自分に勝ちに行く!!

自分に勝ちに行く!!

聞くことは、人を豊かにする。話すことは、人を機敏にする。書くことは、人を確かにする。自分の心の内側を、書くことで確認して行こうと思います。つれづれなるままに、テーマもなく...?.。心の引き出しを増やそうと思います。

 

 

 

ほとんど人生を反射神経で生きていると言っても過言ではない。考える前にとにかく動いてしまう。 

と、いうより、ほぼ何も考えないで動いてしまう。ホントかよ!! 

寄る年波、脳は楽をしたがり、考えることをやめようとする。 



同じ年頃の友達と会うと、この頃忘れっぽくってさー。などと言う。 

無駄に頭がいい。といつも自分で言っているイシマツさんも、このごろさー。忘れっぽくなってさー。昔のことは克明に覚えてるんだけどさ。さっきしようとしたことが思い出せないのよ。などと話していて、ブルータス、お前もか!!と、驚いた。 



しかし、わたしはなぜそんな事が起こるのか? その理由がすっかりわかってしまったのである。 

本当は、忘れっぽいのではなくて、もともと脳が勝手をするのである。長く生きてきた中で、膨大なデータからその行動のルーティーンを勝手に導きだしてしまうのである。 
つまり、行動する時に、過去の記憶から何をすべきかを割り出して、瞬時に動けという命令を出してしまうのである。 

若いときはそのデータの引き出しがないので、自分の脳は一旦落ち着いて次なる行動の段取りを考えるが、ある程度経験を積んで来てしまうと、いつもの行動をしようとする時、脳は怠けるのである。前にとった行動をアーカイブから取り出して、深く考えずにこれをやれ。と身体に命令するのである。 



脳は動かないまま、本人は行動しようとする。。。 
。。。あれっ? わたし、何しようとして2階に上がったんだっけ?となるのだ。 



ひらめいた場所に戻ると電気がついたようにしようとしていたことを思い出すのは、思い出すのではなくて、初めてそのためにする行動を意識したのである。 

考えたのではなく、考えようとした瞬間に脳が動けと命令する。 
電池のスイッチが壊れたようなものである。。それが、つまり、老化か。。。 いや、脳の進化か。。。

このへんのもろもろをわたしは最近になって気がついた。 

年をとって衰えたのではなく、脳が余計なことまで本人の命令なしに動くようになるのである。 

1を知って10動く。。。脳は本人の意思とはうらはらに、進化し続けているのである。。。 

コントロール出来ないほどに。。。 




自分が好むと好まざるとに関わらず、自分の意識がいかないものを視界から抹殺してしまう。というのも、脳の困った習性である。 

見たくないものは見えない。。 
知りたくないものは、消してしまう。。 

自分とは異質なものに、視線がいかないというのは、本当に脳みそが固くなって来た証拠であろう。 

自分が思うだけの世界は、本当に狭い世界なのだと知るべきなのだ。 
そして、遠くを見つめて、世界では何が起こっているのかも、知るべきなのだろう。 

当たり前と思っていることが、いつの間にか当たり前でなくなっていることの怖さ。 

怠け癖のついた脳みそで、しっかりと意識して考えて行かなくてはいけない。 


そんなこんなであっという間に一年の半分を過ぎて、この一年の後半戦となる。 



その前に、夏休み夏休み。。。 

暑中お見舞い申し上げます。。。

 

 

 

わたしが高校生の時だったと思うが、渋谷PARCOの1階の奥にあるコム・デ・ギャルソンとY'Sのショップを初めて目にした。 

それまでのアパレルのショップのこぎれいで華やかな内装とは全く質感を異とした店内だった。 

コンクリートのうちっぱなしのグレーの壁に、同じくグレーや黒の重たそうな服が、枝で作ったようなハンガーにぶっきらぼうに吊るされていた。 
それはまるで、入ってくる客を拒絶しているような印象すらあった。 

カルチャーショックというのだろうか。 

この時に足を踏み入れたその空間は、まさに、自分のそれまでの価値観を、強烈に塗りかえた。 

その時代、日本人デザイナーたちは、いろんなハードルを越えながら、世界のファッション界に切り込んでいった。 


その華やかなりし時代の、きらきらしたデザイナーたちと共に写る、小池千枝先生がその存在感を前面に押し出している特大パネルたちが何枚も並べられていた。

 

小池先生を偲ぶ会でのことである。 2014年だった。。。



いい時代だったよねー。 
あの頃はさー。言ってみればアパレルが今のIT業界みたいなもンじゃない。 
イケイケドンドンでさー。クレイジーだったよねー。 
それで、夢があったよねー。。。 

と、言うのはイシクラ君である。 

小池千枝先生を偲ぶ会は、コシノヒロコさんら文化服装学院卒業生が発起人となって行われた。 

セッちゃんとイシクラ君も誘い合って一緒に行った。 



小池先生と言えば、ケンゾーを始め、コシノ3兄弟、松田光弘、金子功、山本耀司、安部兼章、熊谷登喜夫、比嘉恭子(敬称略)などのそうそうたるデザイナーたちをこの世に送り出した。 

わたしが教わったときは、小池先生は70歳を超えていて、特別講義は最終の方だったのではないだろうか。 

偲ぶ会に来ている卒業生も、自分たちより若い世代はそうたくさんはいなそうだった。 



わたしの同級生では、丸山啓太君や(最近、表参道ヒルズで「丸山景観」なるこれまでの作品展をしていた)、ファッション誌などに本人の露出もされてきたKOLORの阿部潤一君がいる。(先日、松任谷正隆のブログにふたりで仲良く写っていて、すごーい!!と思ったものだ!!) 


