゾっとしたけど。) 

立て直した人生を踏みにじられ、問答無用で過去の自分を蘇らされた、佐竹の暗闇でもない。 

自分がいる場所に、誰もいない、という孤独だ。

信じていた世界が、姿を変えてしまった、という孤独だ。 
家庭を持ちながら、いつだったか、その居場所に、あるのは 渇き だけとなった。 

その渇きを癒したのは、わたしには理解を超えていたけれど、何かのきっかけで、オンナは、砂漠にはいられないことに気がつくのだ。 


「帰りたい」 
この匂いを嗅ぐと、この言葉が思い浮かぶ。どこに帰りたくてそんな言葉がうまれるのかわからなかった。今出てきたばかりの家ではないことは確かだ。いったいどこに帰るというのか。道にはぐれた気分が、雅子を当惑させる。 
          OUT 桐野夏生著より抜粋 


だからこそ、雅子にとって、破滅の道に通じるそこは、ある意味、現実の世界を消し去り、次の扉を開ける、興奮でもあったのだ。 

桐野夏生の書く小説に、彼女の生き方を投影するとしたら、彼女は、今の世界を手に入れる為に、たくさんの傷を負ったのであろう。 

そういう読み方をしてしまうわたしは、彼女のここまでの生き方まで、わかってきてしまった!! (なんちゃって!!) 

とにかく、「OUT」は、「東京島」と、「魂萌え!」と並んで、間違いなく桐野夏生の代表作であろう。 

物語はダークで、グロいが、エンタティメントな作品であることは保証!! 

先行き不安であるが、ラストシーンも1%の希望を連れて行くので、まっ、いっか!! 

読み始めたら、止まらない。スリルとサスペンス。
雅子の凛としたクールビューティは、なんとも、カッコいい存在であった。 

映画のラストは爽やかでしたよー。(話、違うし。)

桐野夏生「残虐記」の書影。誘拐監禁。

 

 

 

桐野夏生「残虐記」の女性作家

 

 

すっかり桐野夏生の毒にハマってしまったわたしは、次に残虐記を買ってきたのだった。

しかし、桐野夏生。おそるべし。残虐記。 

かなり前に読んでしまったが,感想を書くのが難しく、随分時が経ってしまった。なぜって、最後のオチが、うわっ!!と、思ったのと同時に,あり得る!!と、納得してしまったからなのだった。(ここ、ポイントです。)

 

新潟で起きた,女児誘拐監禁事件をもとにしたのか、誘拐され,約1年間をその男の部屋で過ごしたという過去を持つ女性小説家を、主人公にしたストーリーだ。 

しかし、桐野夏生の場合,その事件を調べ上げて、ストーリーを組み込むということはしないのではないのか?という気がする。 
その事件のあらましを読んだ瞬間,自分がその事件の中に憑依してしまうのではないかと思う。 

だから、ここにでてくる主人公の小説家は、まぎれもなく、彼女なのだと思える。 

女流作家が、ある小説を残して,失踪することから話は始まる。 
彼女の夫は、その小説を編集者に送る。そこで、彼は,妻が小学4年生のとき安倍川健治という男に誘拐され,約1年間、男の部屋に監禁されていた過去があることを打ち明けた。 
送られた小説には、犯人の男からの手紙が添えてあった。 
そこには、先生,ほんとにすいませんでした。でも、私のことはゆるしてくれなくてもいいです。私も先生をゆるさないと思います。どうぞ、お元気で。 
そう、書かれていた。 

22年前,景子は、小学校からの帰り道,白いねこを抱いた男に、とんとんと肩を叩かれた。 
男は猫の前足を使って、彼女に手招きした。 
白い猫が男の手から逃げると,男は,彼女に黒い袋をすっぽりとかぶせ、肩に担いで走り出した。 


「お父さん、助けて。」 
男が袋の上から私の太腿を抓った。痛みと抓られた場所に衝撃を受け,私は恐ろしさで震えた。この男に何かとても嫌なことをされるのだ。そして殺される。               残虐記 桐野夏生著より 

この日から,ケンジと「みっちゃん」の生活が始まった。 
彼女が泣いたり,怖がったりすると、ケンジは「駄目だよ,駄目だよ。」と、おろおろし、それが引き金となって,たびたび暴力をふるった。 

