君は君の道をゆけ 齋藤孝 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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君は君の道をゆけ

2020年6月25日 初版発行

著者 齋藤孝

発行所 ワニブックス

 

 

物理のお勉強になる本

 

を探しに行ったのですが(笑)、

 

古本市場にて80円で購入させて頂き、

 

ポイントを拾い読みさせて頂きましたので、

 

気になったところを少しご紹介させて頂きます。

 

 

 

005 行為に先だって言葉を投げよ。

破約の恥辱によって、自らを拘束せよ。

『ニーチェ全集第五巻(第II期)』

おのれの言葉で、自分を鼓舞せよ

 

「破約の恥辱によって、自らを拘束せよ」とは

わかりやすく言い換えますと、

「有言実行せよ」ということです。

 

叶えたい未来があるなら、まずは言葉にしてみるところから始めましょう。

 

 

006 苦痛のなかには、快楽のなかにおけると同じだけの知恵がある。

『悦ばしき知識』

苦痛の中にこそ、得るものがある

 

ある程度の苦痛のあとには、通常では得られないような爽快感、達成感があるものです。

新しい知恵や感動に出会うためにも、多少の苦しさは必要なことなのです。

 

困難に立ち向かう心自体が、知恵なのです。

知恵というのものは、当然、単なる知識や情報とは異なります。

 

 

009 君の行動の理由や、またその目的が君の行動を善となすのではない。

その行動をするとき君の魂がうち震え、光り輝いているかどうかである。

『ニーチェ全集第六巻(第II期)』

君の魂は今、光り輝いているか

 

『バガヴァッド・ギータ―』というインド哲学の本があり、そこには

「行為の目的に目を向けるな」ということが書いてあります。

要するに、「行為のプロセスだけに目を向けよ」ということです。

みなさんは、何か一生懸命やっているうちに、

「もはや、勝ち負けは関係ない」という心境になったことはありませんか?

 

孔子は、「憤せずんば啓せず」「悱せずんば発せず」と言いました。

「憤せずんば」というのは発奮していないこと、

「悱せずんば」というのは「言いたいことがうまく言えない!」

といって身もだえしていないことを指します。

つまり、言い換えますと、

「興奮して、魂が光り輝き、自分も魂が打ち震えたい!

と思っているような人にしか啓しない、発しない

(ともに「教えない」という意味)」

ということです。

孔子が見抜いた通り、魂が打ち震え、光り輝いている状態こそが、

学びや成長、すべてのスタート地点なのかもしれません。

 

 

012 すべての行動にはかならず不快の成分が伴う。

けれどもこの不快はただ生の刺激として作用し、

力の意志を強化するのである。

『ニーチェ全集第十巻(第Ⅱ期)』

不快すらも、よい刺激として生きよ

 

ニーチェ的に言うならば、不快をも「生の刺激」とし、

それによって、「力への意志」を強化していったのです。

この「力への意志」というものは、自然に強くなることはありません。

そうではなく、ある種の“抵抗物”があるときにこそ、

「力への意志」は強化されるのです。

たとえば、強い相手に負けてショックを受け、

「これを乗り越えなければ!」というときなどは、

強いパワーが湧いて出てくるものです。

 

 

013 ――私は意志の力を、どれほどの抵抗、苦痛、拷問に耐えて、

それらをおのれの利益に変えることができるか、

ということに基づいて評価する。

『ニーチェ全集第十巻(第Ⅱ期)』

抵抗や苦痛に向かっていく、意思の力を持て

 

ニーチェは「抵抗」というものが意志にとって

非常に大切なものであると考えました。

つまり、抵抗や苦痛を乗り越え、

いかに自分の利益に変えることができるかとうことこそが、

「意志の力」だというわけです。

 

 

018 獅子がまっしぐらに、獲物にとびかかるように、

知識に熱望しているか。

『ツァラトゥストラ』

君は今、熱望しているか

 

情報社会と言われますが、知識への熱望に溢れているでしょうか。

たとえば、学徒出陣で命を失った林尹夫の遺稿集

『わがいのち月明に燃ゆ』を読みますと、

今すぐにも出陣しないといけない、命を失うかもしれない……、

そんなときにでも、洋書を読む人間の姿が描かれているのです。

矛盾しているように思われるかもしれませんが、

死ぬかもしれないからこそ、知識を熱望するのです。

そういった、生命の最期の燃焼と申しましょうか、知識への熱望というものを、

私は10代の終わり頃にこの本を通じて知ってしまったものですから、

とにかく「勉強しなくては」と思うようになったわけです。

 

たとえば、プレイ自体はそれほど上手くないにもかかわらず、

ゴールをもぎ取るサッカー選手がいます。

彼は、ゴールを熱望しているがゆえに結果を出すのですから、

そもそも、熱望していること自体に価値があるわけです。

 

したがって、成功や失敗の話ではないのです。

本人がそれを熱望しているか、否か……。

どうぞ、みなさんもご自身の胸に手を当てて、

じっくる問いかけてみてください。

 

 

020 お前の立つところを深く掘り下げよ!