ファッションがさ、新しい何かを創れる。と思えた、最後の世代だったのかもしれないね。と、2人の活躍を噂しながら話していた。 


戦後、文化服装学院に戻って来た何人かの先生で、バラック小屋が立ち並ぶ新宿でふたたび洋裁学校を始めよう。と生徒を募ったとき、募集に応じてやってきた希望者が3000人以上いたという。新宿西口のバラック小屋の間を、駅の近くまで列が出来たと聞いた。 

その生徒たちを、小池先生を含む16人の教師が朝から晩まで、3部制にして教えたという。 

戦後の戦争未亡人たちの「手に職」のためでもあっただろう。 

小池先生も戦争未亡人となり、その淋しさを忘れるためにも、生徒達に向き合い、仕事に没頭したのだと思う。 

1954年、小池先生はパリにわたり、イブサンローランらと共に立体裁断を学んだ。 

BODYがスケールの代わりになり、自分の目と感覚さえあれば、針と布だけで洋服が出来る、という方法である。 

セオリーのないこのやり方は、目からウロコであった。 



小池先生に、この方法を教えてもらったから、わたしは今でも洋服だけではなく、なんでも創れる、と、思っている。

なぜなら、答えは、洋服にあるのではなくて、対象のほうにある、ということを知ったからである。 



ここに来たイシクラ君もセッちゃんも、第一線で頑張っているケイタやアベちゃんも、そして、もちろんわたしも、小池先生が、その自由さを教えてくれていなかったら、きっと、こんなふうに今の場所に立っていないのだと思う。 


アパレルデザイン科の2年2組の担任だった笠井先生はキミシマのオートクチュールなの♡と言ってアイボリーのすてきなワンピースを着ていらした。 


イシクラ君がセンセイ、ほんとに会場の中で一番素敵。と絶妙にコメントを入れる。 

お若く見えたが、今は77歳で、72歳で中国に赴任し、3年間中国の人たちに教えていたそうである。 

ここにも、モチベーションの高い生き方をしている人がいた。 


98歳の大往生の小池先生には、感謝の言葉を言っても言い尽くせない人たちが集まった。 
発起人の一人であるケンゾーさんは声を詰まらせていた。 


わたしたちは、小池先生に、何を教えられたんだろう?と、振り返ると、コムデギャルソンや、ヨージのショップの店内を思い出す。 

価値観とは、革命を起こせること。 
そして、ファッションとは、自由であること。 

絵を描くように、パターンをひきなさい。と言った小池先生の言葉は、自由に、しなやかに、生きなさい。という言葉にも聴こえてくる。 

まだまだ奥は深く、わたしも、自分の道のりの途中である。 

だけど、小池先生という、目指すべき人生の師がいることは、ほんとうに、ほんとうに、力づけられる。

 

 

いい年の取り方をするためには、いい年の取り方をしているな、と思える、自分の尊敬する人を持つことだと、久しぶりに会った、友達が言っていた。 

それを聞いて、わたしには、思い当たる人が何人かいる。 

女性で、尊敬し、目標にしたいのは、小池千枝先生だ。

92歳の時にお会いしたが、あんな風に、瞳を輝かして、自分のやりたいことを語る先生。そして、今のファッションについて、辛口のコメントをし、まだまだ現役感たっぷりに、社会と、関係をつないでいる。そこが、あっぱれだなぁ。と、思った。 

そして、小池先生のまわりには、たくさんの人が取り囲んで、じっと、先生の話す言葉に耳を傾けていた。 

もちろん、ご高齢だったし、毎日がそういう生活ではなくなってはいるだろうが、何事にも好奇心と、批判精神を持ち、自分のやってきた仕事に誇りを感じて生きていらっしゃる所に、わたしも、見習いたいなぁ。と、思ったのだった。 

はたして、90歳をすぎて、(わたしがそんなに長生き出来る保証はないけど。)そんなモチベーションで、生きてゆけるのか??? 