しかし、彼女が,恐怖を通り越して,ひきつった笑いを浮かべると,「みっちゃん、なにがおかしいの?」と、微笑み返すのであった。 

彼女は、殴られるのを恐れ,ケンジの前で泣くのをやめて、ひたすらケンジのペースに巻き込まれる努力をしたのだった。 

朝になってケンジは、階下の工場に働きに出かけて行く。その時,彼女は窓という窓を黒い紙で目張りされた部屋に,ひとり残された。一筋の光も射さない暗闇の恐怖で,彼女は突如恐慌に襲われて、心臓が張り裂けそうになる。 


例えば十歳の私がケンジの部屋で一夜を過ごし、翌朝の工場の騒音の中で気を失いかけたことは、現在の私からすると信じ難い。それよりはケンジの暴力の方が惨いし,ケンジが私を性的に利用したことの方が許せない、と私自身が考えているのだ。 
しかし、記憶を丁寧に辿っていく作業は、むしろ意外な発見に満ちている。ケンジと相対しているよりも、暗闇の中で防ぎようのない轟音に晒されていた時の方が、遥かに恐慌をきたしたという事実。 
当時の私は孤独を恐怖したのである。     残虐記 桐野夏生著より  
  

景子は、1年間、そのアパートに監禁されていたが,工場の社長の妻が、部屋のブレーカーがまわり続けていることを不審に思い,合鍵で中に入ってきたことで発見された。 

そこから、新たな地獄が始まる。


私には、よくわかっていたのだ。警察がケンジと私との性的関係を聞き出したがっているのが。私が昼休みのことを言えば、誰もが興奮し,もっと嫌らしい想像をするに違いないという予感。子供の私でも、そのことは本能的に知っていた。              残虐記 桐野夏生著より 

自分をとりまく全てが,変わってしまったことを感じる景子。 
涙を流す両親も,遠く,離れた存在に感じてしまう。 
何があったのか,けっして、誰にも,話さない決意をした。 

憎むべき相手との1年にわたる密室での、唯一の、人間関係。 
彼女には,何も頼りになるべき物はなかった。 

そして、暗闇に置いていかれる昼間の孤独。 

そこから解放されて,得体の知れない物になってしまった自分。 
父母から腫れ物に触るように扱われ,取り巻く人は,同じせりふしか言わない。 

そうやって、一切を自分の内側に閉じ込めて、何も語らなかった彼女の真実とはいかに??? 

わたしも、先生をゆるさないと思います。 
そういった、ケンジの真意を,彼女だけが、理解できたのだ。 

私の、加害者にして,理解者。 

ケンジが私を許さないのは当然である。(略) 
私が死んでもこの稿がパソコンの中に留まって誰の目にも触れないこと、それが私の唯一の救いである。    残虐記 桐野夏生著より 

こんな風に,その事件に憑依して、核心を突ける桐野夏生。 
ネタバレなので、ポイントは書けましぇん。 
驚くよ!!   でも、わかる,,,気がする、、、。 

理解不能な状況に置かれた人間の心境を、こんな風に想像出来ること。 
あっぱれと言う他はない。 
小作品だけど,残虐記,侮れません!! 

異様な世界,好きなヒトは、必見。

映画「魂萌え!」風吹ジュン出演ポスター

 

風吹ジュン、映画「魂萌え!」の敏子役

 

風吹ジュン、素顔で微笑む「魂萌え!」の敏子

 

 

魂萌え!の本がめっちゃオモロかったので、そうなると、ガマン出きないくらい、映画の魂萌え!も、見たくなる。 

主人公の、ふとよぎる感情の揺れを、映画ではどんな風に描いているのか、気になりだしたら止まらない。 


阪本順治監督なら、魂萌え!をどう料理しているのか?? 