その下に泉がある!

『悦ばしき知識』

君の足元を追求すれば、必ず泉がある

 

スポーツの世界でも、いわゆる練習嫌いの選手がいます。

センスはあるのに、練習嫌い。

これも、「立つところ」を掘り下げていない状態といえるでしょう。

たとえば、テニスの錦織圭選手もあまり長い練習が好きではなかったらしく、

わりと早めに切り上げるタイプだったそうです。

ところが、マイケル・チャン氏がコーチになった際、

「そのやり方ではトップ10にはいけない!」と、

錦織選手の手を抜くクセを指摘し、新たに練習の一つひとつを組む立てていったとのこと。

すると、次第に身体が強くなり、プレイもよい方向に向かっていったのです。

つまり、手を抜かず練習を掘り下げたその下に、泉があったというわけです。

テニスに限らず、よいコーチとは泉のありかを見抜き、

「お前は持っている力をすべて使っていない。

そこを掘ってみろ、その下に必ず泉があるから」

と言ってくれる人のこと。

そして、言うだけではなく、その“掘り方”も教えてくれる人。

「ちょっと水が出てきただろ?」「本当ですね」

「では、もっと掘ってみろ」「また水が出てきました!」

と……。そうできる人こそが、もっとも優れたコーチなのです。

 

勉強でもなんでも、奥まで入り込んだ方が面白いという側面がありますから、

物事を表面的に見てはいけません。

 

 

026 どんな風でも追い風にして私は帆を張る。

『悦ばしき知識』

たとえ逆風であろうが、追い風に変えてゆけ

 

スポーツの世界でも、怪我をした選手の方が、

そのあとの技術が高くなっていくこともありますし、

大学入試に落ちて、最初は逆風と思ったけども、一年浪人して勉強したことが、

その後の人生に自信をもたらしてくれた、というケースもあります。

つまり、凪の状態よりも、順風だろうが逆風だろうが、風があった方がいいのです。

風さえ吹いていれば、とりあえず帆を張ることができますから。

どんな方向でもいいから、風の吹く方向へ向かう、という手があるわけです。

 

 

032 学びたいと思う真理が抽象的であればあるほど、

それだけいっそうまずそれを、感覚に訴えるものとしなければならない。

『ニーチェ全集第五巻(第Ⅱ期)』

真理を考えるな、感じろ

 

このフレーズを前にしますと、いつも最初に思い出されるのが、

映画『燃えよドラゴン』の中で、主演のブルース・リーが弟子に言う

「Don’t think FEEL‼」というセリフです。

つまり、「考えるな、感じろ!」というわけですね。

いわば「感覚の中にこそ本当の力がある」とでも申しましょうか。

身体感覚の中にこそ、真理を捕まえるような力があるものです。

 

 

036 「これこれのことはこうであると私は思う」

という価値評価こそが、「真理」の本質である

『ニーチェ全集第十巻(第Ⅱ期)』

真理に振り回されない、強い意志を持て

 

つまり、いくら真理を探し求めたところで、

真理そのものがあるわけではないのです。

すべては、自分自身の価値評価に過ぎません。

唯一の真理、客観的な真理など、存在しないのです。

そうではなく、「私はこう思う」「私はこれが好きだ」といった、

それぞれの強い意志、価値評価によって、真理が形成されていくというわけです。

 

 

038 多くを見るために、自分自身を度外視することが必要だ。

『ツァラトゥストラ』

愛されるためには、自分を外して考えてみよ

 

宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の中に

「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズ

ミキキシワカリ ソシテワスレズ」

という一節があります。

この「自分を勘定に入れずに」という部分がポイントです。

 

 

040 存在するのは「意欲する」ではなく、

なにかを意欲することだけである。

『ニーチェ全集第十巻(第Ⅱ期)』

君が何を意欲しているか具体的に考えよ

 

なんとなく「意欲」が存在するわけではない、ということです。

つまり、意欲するということは、なんとなくではなく、

必ず、“具体的に、何かに対して”意欲が湧く、という点がポイントです。

 

 

043 情熱を、それを弱めたり根こそぎにしたりすることなく、支配すること!