大学時代、OL時代に習いに行っていた、洋裁教室の荒井先生も、わたしの尊敬する先生だ。昭和30年半ばくらいから、手仕事が好きで、頼まれて仕立て服を作るようになったとおっしゃっていた。銀座のホステスさんに顧客が出来て評判となり、いっときはオートクチュールの仕立てをずいぶんやっていたようだ。 

その後、知り合いの人から娘の嫁入り修行のためにと請われ、ひとり、2人と、独学で洋裁を教えるようになった。 
教えて行くうちに、どんどんわからないことが増えて行ったので、教えながら、文化服装学院の通信教育を受け、勉強したと聞いた。 
昭和40年代は、洋裁ブームがあったそうで、ピーク時は、60人くらいの生徒さんが習いに来ていたと言っていた。 

その頃は、勉強したことを、次の日に生徒さんに教える、というような、綱渡りなことも、やっていたわよねぇ。と、笑っていた。 
でも、やる気があったから、何でもするする覚えられたし、なんとかなってしまったわねぇ。 

文化服装の、通信教育科を卒業してからも、たびたび文化服装に質問などで通ううちに、小池先生の夏期講習の手伝いや、文化出版局からの、パターン展開図などを頼まれるようになり、ブンカとのパイプが出来たと言っていた。荒井先生も、熱烈な小池先生ファンだったので、まだ、ブンカに入っていない頃から、小池先生の話は、荒井先生から聞いていた。 
その何年後かに、わたしも小池先生の授業を受け、荒井先生の言っていることを、心からナットクしたのだった。 

その洋裁教室では、課題があるわけでなく、自分の着たいものを作ることが出来た。デザインも自分で描いたものを持って行き、荒井先生が、パターンをひくコツを教えてくれた。荒井先生も、小池先生と同じように、ねばならない、という教え方はしなかった。 

必ず、どうしたいの? と、聞いてくれた。 

わたしがブンカに入るかどうかを迷いながら、ブンカに願書をもらいに行ったその日、偶然、新宿駅でお会いして、声をかけられた。(わたしは、そういう現象をマグネットと呼んでいるが、こういうことが、結構起こるのだ。)    

その時、はじかれたように、階段を駆け上がり、先生に入学願書を見せて、相談したことを、鮮やかなシーンとして、覚えている。 

先生は、おやりなさい。タツヤマさんなら、きっと、なにか、得られると思うわよ。と、励ましてくださった。 

それから年月が経った頃、なんだか無性にお会いしたくなって、赤羽のお宅を訪ねて行った。 お土産にスイカを丸ままぶら下げて行ったので夏の盛りだった。
あんなに毎週通った所だったのに、まわりがすっかり変わってしまっていて、道に迷って、電話をかけてしまった。 

小柄な身体に、元気がいっぱい詰まっているような、荒井先生。 

大きな老眼鏡をかけ、ニコニコしながら、玄関で迎えて下さった。 

今は、手ぬぐいを使って、服を作ることに凝っているのよ。といろいろ作品を見せて下さった。 
テーブルの上にはたくさんの資料が山積みになっている。 

その資料は、これから作ろうとしている、手ぬぐいの、柄合わせのパズルを組み立てたパターンだった。 

手ぬぐいだけを使って、いろんな洋服を作って、もう少ししたら、展覧会でもしようかしらって、思っているのよね。それにはまだまだ、作品を作らなくちゃ。 

旦那様も仕事をリタイヤされ、大好きな旅行にもちょくちょく行っている、と、楽しそうに旅の話もしてくれた。 

老眼鏡のめがねで、先生の目は、大きく見える。 

若かった先生も、その時、80も過ぎた頃だったのろうか? 

それでも、いつも微笑んでいる瞳は、溢れ出る好奇心と、今までを生きてきた、確かさで、強い力で、輝いていた。 

強いモチベーションに、支えられていた。

 

 

 

わたしの、ブンカの時の授業態度は、自慢出来るほど、真面目&真剣だったので、たいていは、一番前の席に座っていた。(高校時代はすべて、寝ていたような気がするし、大学時代は、そもそも、授業には、いなかった。) 

面白いと思う授業も、そういえば、ブンカにはたくさんあった。

 

リカちゃん人形を研究している東京女子大の先生の話とか、(リカちゃんから見た、日本の文化について、とかを講義していた。)生体解剖学とか、(これは、面白いので、また、あとで。いつか。)それと、大好きだった、小池先生の特別講義とか。そういったものは、退屈しないで聞いていた。 

多分、その頃のわたしは、スポンジみたいだったと思うので、何を聞いても、拒絶反応なしに、するすると、身体の中にいろんな話が吸収されて行った。 

小池先生は、その頃は、70才を過ぎていて、ブンカの学院長をやっていた。

 

目と眉頭の間が狭く、眉間にしわを寄せているようにみえる一見怖そうな先生だったが、キレのいい語り口と、斬新なファッションへの切り口が面白く、先生自体が、とても、エレガントで、新しかった。(70才すぎているのにハイヒールで、颯爽とやってきた。) 

カリスマ性がある。とは、ああいう人の事を言うのだと思う。

わたしたちをポジティブな気持ちにさせるのが、うまかった。話を聞いているうちに、みぞおちのあたりが、武者ぶるいのように、震えた。

 