主人公の敏子を演じるのは、風吹ジュン。

前に見ていた映画の宣伝にたびたび彼女が出ていたので、そのことは知っていた。 
なんでも、監督に化粧はしないで素顔ででてもらいます。と、言われたそうだ。 

女優さんはすごい、と、思う。だって、なにもかもかなぐり捨てて、50代の女のままで、アップで、その表情を撮られる。 

敏子として映るその横顔の頬とあごはたるみ、目尻にはくっきりとしわが彫り込まれている。 

そのリアルな肌質感を出すことで、彼女の、等身大の哀しみや葛藤が浮き出てくる。

くるくると動く丸い目が、怒りに潤んだり、途方もなく宙を泳いだり、決意を込めて、熱を帯びたりすることに、釘付けになる。彼女の瞳が、とても、お色気があるのだ。 

調べてみると、風吹ジュンは1952年生まれ。するとこの映画を撮ったときは53.4歳くらいの頃だ。主人公の実年齢よりも、かなり若い。(主人公は59歳。) 


つまり、映画で見る主人公は、現実の主人公よりも、5歳も若いということだ。ここがポイントになる。 

ストーリーの中で、ひとりになった敏子に近づいてくる男性もいて、偶然の出来事にその男性とホテルで一夜を明かしてしまう。と、いう場面がある。 

相手の男性は67歳で、10歳くらいは若く見えると描写の中に書いてある。塚本と言う夫のそば打ち仲間だ。( 演じているのは林隆三 ) 

夫をしのぶ会の集まりに、敏子は誘ってもらうのだが、会場となったそば屋は、夫の愛人伊藤昭子の、娘夫婦が経営しているそば屋であった。 
あろうことか夫は、敏子に内緒で、そのそば屋に500万円の金を出資していた。 

その事実を知って動揺するあまり、敏子はネックレスをひきちぎってしまう。興奮する敏子をなだめようと、塚本はホテルで、彼女にネックレスをプレゼントし、そして、最上階のバーでお酒を酌み交わし、敏子を部屋へ誘う。 

 



「いいじゃないですか。僕はあなたをもっと知りたいんです」 
「奥様に申し訳ないです」 
塚本はしばらく沈黙していたが、決然と顔を上げた。 
「女房は、もう僕の相手をしてくれません。僕は年を取っていますが、男なんですよ。あなたはご主人とどうでしたか」 

隆之が性交渉を望んだ時、自分も相手をしなかった。あれはいつのことだったか。遥か昔。だから、隆之は昭子の元に行ったのだろうか。怒りが悔いに変わってきた。取り返しのつかないことをしたのか。敏子は唇を噛んだ。 

中略 

「僕を知りたくないですか」 
「知りたいです」敏子はあっさりと承諾した。 
道を道とも気づかず、ぼんやり生きて来た自分を捨て去りたい。道があったのなら、大きく踏み外してみたい。その衝動は、自分でも思いがけなく強かった。 
「ありがとう」塚本は青年のように弾んで席を立った。 
「すみません、ここで待っていていただけますか。部屋を取って来ます。」 
              魂萌え! 桐野夏生著より抜粋 


本の中では、下巻の最初に中年男女の性描写がちびっと載っていて、苦々しく笑える。 


中年男女の恋愛の在り方は、もはやセックスではなくなっている。しかし、セックスは、レンアイの中心に位置するものでもある。 
だから、中年男女になってから、ホンキでレンアイする場合、乗り越えなくてはならないハードルは高いのだ。 
(ガールズトークでも、今から知り合う人と、そういうことになるのは、ありえない。キモイ。と、よく話している。) 

しかし、憂いを含んだ映画の敏子は、本に描かれている滑稽さをみじんも見せず、ありじゃん ! と、思わせる説得力があった。( 敏子の実年齢より5歳若いし!! ) 

欲しいモノが、セックスではなくなっていく。それもまた、年齢を重ねた男女のカンケイの在り方でもあるのだろう。 

欲しいモノは、寂しさを埋める為の、「時間」なのか。「やさしさ」なのか。 

塚本との2度目のデートで、塚本と、自分との、欲しいモノのズレを感じる敏子。 
塚本は、彼女を、ラブホテルの前まで連れて行ったのだった。 


電車に乗って、キョロキョロとあたりを見回し、60歳前後の女性と、60代半ばの男性を見極めて、じっと観察する。 


この敏子と塚本のシーンは、実年齢のフツーのひとでは、かなり想像しにくい出来事のように思える。 (風吹ジュンと林隆三だと、納得してしまう。。。)

だけど、人生のエピソードは、計り知れず、一人一人にいろんな形で降ってくることもある。 

現実は小説よりも奇なりとは、良く言ったものだ。 

あり得ない。なんて、思わずに、人間の滑稽さを抱えて、生きて行けばいいのだ。

本に比べて、映画の魂萌え!は、ライトなホームドラマタッチであった。 

すっぴんの笑顔の風吹ジュンが、愛らしい。 

人生の半ばをさらに越えて、枯れず、腐らず、凛と立つ。 

これを、わたしも、目指したい。

桐野夏生「魂萌え!」書影

 