われわれの意志の支配者としての力が大きければ大きいほど、

それだけ多大の自由が、情熱に与えられるわけだある。

大になる人間とは、彼の欲望の自由に跳梁する範囲が大きい人間である。

『ニーチェ全集第十一巻(第Ⅱ期)』

情熱を弱めることなく、支配せよ

 

意志が強ければ、情熱を強くすることができます。

少々言い換えますと、意志の力が鍛えられていない人は、

情熱が暴れだすのが怖いために、情熱の力を小さくしてしまうのです。

つまり、意志の力によって、情熱をコントロールすることができないのです。

したがって、一般的には情熱が先に存在するように思いますけども、

ニーチェは意志の力を鍛えることが先である、というわけです。

意志の力を鍛えることで、様々な情熱を自由にすることが可能になるというわけですね。

そして、「大になる人間とは、彼の欲望の自由に跳梁する範囲が大きい人間である」

というのは、情熱というものを弱めたり根こそぎにすることなく、

もっと情熱をコントロールしろということです。

 

 

049 体得された自由の印は何か?

――もはや自分自身に恥じないこと。

『悦ばしき知識』

人と比べて恥じたりせず、本当の自由になれ

 

自分を恥じている間は、まだ何らかの“束縛”があるということだからです。

 

他の人に見られて評価されたら、自分は低めに見積もられてしまうんじゃないか、

という心配なのです。

この心配をいっさい取り除いたところに、自由があるのです。

 

 

056 美が君たちの緊急事でないなら、君たちの美の探求に何ほどのことがあろう!

飽満ではなく美が最後の要求でなければならない

『ニーチェ全集第六巻(第Ⅱ期)』

美的体験を人生の最優先事項とせよ

 

本当の美というものは、こちらの魂が震えるような強烈なもの。

それが美であり、美的体験なのです。

 

「自分の魂を救ってくれるような美しさはないか?」と探し続けて、

額に汗して富士山に登り、山頂で御来光を見て「ああ、これは美しい!」

という宗教的な体験をする。そういう、本当の美の体験でなければ意味がないのです。

また、そうした自分の大切な琴線に触れるような体験を重ねていきますと、

次第に、美というものが最優先事項になっていきます。

つまり、「美」が緊急事となり、「人生の中で、こういう瞬間こそが一番大事なんだ」

と考えるようになるわけですね。

 

 

057 自己をもっと複雑なものにしたいか、

それとも、もっと単純にしたいか。

もっと幸福になりたいか、

それとも、幸福や不幸にもっと無関心になりたいか。

(中略)

もっと利口にたちまわりたいか、

それとも無鉄砲にやりたいか。

(中略)

もっと尊敬されたいと思うか、

それとももっと恐れられたいか?

あるいはもっと軽蔑されたいと思うか!

『ニーチェ全集第十一巻(第Ⅱ期)』

物事を複雑でなく、シンプルに捉えよ

 

ニーチェを読みなれている人であれば、

見た瞬間「ニーチェは前が嫌いで、後ろが好き」

ということが、おわかりになるでしょう。

 

ちなみに、ニュートンもアインシュタインも、

極端なほどにシンプルに、たとえば

F=ma、E=mc²といった具合に、

世界の法則を数式で表現しました。

これ以上シンプルにできないほど、シンプルですね。

そうすることで、それが間違っているか否かもチェックしやすいですし、

堂々としていて、どこか美しさや勇気をも感じさせます。

 

「私はどうしたら幸福になれるでしょうか?」ではなく、ニーチェからすれば、

「まずは、やるべきことを、やりたいことを、やりなさい」といったところでしょうか。

そういった。大きなスケール感で、自分を捉え直してみるといいかもしれません。

 

 

058 人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、

芸術や知識によって軽やかにされた心かである。

『人間的、あまりに人間的Ⅰ』

軽やかな心を、獲得せよ

 

人は、「○○すべき」が積み重なっていくと、気分が重くなり、

がんじがらめになって、自由に動けなくなってしまいます。

ニーチェのいう「重さの霊」の仕業です。

したがって、「○○すべき」ではなく、まるで子どもが遊ぶかのごとく

「やりたいからやる」「動きたいから動く」というように、

軽やかな心を持って行動すべきなのです。

 

 

063 世界は深い、昼が考えたより深い。

『ツァラトゥストラ』

真夜中の自分が、教えてくれること

 

なぜ世界は「昼が考えたより深い」のか?

普通の理性が支配するのが昼間で、

それがアポロンのように知性的な神の支配する世界だとしますと、

夜は酔いしれる酒の神であり、荒ぶる神、ディオニソス的な世界なのですね。

夜は無意識の世界でもあるわけですから、それが爆発したとき、

世界は昼間に理性が考えているよりもずっと深い、とニーチェは言うわけです。

「自分はこうである」と考えているよりも、ずっと深いかもしれない……。

それを酔いしれた真夜中の自分が教えてくれるということです。

自分が普段考えている枠組みというものがありますが、

それを取っ払ったところ、と考えてもいいでしょう。

 

 

「さてこれが――わたしの道だ――君の道はどこにある?」

「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた。

つまり万人の道というものは――存在しないのだ。

『ツァラトゥストラ』

 

 

 

超訳 ニーチェの言葉

 

よりとても読みやすかったです(笑)。

 

 

 

 

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