ある時、石を拾って来なさい。と小池先生が宿題を出し、生徒それぞれが石を拾って授業に臨んだ。何に使うかわからないので、選んで来た石は、みんなばらばらだ。 



その石に布をかぶせて、ピンでぴちぴちにくるみなさい。と小池先生は言った。


拾ってきた石が、へこんでいる人は苦労していたし、ごつごつしている人も細かくピンうちをしなくてはならず、大変そうだった。
たまたま、わたしは丸っこい石を選んでいたので、いくつかのピンで、ぴっちりとくるめた。 

そのつぎに、そのピンの位置を線でつないで、えんぴつで、フイットするところに線を入れて行きなさい。と言う。 

それを開いて、展開図を紙に写しなさい。と言う。 

それを5mmの縫い代をつけて、同じ形の布を切り抜きなさい。と言う。 

それを5mmの縫い代で、縫って行き、少し縫わずに間を開けておきなさい。と、言う。 

最後に石をその中に入れて、ぴっちりと、糸で閉じなさい。と、言った。 

自分の拾って来た石が、ぴっちりとフィットした布に包まれた。 

小池先生が、皆に言う。 
これが、洋服を作る。と、いうことですよ。と。 

今までは、他の先生達から、原型を作り、決まりのあるやり方で、洋服を作る事を教えられていた。 
その方法は、洋服を作ってきた歴史の中、決められたルールの中で作った方が、合理的である。とされているだけのものだったのだ。 


着るヒトの、ボディの存在がある、と感じて作っているわけではなかった。 

そんなものを知らなくても、身体を包むものは、作ることができる。身体があれば、そこに布をはわせて行けば、パターンは、出来る。

 

そして、絵を描くように線をひきなさい。とも言っていた。

作りたい、と思う、情熱さえあれば、あなた達は、何でも創れるんですよ。と、小池先生は、教えてくれた。 

洋服だけではなく、すべてを。 

洋服を作る事、そのスタート地点に、その時に初めて立てたような気がした。 

そして、出来あがった石たちが並べられた。 

これは、あなた達です。ほら、みんな、違うでしょう? 

ひとつひとつに、特徴があって、どれも、楽しいですね。と、小池先生は言った。 

みんな、褒められたような気がして、石たちを見て、笑った。

 

 

 

 

今までで一番勉強したなぁ。と思えるのは,就職して2年働いた後に,仕事を辞めて,文化服装学院に入学してからの3年間だ。 

本気でやろうと決めて,入学した。同じクラスの同級生とは、6才くらい、離れていて,馴染めるかどうかも不安だった。 
子どもから大人の入り口にいる18才と、ある程度,大人とはなんぞや ? がわかってきた24才とは、感覚的にかなり隔たりがある気がした。 

今はもうないが,ブンカの円形校舎で、1年目は、基礎科で学んだ。2.3年は新校舎に移り,アパレルデザイン科で、ファッションデザインを学んだ。ファッションデザイン科のオシャレな学生たちの中で,ビニールのクツを履いて,ジーパンにTシャツの、全くファッションに無縁なような、学生だった。オシャレするなら、材料を買った。 

女子美の工芸専攻では、藍染めをやっていて,完全に伝統工芸の世界にいた。そのまま北海道に行って,染めでもやっていくか。と、思っては見た事もあるが,社会の中で,自分の事も,試してみたかった。 


最初の就職先は京都が本社のロンシャンという生地屋だった。
デザイナーといっても、OLの延長の日常に、少し、物足りなさを感じていた。 
生地がわかっても、その生地が,何になるのかわからなければ,いいものは出来る訳がない。そんなふうに思って,洋服の事を学びたいと思うようになった。 

翌年、ブンカから入社してきた後輩のノセちゃんに、タツヤマさんだったら、ブンカに行ったら,絶対面白いと思いますよ。と、言われて,日を追うごとに,本気モードになってしまった。 

ありったけのお金を集めて(チャリのあり金も全部 ) 、入学金に充てた。 

すでに,前の年に家を出て,チャリと一緒に住んでいた。
ちょうど,親とは,絶縁していた頃。
突然、学校に行きたいと言い出したわたしに、チャリは、びっくりした。 

びっくりしたが、ダメだとは言わなかった。 
言った所で、きかないという事も,わかっていたのだろう。 

決めたからには,後には引けない思いだった。ここで、何かをつかみたいと、本気で思った。現実的には,どのようにして、生活費と、学費と,材料費をかき集めるかは,3年間の課題となった。 