魂萌え!表紙 桐野夏生 著

 

桐野夏生「魂萌え!」に登場する敏子

 

時間は平等にひとに降り注いで、昨日より、明日の方が確実に老いる。

 

そして、老いて行った先にあるものは、つまり、たったひとりで死ぬことである。

 

末永く暮らした伴侶がいたとしても、死は、別々にやってくる。

 

そして、悲しいことに、老いる、ということは、いろんな不可能が、増えて行く、ということでもある。

 

 

、、、そして、魂萌え!も、買った。

 

桐野夏生である。。。

 

 

さすがにヒロイン59歳と聞けば、題材的にもうきうきと早く読みたい感じでもなく、しばらくは買い込んだ未読の本の中に積んであった。

 

映画化されたこともあり、ちょっとばかし内容も知っていたので、あまり大きな期待をすることもなく、買ってあったことを思い出して、気楽に手に取った。

 

ところがぎっちょん!! やっぱり、桐野夏生は、侮れなかった。オ、オモロイ!!

 

何の無理もなく、主人公の敏子に憑依して、彼女の世界を体験してきた。(中年女のめくるめく体験もあり。)

 

 

 

主人公の敏子は、59歳の専業主婦である。

定年して3年が経った夫と2人で一戸建ての古い持ち家に住んでいた。

 

夫とは退職したあとも旅行も行かなければ、夫は家事も手伝わず、毎日どこかへ出かけて行く。そんな夫に、敏子は、かすかな不満を覚えていた。

 

その夫が、ある日、風呂場で倒れていた。そして、そのまま帰らぬ人となる。

 

 

ストーリーは、ここから、始まる。

 

葬式に駆けつけた娘と息子は彼女の喪失感を理解するでもなく、自分たちのこれから。を考えている。

ロスへ行って勝手に結婚していた息子は、夫の死をきっかけとして敏子と同居したいという。

家を出て同棲している娘も、兄の横暴に自分にも相続の権利があると迫る。

自分はまだ夫の死を必死に受け止めようとしているのに、間髪を入れずそう言う話を持ち出されて、敏子は自分と子供たちとのあいだに深い距離を感じるのだった。

 

 

そして、粛々と進められた告別式を終えて、お骨となった夫を家の祭壇に納めると、夫の携帯電話に電話がかかった。

 

おそるおそるその携帯電話を手に取ると、電話から女性の声がした。

 

直感的に、伊藤昭子と名乗る女性が、夫の愛人であることを悟る。

敏子は初めて、夫が、10年にもわたり、自分に秘密を持っていたことを知るのであった。

 

夫という盾に守られて、何も見ていなかった世間知らずの自分を、夫の死によって、思い知ることになる。

 

そう、つまり、魂萌え!は、ひとりになった中年女の、ひとりで生きて行くための、成長記。なのである。

 

 

 

 

「関口の妻でございます。」ああ、やっぱり、というような吐息が聞こえた。失望に聞こえなくもない。

「ご愁傷さまです。先日はお取り込み中のところ、失礼いたしました。あのう、何か」

「あの時、仰いましたでしょう。関口にお線香をあげてくださる、と。」

 

「わたしが伺ってもよろしいんでしょうか」伊藤はすでに涙声だった。間違いない、間違いない、と、敏子の胸にも、悲しみがこみ上げる。「あなたも会いたいんじゃないですか」「はい」伊藤は嗚咽した。「すみません、そうなんです」

「家はご存知ですか」「はい、知っています」

伊藤は間髪を入れずに答え、礼を言って携帯を切った。あっけないほど、真実は単純な姿をしている、と敏子は思った。愛する人間を喪って悲しみに沈み、闇の中で身悶えしている人間がもう一人いる。ということが不思議でならなかった。

 

              魂萌え!   桐野夏生著より抜粋

 

 

 

夫にお別れを言いに来た伊藤昭子は、敏子の予想に反して、自分より年上の夫と同じ63歳。白髪の初老の女であった。

 

憔悴した表情を気取られないように、敏子は赤い口紅をひいた。

しかし、伊藤昭子が黒いロウヒールを脱いだ時、ストッキングから赤いペディキュアが透けて見えた。

敏子は、伊藤昭子に「現役の女」を感じて、たじろぐのだった。

 