クラスの友達は,皆ライバルだった。課題が出ると,ヒトが1枚作るなら,2枚作った。2枚作るなら,3枚作った。 

寝なくても,ホント、平気だった。その頃は。 

学生の中には、やるべき事を見つけられず,無為に毎日を過ごしているヒトもたくさんいたが,ギラギラした情熱で,何かに向かっているヒト達も、そこには、確かにいたのだ。

そして先生たちもホンキだった。
当時学院長でもあり、カリスマ特別講師であった小池千枝先生の話は、みぞおちが震えるほど感動したものだ。憧れた。

毎日を、ヒリヒリする刺激の中で過ごしていた。 

年齢などは関係なしに,夢中になれる自分がいた事に驚く。 

夢中になった時、時間は、その濃度を変えるのだ。 

たっぷりと、濃い時間の中に身を置いていた。 

学ぶ、という形だけではなく,その頃のすべてから、わたしはいろいろなモノを吸収した。 
そして、夢中になるコトの大切さを知った。そう、楽しんで突っ込んで行く気持ちのパワーは、努力,根性、我慢、そんなネガティブなパワー( ある意味、つらくとも、ガンバル、ガンバッていれば、いつかはなんとかなる。という部分を含むコトバ ) などを、簡単に吹き飛ばしてしまう事も知った。 

今も,仕事は,( 職業という意味ではなく、) 楽しいものでなければならない、と、思っている。 

わたしの今は、その頃の夢中から吸収したものが,種になり,芽が出て,根が伸びたのだと、思っている。

 

昨日書いた記事で、ちょっと乱暴すぎた、と、言葉足らずだったことを反省した。

 

 

 

 

つまり、自身が落ち込んだり、塞いだりした気持ちになった時に、それを立て直すことができるのは自分自身でしかない。と、書いたことに対してである。

 

そして、何かに強くこだわり、それを手放すことが出来ないから、苦しいのだ。と書いた。

 

それは、今でもそう思っているのだが、それについては、自分の生き方の中で、思い通りにならないことに対しての気持ちの持ちようのことを書いたつもりである。

 

 

そうではなく、外からの影響で、激しい絶望に落ち込む場合もある。

すべての場合において、気持ちを切り替えればなんとかなる、と思っているのではなかった。

 

 

立ち直れないほどの痛み。自分を壊してしまうほどの衝撃。。。

 

 

それは、人が、不条理の中に放り込まれた時かもしれない、と思う。

自分の意思ではなく、突発的な不幸との遭遇は、一生を引きずるほど重い絶望をもたらすことになる。

 

 

災害、事故、戦争、事件、、、、。

 

 

そんな体験をしたとしたら、その後の人生は、一つのことだけを考え続けることになるだろう。

 

平和な日常が、突然奪い去られるような体験は、その人そのものを変えてしまうのだと思う。

 

それらは、トラウマと呼ばれる。

 

 

立ち直るのは、容易ではないが、それでも、そんな体験を乗り越えて、穏やかな日常を取り戻してほしい。

 

 

いろんな事に,キズついたり、目指した事を挫折したり、実力を思い知ったり,そんなコトも、繰り返してきた。 

わたしの道のりは,ポジティブな事ばかりでもない。 

だからといって,そんなに苦労を知っているわけでもなし。 
何しろ,わたしの今までには,鉄砲の弾も飛んで来なかったし,寝込むような,大きな病気をした事もない。 
飢えていたり、乾きで泥水を飲もうかと,迷った事もない。 

いい時代を生きているのだ。 

わたしの人生の中にあるいろんなカーブは、苦労と言えるものは、ひとつもないのだろう。 

だから、わたしは、人に対して,強気になる。 
考え方ひとつで,ポジティブに生きられるはず。くよくよしている人は,考え方の質で,そうなってしまうからだ。と。 
ポジティブに考え,自分を肯定してあげられれば、明日への見え方も変わって来るはずなのだ、と。 

そんな風に,突き放す。 

それは、わたしの人生が,その程度の考え方で片付いてしまうほど、うすっぺらだから、なのかも知れない。 
深淵を見る事なく、今まで,生きて来られたから。それ故に,人の痛みが見えないのかも。そんな事を思う。 

本当にココロの奥底に落ちていってしまった人には,そんな考え方は、無意味なのかも知れない。 
這い上がれないような深い森に迷い込んでいる人も,世の中には,いるのだろう。 
そのヒトの中に,どんな、譲れないモノが、あったのだろう? 
どれほどの刃物が、そのココロをキズつけたのだろう? 

そのヒト達の痛みは、わからない。 
ココロの迷路からはい出すのは,自分でしかない,と、思ってしまうから。 

今ここに至るまでの、わたしの道のりにも,多少なりとも、トンネルはあった。 

そんな時,だめなら、しょうがない。とか、無理するのはやーめた。とか、なるようにしか、ならないさ。とか、起こった事柄に身を任せるような流れが、何度もあったことを思う。 

そして、大きなストレスを持つ前に,それをあきらめたり、手放したりした。それは、自然な流れだった。 

ねばならない、を持たないこと。それは、わたしの強さでもある。 

思うように生きる方向をクリエイトしようとしても、そんなに簡単にいかない事も知っている。だから、なすがまま、流れるコトもありなのだ。 

そんなふうに流れ着いた今ある場所。こんなもンか。 

人生は,上がって,ナンボだ。あとの20年、(あるかな?) 無理せず上手に流されて,辿り着けたら,しあわせだ、と、思う。 

辿り着くのは、どこなんだろう。

文化服装学院のハットリ先生と卒業生たち

 