 

わたしが夢中になって「魂萌え!」を読んでいると、その本の帯をみて、チャリがギョっとする。

 

そーなのだ。スゴいのだ。これ。世間知らずの奥さんが、旦那が死んじゃってから、愛人が発覚して、子供たちは遺産相続で勝手を言い出すし、肝心の夫は死んじゃって怒りのぶつけようがない、という話なのだ。

 

守られて、何も見ないで済ませていた頃と違い、ひとりで生きて行くってことは、ひとりで老いて行くってことだと悟って行く話なのだ。 

 

老いて行く不安や、孤独や寂しさを、ひとりで受け止めて行くって決意する話なのだ。

 

そのことに気がついて、初めて、敏子は子供たちにも、友達にも、ひょんなことから関わった他人にも、自分の位置に立ち、思いやれるようになる。自分を生きられるようになる。

 

なによりも、夫が秘密として楽しい時間を持ったのであろう伊藤昭子に対しても、許すこととは別の、お互いをいたわり合う境地になって行く。

 

 

 

隆之は「隆さん」と呼ばれていたのか。では隆之は昭子のことを何と呼んでいたのだろう。考え込んでいると、昭子が立ち上がった。老婆が穿くようなジャージ素材の灰色のパンツ姿だった。膝も尻も抜けている。この分では、マニキュアもペディキュアもしていないに違いない。

 

中略

 

「取り替えればいいのにっていったわ。あなたに取り替えればよかったのに、何でしなかったの」

「奥さんは取り替えられたかったの?」

昭子が自分のグラスにビールを注いで言った。

「別に。でも取り替えたいのなら、取り替えればいいのよ。面倒だったんでしょう、関口も。あなたのような、新しいんだか古いんだかわからない家具に取り替えるのが。きっとたいして変わりないと思ったのよ。

 

                 魂萌え! 桐野夏生著より抜粋

 

 

 

相手を軽んじたいと思っても、50代の頃の夫が惹かれ、長くつき合った相手なのだから、敏子には、それは出来なかった。

 

夫が生きていた頃には、彼女にはそれまでの人生の深みは見えていなかった。夫の人生。昭子の人生。そして、子供たちそれぞれの人生。

ひとりひとりの人生の重み。なによりも、自分の人生。

 

 

当たり前に人並みの人生の中にいて、当たり前に与えられたしあわせの中にいた時は、そこに、自分を顧みる自我は、存在していなかった。

 

 

しかし、夫の死後に体験する、ひとりの女としての葛藤が、彼女の中に、自分自身を発見させるのだ。

 

本当の人生の深みを知るのは、ひとりで老いを生き抜くこと、を覚悟したときから始まる。

 

確かに、老いる、ということは、いろんな不可能が増えて行く、ということなのだが、、、。

 

 

それでも、自分だけの足で立った時に見えてくる世界は、たとえいくつであろうとも、艶めいて輝くはずだ。

 

 

細かな感情の機微の表現が素晴らしい!!

年を取るのが、怖くもなるが、この繊細な女の表現は、やっぱり、桐野ワールド!

 

さすが!!の一言、なのだった。 40歳以上のオンナは、読むべし。

桐野夏生「東京島」:女性の漂着サバイバル

 

東京島:漂流者たちの肖像

 

東京島、遭難者たちが集まる光景

 

 

桐野夏生の文学賞の経歴たるやスゴい。'93年から、軒並みだだだっと文学賞を取っている。 

そういう意味で、彼女は、凄腕のストーリーテラーなのだろう。 
本人を見た限りでは、ちょっと整形クサい美人顔が、どこかうさん臭い。と、思っていた。「顔に降りかかる雨」と、「柔らかな頬」は読んだが、なんとなく、本人のナルシシズムを感じて、好きになれなかった。 

ところが!! 彼女は、わたしが知らない間に、進化していた!! (と、いうか、面白いのを読んでなかっただけかも。) 

結果を言うと、東京島は、かなり、わたしにとっては、大ヒットだった。 
しかし、これも、独断なだけ。アマゾンのレビューを後で読んだら、桐野作品にしては、つまらない。何を言いたいか、わからない。という意見続出。 
えーっ!! こんなにオモロいのにー!?と、わたしからすると、その批評は不思議だった。 

40代の中年夫婦、清子と隆は、隆の所有するクルーザーで航行中に、遭難し、無人島に漂着した。彼らは大破したクルーザーからいくばくかの荷物を運び出し、救出を待った。しかし、誰も現れない。島の反対側には、打ち捨てられた黄色いペンキで塗られたアヤシいドラム缶が散財していて、これは、なにか得体のしれない産業廃棄物のようだった。だからなのか、この島に寄り付く船は一隻もない。 

3ケ月が過ぎ、そこへ23人の若者が同じく遭難し、漂着した。与那国島でのアルバイトがキツく、そこから逃げ出して、嵐にあって漂流してきたのだった。 

助けが来るまでお互い励ましあって生きていこう。と、言っていたのもつかの間、清子という「島で一人だけの女」を巡って、若者たちが騒然となっていく。 
40代の中年女に、20代の若者たちが興味など持つものか。と、思っていた隆をよそに、清子に向けて、若者たちの熱い視線が集まった。清子自身も、生まれて初めて、こんなにも男たちに求められる自分自身に酔った。 

清子は、男たちの欲望の対象として扱われ、男たちに追い回されるようになる。サバイバルな生活に向かない、弱っていく夫を尻目に、もっとも暴力的なオトコ、カスカベとの情事にあけくれる。 

夫は弱り果て、絶望し、サイナラ岬に身を投げた。そして、暴力でリーダーの地位に君臨しようとし、清子を独り占めしようとするカスカベは、蔓で両手両足を縛られて、誰の仕業か、サイナラ岬から,身をほうり投げられた、、。 

島には果物や木の実が豊富で、トカゲやへびなど、動物性タンパク質も、ないわけではなく、ぎりぎり、人が生きていくためのものは集められる。 
しかし、文明の利器である、ナイフや、衣服や、紙などは、そこで作ることは不可能だった。何年にも及ぶ生活の中で、着るものもずたずたになっていく。そのうちに、それぞれの工夫で、身体にまとうものを自分で調達するようにもなってくる。 

あるものは浦島太郎のようであり、あるものはポリネシアンダンサーのようである。ワタナベに至っては、つかまえたウミガメの甲羅(中身は当然、腹の中。)に蔓をつけて、素っ裸でそれを背負って行く。海で魚をとるときに、背を日差しで、あぶられないのである。 
船が来たときは、ちゃんとした服を着たい、と思う男たちは、朽ちてきた自分の服を大事にしまい、そうした思い思いの服装で、物語を闊歩する。 

鏡もないので、自分の様相がどう変わっているのかも人の目を通してしかわからない。自分を客観的に見ることが出来なくなると、ひとは、どんどんと、利己的になっていく。 

物語は、こういった経緯を経て、何年か過ぎ去り、清子が男たちから飽きられてきた頃から、動き始める。それが、リアルで、こわい。 

女がいることで、秩序が乱れる、というので、清子の夫は、くじ引きで選ばれるようになっていった。しかし、それさえも、何人かしか、手を挙げなくなっていく。清子はそれに落胆した。 

しかし、くじの当たったGMは、記憶喪失となった男で、もの憂げな様子であったが、竹野内豊似で清子にとっていい夫になりそうであった。清子に縋って甘えてくる年下の夫のために、これからは生きよう。と、清子は決意する。 

中国マフィアの島流しなのか、中国人のグループも島に置き去りにされた。別の地区にすみ、徒党を組んで、狩りをする。彼らは生きることに対するバイタリティが日本人のそれとは違い、傘や、鍋、食器なども作って、サバイバルな生活をたくましく生きる。日本人に興味を示さなかったが、清子にだけは関心を持っていた。 

その中国人が、船を造り、清子だけ乗せてやる。と清子に言う。GMのために生きると思った気持ちはどこへやら、清子は、ひとりだけ助かろうと、その船に乗った。 

しかし、潮流激しく、2週間もの間、小さな船で波間をさまよった挙げ句、再びたどりついたのは、東京島であった、、、。 

清子は、裏切り者として、東京島に帰り着く、、、!! 
そこで男たちのとった、行動とは??? 
その島から、脱出出来るものはいるのか?? 
清子の運命やいかに、、、!! 
さぁ、さぁ、どうなる、、、!! 