文化服装学院 校舎

 

文化服装学院の恩師と生徒たち

 

 

女子美術大学を卒業して、ロンシャンというテキスタイルの会社で2年働いたが、そのまま企業のテキスタイルデザイナーとして働くことに疑問を抱いて、もう一度服飾の勉強をしたい、と、文化服装学院のアパレルデザイン科に入学した。

 

24歳の時だ。

 

その2年生の時の担任であったのが、ハットリ先生である。

 

あら、あなた、ダメじゃない。。。 

と、いうのが口癖で、独特の「間」を持っている。 
おっとりした印象の優しい先生である。 

いつもニコニコ笑顔の先生はちっちゃくて可愛かった。

考えてみると、わたしたちを教えてくれていた時は、55~6歳だったということか。 

今のわたしよりも、ずっと若い。 。。。

卒業してから次にお会いしたときは、小池千枝先生のお別れ会の時だった。

その時にハットリ先生とはすれ違い様に会って、駆け寄って挨拶した。 
「先生のところに遊びに行きたいです!!」と先生に言ったのに、またあっという間に時が過ぎてしまっていた。

年賀状だけは続いていて、ハットリ先生からも返信をいただいていた。

ある時の年賀状に、こんなふうに書かれていた。

 

今年は家を処分して引っ越すかもしれません。

 

先生の住所がわからなくなってしまったら困るなぁ、と、思っていたのだ。

5月に入ってハットリ先生から転居先の住所を知らせるはがきが届いた。 

風薫る5月に入り若葉も一段と輝きを増しておりますが、お元気でお過ごしのことと存じます。 
元号も「令和」と改まり、新たな時代を迎えました。 
私も、このたび身辺を一新して下記に転居いたしました。一日も早く新しい環境に慣れるよう努めております。 
今後ともよろしくお願い致します。

 

もしかしたら、遠くに引っ越してしまわれるのかなぁ、と、思ったりしていたが、世田谷区のマンションだった。 

あの時、遊びに行きたい。と、言ったままだった。 

この機会に会っておきたい、と思って、セッちゃんにも電話した。 

電話に出た先生は、懐かしい声で、まだねぇ。ちゃんとどこへでも歩いて行けるし、大丈夫よ。渋谷でもどこでも、出かけて行くわよ。と、おっしゃった。 

日曜日、ハットリ先生のお家の近くまで訪ねて行き、近くのお店で3人でランチした。

お家の処分などが大変で少し痩せちゃったけど、元気よ。。と、おっしゃった。 


何十年も前に遊びに行ったお家を覚えている。 
サチヨちゃんやセッちゃん、イシクラ君やミヤコシ、ミナちゃんもいたかな。 
とびきり切れそうな包丁があって、買ってきた果物をむいていたサチヨちゃんが無言になっているのをふとみたら、包丁で指を切って血だらけになっていた。。。 

そのお家にお姉さんとずっと住んでいた。 

そのお姉さんが昨年特別擁護老人ホームに入居し、介護度もなく、要支援にもなれない先生はお姉さんとの同居も叶わず、一軒家に年寄り一人で住むのも物騒なので、介護付きのマンションに転居を決めたのだそうだ。 

ご飯もね。3度でるのよ。一日に何度かね。部屋を見に来てくれるの。 
なんにもしなくてよくなっちゃったのよ。だから、なにかしないとね。と、話す。 

俳句や短歌を詠んだりしているのよ。。。。

先生がどんな風にこの仕事につくきっかけになったのかなどとそんな話は聞いたことがなかった。こんな機会だから、先生の人生にも突っ込んでみる。。。 

あたしはねぇ。「なんとなく先生」なのよ。。。 
女学校出るとき、友達がブンカを受けるっていうのでじゃあ、あたしも。。って、、。そんな感じでブンカに通って、そのままなんとなく先生になっちゃった。。。 

でもねぇ。フランスの学校にも行ったのよ。そう、小池先生も行ってらしたサンローランが卒業した学校。そこで立体裁断を習ったのねぇ。 
その時はちょっとくらいはフランス語を話せたのよ。今は忘れちゃったけどねぇ。 
1971年だったかしら。その頃は円がまだ安かったから、大変だったけど、貯金してたお金で行ったのよ。。 

学校から2年したら帰って来なさいって言われていたから2年で帰って来たけど、もっといたかったわねぇ。。。。 

仕事はね。70才までブンカで働かせてもらえたから。よかったわね。。 
70になったら、もう来なくていいですって言われたからやめたけど、それからも元気だったわよ。85までは元気でいられたわねー。 

だから二人も大丈夫、まだまだこれからよ。。。。と、先生はおっしゃっていた。。。

 

一昨年にはせっちゃんとハットリ先生とブンカの博物館に3人で出かけた。

94歳の先生は、三茶でせっちゃんと待ち合わせて、ちゃんと電車に乗ってやってきた。

 

わたしたちが学生だった時に総務にいらしたイマイさんが再雇用で博物館の受付にいて、久しぶりにハットリ先生にお会いできて喜んでいた。

 

そして去年、せっちゃんがうちに来た時に、ハットリ先生に電話した。


先生はお元気そうだったが、あなたたちが誰かはわからないのよねぇ。とおっしゃっていた。


でも先生のひとことひとことが優しくて、スピーカーにして3人でのおしゃべりはとても楽しかった。

 

 

先日わたしの個展の案内を送ったが、宛先不明で戻ってきた。確認したら住所はあっている。
介護付きのマンションに電話してみたが、個人情報なので身内の方にご連絡してください。と言われた。

 

当時の副担任の先生に伺って、亡くなられていたことがわかった。

 

最後にかけた電話での朗らかな声が蘇る。。。

 

お会いすると、いつも、励ましてくれた。
大好きだったハットリ先生。

 

何気ない 言葉残して 恩師逝く
   その優しきを けして忘れず

 

服部綾子先生のご冥福をお祈りいたします。 

少女 figurine 井戸水で涼む記憶

 

冷えたスイカのカット

 

網で吊るされたスイカ、夏の風物詩

 

 

明日で7月。 夏が来た。

 

子供の頃の夏といえば、やはり記憶に甦るのは貸本屋の板の間である。 

おばあちゃんは首タオルで楊柳のシミーズ姿。 
垂れパンダのように正座してうちわでぱたぱたやっていた。 

わたしはそのまわりでちょろちょろ。当然、広告の裏紙かなんかに漫画でも描いていたのだろうと思う。髪の毛はよしこヘアだ。(わっかるかな、、、?) 

家の横の路地にはえんじ色のポンプのついた井戸があって、あんまり暑いとその井戸の水で顔を洗った。 
道路の向こう側の田んぼでどじょうをバケツに一杯捕った。(そのままほっといたら、ひからびて、死んでた。) 

蕨市は地下水が豊富で、水は美味しかった。 

お風呂がなかった頃は日の出湯に家族総出で出かけていったが、夏は盥に水(?)お湯(?)を張って行水などもしていたと思う。 

最初に入るのは父。 
そして子供たちが順番に入った。母がお湯を注いでくれた。(あっ。だから、お湯だ。) 

太った母が盥に入るとお湯が全部なくなった。母で盥はいっぱいになった。 
母が丸い背中を向けて、小さい盥の中に収まっている様子がなんとなく、記憶のひだにある。

きっと子供たちを洗い終えて、最後に身体を流していたんだろう。 


夏本番になると、母は編み上げた紐に入ったスイカをよく買って来た。 
あの頃のスイカが丸ままでいくらしたのか知らないが、5人家族ではそれはあっという間になくなった。 

スイカが入るような大きな冷蔵庫などなかったので、水道を出しっぱなしにして、バケツに入れたスイカが冷えるのを待った。 

水道の水の勢いで、バケツの中で、スイカがくるくる回っていた。 

新聞紙をテーブルに広げて、スイカを母がざっくり切った。娘三人は立ち上がって母の横でスイカが切り分けられるのを待っている。 

スイカを食べるのは母が一番早くて、それは目を見張るほどだった。 

ママは種を出さないからだよ。というと、あとでぷぷぷぷぷ。と、口から種が飛び出した。 

皆で驚いて大笑いした。 

子供たちがマネしようとしても、そんな器用なマネは誰も出来なかった。 


子供の頃の夏、を思い出すと、そこにはいつも「涼」の気配が隣あわせだ。 

朝夕のなだめられた気温は、真昼の熱を冷まして、心地いい風を裏口から通した。 
夕焼けが空を染める頃には、額の汗も、すっかり、乾いていた。 

なぜか母の記憶がふいに甦る。

 

ほくさんバスオール 浴室のいらないお風呂

 

ほくさんバスオール3台の画像

 

ほくさんバスオール、浴室の広告

 

ヨシザワさんの顔と染色作品展ポスター

 

ヨシザワさんとのおつきあいはもうかれこれ50年以上経っていると思われる。

親子2代に渡ってお世話になっているのだ。

 

 

駒込に住むようになってからも、お風呂のリフォームやら、網戸の張り替え、果ては今の染めの作業場も作ってもらった。

 

今回の龍山朋子染色作品展のポスターも、昨年に引き続き、快く蕨店のウインドウに飾らせて頂けた。



さらに昔に遡れば、小学校2年生のときに我が家にやってきた箱形シャワールーム、「ほくさんバスオール」なるシロモノがそのご縁である。 

ある日、突然のにわか雨で、うちの軒に雨宿りをしていたセールスマンを母が発見。

雨がやむまで中にいていいよ、と、家に招き入れた。(昔はいろいろゆるかったのだなぁ~~。) 