東京島、ストーリーだけで、面白いと思うなよ。 これは、ストーリーを読むものではない。ディティールを笑う本である。 

話の中の登場人物は、みんな、生きることに必死である。おまけに、お腹をこわしたり、眼病になって目やにだらけだったり、身体中に吹き出物がでていたり、不衛生な、文明などない土地で、大変な目にあっている。 

しかし、鳥瞰しているわたしの目には、右往左往、嫉妬と欲望の中で翻弄されて動き回る人たちが、なんとも滑稽で、笑ってしまうのだ。 

昼食時に店で読んでいて、笑いが止まらなくなりそうになったところもあり。 

人間をじっと観察していたら、多かれ少なかれ、こんな風に滑稽なことをしているのだろう。と、思わずにはいられない。 
物語を読む自分が、空の上から、東京島にすむ人たちを、見下ろしているような、そんな気分になる。 

しかし、話の内容は、シリアスで、こわい。 

見どころと言えば、これはもう、ワタナベ以外にはない。 
この人物描写、最悪にして、非常に活き活きしていて、ヤなヤツなのに、大好きなキャラクターだった。オモロい!! 笑かしてくれた。 

ラストの展開は、レビューでは酷評されていた。 
でも、わたしは、清子の展開には、ナットクできた。 

なぜならば、女は、いつも、清く、正しく、ありたいからだ。 

(もっといろいろ書きたい事もあるけど、支離滅裂になること間違いなし!!)

ぜひ、読まれたし。

黛ジュン「恋のハレルヤ」レコードジャケット

 

弘田三枝子「人形の家」ジャケット

 

なかにし礼氏「戦争なんか真平ごめんだ」

 

 

もう亡くなられてから何年も経ってしまったが、なかにし礼氏には、すぐに反応してしまう。

 

このお方の、一本芯が貫かれた精神が好きである。

 

以前、録画した「SWICHインタビュー」で、ポケモンGOの開発者であるゲームディレクターの野村達雄氏と、なかにし礼氏の対談があった。

 

ここでの会話でふたりには共通点があった。

 

野村氏の祖母は、中国残留孤児であるそうだ。

戦争に負けてソ連が満州に侵攻して、その地に住んでいた日本人何万人が、一夜にして難民となった。

 

祖母は中国人の両親にひきとられ、中国人としてその地で育った。

 

両親はその地に見切りを付け、子供達(野村氏も含む)を連れて祖母の祖国である日本に渡った。多くの苦労を重ねながら、彼はチャンスを掴んで行く。

 

 

そしてなかにし礼(敬称略)もまた、幼い頃、満州で暮らしていた。父が関東軍に納める造り酒屋をやっていて、豊かな生活の中で育てられていた。

 

人生が180度変わったのは、彼が6才の時だった。


朝、突然に見知らぬ男が土足で上がり込んでいて、眠っていたなかにしの枕を蹴りあげた。

 

おそらく、ここから僕の人生が始まったんだと思います。何かに、目覚めたっていう感じでしたね。。。

 

父は仕事で留守であり、母と家族とで着の身着のままで駅まで急いだ。しかし、そこには逃げて来た日本人が何万人と駅の周りに集まってきていた。

 

 

母親は、とっさに ここにいては一生列車に乗れないと判断し、酒を納めていた関東軍の将校に助けを求めた。
彼等一家は、国民を見捨てて我先に逃げる「軍用列車」に無理矢理乗せてもらえたのであった。

 

1945年8月8日にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻を始めたとたん、関東軍は百数十万人の居留民を置き去りにして逃げました。


それが最初の棄民経験です。


  朝日新聞 オピニオン&フォーラムより 憲法は芸術だ なかにし礼著

 

やっぱりね。その気持ちがね。 
逃げる関東軍の将校たちもね。動き出す列車の中でうつむいてましたね。やっぱり、彼等も後ろめたかったんでしょう。

 

おまけに、逃げたのは関東軍だけじゃなかった。

 

列車が走ってるとね。上から戦闘機が追いかけてきて、爆撃を始めたんですよ。母がね。お前はまだ小さいから、椅子の下にかくれなさい。と言ったんだ。僕が椅子の下に隠れたらね、飛行機からの機銃掃射がね。バリバリバリって。列車の中は大混乱で、通路にいた人なんかが、バタバタ倒れてくのね。

 

しばらくして、静かになって椅子から這い出てみると、母は逃げていていなかった。

 