その人は北海道出身で、団次郎(当時のモデル)に似たイケメンであった。ユニットバスのセールスをしているといって、母にいくつかのパンフレットを見せた。 

そのころ、タツヤマ家には内風呂がなく、近所にある「日の出湯」という銭湯に通っていた。 

ひとがひとり立てるくらいの電話ボックスのようなシャワーのついた湯船。そんなユニットバスを売り歩いている人であった。 


値段がいくらだったのかはわからないが、説明を聞いて、母は即決した(?)ように記憶している。(イケメンだったから即決したのかどうかは不明である。)
わたしもうちの板の間に腰をかけたそのひとが、母に商品の説明をしていたシーンを覚えている。なので、わたしもそこにいたはずだ。 

それから何日かして、我が家に初めての内風呂がやってきたのだった。。。 


ヨシザワさんは、うちの2台目からの「ほくさんバスオール」の担当営業マンであったひとだ。 1代目の団次郎は、女性問題で会社をクビになったそうだ。


2台目に変える頃には「ほくさんバスオール」は畳一帖くらいの大きさになり、洗い場と湯船が別々になった。これもまた、画期的であった。入り口にじゃばらのマグネットカーテンがついていた。 

わたしが高校生の時に、隣のクリーニング屋さんが引っ越したので、そこを譲り受けて、おばあちゃんを引き取るために2階建ての離れを建てた。(その2階におばあちゃんと、わたしが独り部屋をゲットした!!) 

ヨシザワさんは、その後、水回り関係の施工やリフォームなどを手がける会社を作って独立していた。 

1階部分の貸店舗は、最初は文房具屋さんの倉庫になっていたが、その後、随分長らくヨシザワさんは、店の営業所としてその1階部分を借りてくれたのだった。 

そんなわけで、蕨の実家は、家の不具合があると、いつもヨシザワさんに電話して、なんとかしてもらっていた。かなり古くなっていた蕨の家の修理は、ほとんどヨシザワさんが駆けつけてくれていた。 


うちの隣を借りてくれたひとはねぇ。みんな出世して店大きくして出て行くんだよ。 
流行らなくて、店畳んで出て行く人はいないんだよねぇ。と、自慢するのは父であった。 

その言葉の通り、ヨシザワさんの営業所も大きくなって、今では2人の息子さんと一緒に蕨の一角で切り盛りしているようだ。 

しばらくぶりにお会いしたヨシザワさんは、相変わらずにこにこのいい笑顔で、それでも、2年前に屋根の修理をお願いしたときより、少しおじいちゃんになっていた。 82歳で背筋がしゃきっとしている。

懐かしい話にも花が咲き、ほくさんバスのご縁の話もした。 

そうですよねー。 
ほくさんバスは北海道の小さな会社でしょ。大手さんにやられっぱなしでとっくに今は買収されて「エアウォーター」ってなってると思いますよ。ほくさんはもうなくなっちゃってます。

だけどあの箱形のシャワールームはねー。当時画期的で売れたんですよ。その頃はまだ内風呂は沸かし湯でしょう。シャワーがないんですよねー。ほくさんは湯沸かし器を使っているから、シャワーを付けたんですよ。それが大ヒットした。あたしもね。一日5台から6台くらい売ってましたもん。 

そこから水回りの補修とか、点検とか、いろいろやるうちに台所とか、その他もやるようになって、独立したんですけどね。その時いろんなこと教わってね。技術を持てたからね。それが良かったですよ。トシ関係ないですもん。今でも仕事やってられてるって、ホント、幸せですよ。 

まじめにやってれば、お客さんも、また声かけてくれますもんね。ありがたいですよ。 
長くつき合って来たお客さんばかりで、それがまた、みんな家が古くなって修理が必要になっちゃってる。ほんとに、高齢化社会を実感しますね。。。 

で、自分もいつの間にかこんなにトシ喰っちゃってるしねー。やんなっちゃうよねー。 

タツヤマさんのお母さんはねー。3人の娘さんのこと、いっつも、よく話してましたよ。
下の娘さんがね。手に職を持って頑張ってるっていうのも、聞いてましたよ。 

娘さんの仕事も、我々と同じですよ。手に職があれば、年齢は関係ない。 
いい仕事をすれば、ずっと続けられますからね。。。

確かに、いい仕事を続けているヨシザワさんだから、またこうやってお願いしているのだろう。よく知っているから、安心してお願い出来る。 

仕事には「安心」という、渡さなくてはならないサービスが含まれている。
ふむふむ、と、ヨシザワさんの言葉に耳を傾けるわたし。 

箱形のシャワールームは画期的で、家の外に置かれたカプセルは、あの頃は未来からの贈り物であった。 

そしてご縁もそのまま未来まで繋がって、ちょっとトシをとったけれど、にこにこ顔のヨシザワさんに会える。 

確かに、ヨシザワさんのにこにこ顔には、「安心」という、「サービス」がある。

 

いつもありがとうございます。