戦争はね。どんなに家族でもね。生死を分けるほどの状況になったら、親でも子供を棄てて行くんだ。。。って、はっきりと、わかったね。。

 

戻ってきた母は、なかにしにこう言った。

 

今日から、あなたはあなた自身を守りなさい。お母さんもお母さん自身を守るから。

 

その瞬間から、何かのスイッチが入ったように、はい、わかりました。と、なったね。


それからは、何があっても泣かない。自分のことは自分でする。自分で生きて行かなくてはだめなんだって、思うようになった、と、なかにしは話す。

 

このひとの強さは、この時から、出来たものなんだ。。。。

 

日本に帰ってからも苦労続きであったが、なんとか大学に入り、そこでシャンソンの訳詞のアルバイトで生計をつなぐ。

そして石原祐次郎との偶然の出会いから、歌謡曲の歌詞を書くようになったという。

 

詩を書く時、恋の詩を書いているようだけど、実はね、あれは自分の体験を歌にしたものが多いんだ。

自分が生きてきた中で、自分に一番影響を与えてるのが戦争だったんだから。


そこに触れなかったら、自分は何にも書けなかったんじゃないかと思いますよ。。。

 

たとえば「恋のハレルヤ」黛じゅんの、ヒット曲である。

 

 

ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない

ハレルヤ 沈む夕日は
ハレルヤ 止められない

愛されたくて 愛したんじゃない
燃える想いを あなたに ぶっつけた だけ なの

ハレルヤ 帰らぬ あなたの夢が
今夜も わたしを 泣かす

   恋のハレルヤ なかにし礼作詞 鈴木邦彦作曲

 

 

終戦を迎えた日、丘の上でみた太陽に、ほんとうに、ハレルヤという気持ちになった。


あの時の日本人はみんなそうだったんじゃないかな。。

 

たくさん散って行った若者の命と、静かに沈んで行った、祖国の日と。。


そして、自分たちの、盲目の恋に( 国の為に猛進していた気持ちと ) 溺れていた後悔と。。。

 

 

人形の家も、あの引き上げの混乱の時の日本人を思い出していたんだ。。。

 

 

顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて
とても 信じられない 
愛が 消えた今も

ほこりに まみれた人形みたい

愛されて 捨てられて
忘れられた 部屋の かたすみ

わたしは あなたに 命をあずけた

   人形の家 なかにし礼作詞 川口 信作曲

 

 

 

 

信じて、この地まで来て、あなたに ( 国に) 命まであずけていたのに。。。

 

やっぱり自分の強烈な体験をね。恋の歌に置き換えたらどうなるって、そんなふうに作っていたのかもしれないね。。

 

 

81回目の終戦記念日を前に、なかにし礼氏のように、まっすぐな言葉を、今では、あまり聞けなくなってきている。

 

 

誰もが、曖昧に言葉を濁し、平和について話すことをタブー視しているような風潮なのは、なぜなんだろう。と、思う。

 

「私の人生の土台をつくったのは戦争の体験です。戦後、うれしいこともいっぱい経験しましたよ。でも、戦争以上の強い体験はないんです。
個人は国家に翻弄され、捨てられるものだと経験しました。」

 

 

 朝日新聞 

  オピニオン&フォーラムより 憲法は芸術だ なかにし礼著

 

そのなかにし礼氏が、わたしたちに、メッセージとして、こんな言葉も語っている。

 

「戦前の日本でリベラルな言論人として知られた清沢洌の戦争中の日記が、戦後「暗黒日記」として公刊されています。
ここには、政府による弾圧におびえつつ、個人の自由が束縛されていく様子が記されています。これが再現されないよう、声をあげ続けなければなりません。

 

ただし、声をあげるのも個人としててす。

 

いくら仲のよい仲間がたくさんいても、平和や憲法のことを訴えるのはあくまで個人としてで、いかなる団体や集団の一員としてではありません。

 

ネットで他人の意見に賛同するような消極的な姿勢ではなく、一人ひとりが自分の言葉で意志を示していくことが大切なのです。

 

なぜなら、その勇気が必要だからです。

 

  朝日新聞 オピニオン&フォーラムより 憲法は芸術だ なかにし礼著


なかにし氏の言葉に、やはり、撃たれるようにうなづいてしまう。

 

戦後81年を迎えるわたしたちは、なかにしの声を、どのように受け止めていくのだろうか。