先生! どうやって死んだらいいですか? 山折哲雄 伊藤比呂美 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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猪名川町・三田・川西・宝塚・西宮のゴルフレッスン

2014年2月15日 初版第1刷発行

文藝春秋

 

SESSION 1 性をこころえる

 

SESSION 2 老によりそう

 

SESSION 3 病とむきあう

 

SESSION 4 死のむこうに

 

 

 

猪名川町立図書館でお借りしました。

 

 

 

 

山折 寂しいですよ。われわれ日本人からすれば。

重度障害者関連の会に呼ばれて話をしにいったとき、

その責任者が言っていました。

アメリカから障害者医療の視察団が来たところ、

日本の医療は重度障害者をあそこまで面倒みるのか。

日本ではなお人として介護しようとしていると。

伊藤 その日本の考え方は、仏教から来てるんでしょうか。

山折 生命観でしょう。

山川草木のいのちと人間のいのちは等価である

という考え方ですね。

伊藤 そしたら、人格をなくして枯れ木のようになった人間も、

木と等価であると。

山折 そうです。

花のようにそこで生きている。

草木のように生きている。

木石のように生きている……。

伊藤 ああ、いい言葉ですねえ、それ。

 

 

 

伊藤 切腹にせよ、心中にせよ、お話をうかがっていると、

確かに日本の文化は自殺の文化だということがよく理解できますね。

それにしても、そういう文化をなぜわれわれは育ててきたのか、

問題はそこだと思うんですね。

山折 それに対しては、二つの説明が可能だろうと私は思っています。

ひとつが仏教の無常観です。

人生には盛りがあれば衰えるときもある。

照る日もあれば曇る日もあり。

得意な時代もあれば失意の時代もある。

人生は若さに始まってクライマックスに達して、

やがて下し坂になって老いと死を迎えるわけです。

そこで最後は、死に場所、死にどきを選ばなければならない。

伊藤 ちょっと待ってください。

無常観だったら、そのまんま流れていくものでしょう。

どうしてそこで、ぶつっと切らなくてはいけないんですか?

山折 無常観ですべて説明できるとは思いませんよ。

しかし、そのとき私がよく引き合いに出す歌があるんです。

日本人が好むよく知られた歌、

《散る桜 残る桜も 散る桜》。

良寛和尚の辞世とも言われていますが、

散ることに対する日本人の関心の深さがよく分かるでしょう。

これも無常観だと思うわけです。

伊藤 ああ、確かに。

山折 また

《裏を見せ 表を見せて 散る紅葉》

というのもあります。

人生というものは、

暗いところを見せたり明るいところを見せたりして、

やがては散っていく。

だから、秋の季節に自分の人生を重ねてみる、

春の季節に自分の人生を忍び込ませる。

春に死にたい者は桜とともに散ればいい。

秋に死にたい者は散る紅葉とともに逝けばいい。

春夏秋冬、いつでもそこに生きる喜びを感じ、

同時に死の影を感じている、

そういう人生観がわれわれの背後にはある

ということがひとつですよ。

受け取りようによってその無常観は明るくなることもあれば、

暗い影を帯びることもある。

その両方を自然に受け入れている人生観というのも

悪くないんじゃありませんか。

それはある意味でしたたかな生き方でもあるんです。

日本人にはそういう人生観があったと考えていい。

自殺文化についての二つ目の説明になりますが、

無常観より大事なものとして、どうもわれわれには

涅槃願望とういものがると私は思っている。

涅槃することへの願望、滅びへの願望

と言ってもいいかもしれないけど、

滅びと言うと非常にネガティブになるでしょう。

しかし涅槃するというのは、

滅びることによって仏になるという仏教の言葉ですね。

 

 

 

山折 (前略)

結局ね、最期を迎える人間に何を言うかは大事なところなんだけど、

さいわい、われわれ日本人には「気配」で示す

というコミュニケーション手段があるんですよ。

伊藤 気配?

山折 気配を感じる、気配で察する。

煎じ詰めれば「察する」ということですね。

それに対して西洋的なコミュニケーションでは、言葉で知らせる。

それを告知と呼んでいるでしょう。だけどね、

マリアの無原罪の身ごもりを告知する「受胎告知」にしても、

告知する主体は神だったんです。

それが現代は神殺しの時代になってしまったから、

神に代わる代理人として医師が出てきて告知する。

伊藤 今は医師による告知が当たり前になってきましたけど、

その重さを医師は十分自覚しているのかしら?

山折 大いに疑問ですね。医師も患者も含めて、

この日本列島に住み着いてきた人々の多くは、

心の中では告知を嫌っていると思う。

それはなんらかの精神的ストレスとして残っていくことでしょう。

伊藤 ああ、そうでしょうか……。

山折 と私は思う。

日本の言葉に「診察」というのがありますね。

「診」は医学的行為としての「見る」であり、

これは普遍的な言葉ですよ。

一方の「察」、これはヨーロッパの言葉にはありません。

伊藤 ああ、推察の察ですね。

「察」に「推」がつくと、推論とか推理とかの

ヨーロッパ的な文脈が入り込んでしまうけど、

「察する」という言葉そのものは大和ことばだと思います。

それで「気配を察する」という言葉にもなった。

私はそれを「気配の文化」と呼んでいるんです。

「告知の文化」ではない。

伊藤 ああ、確かに。

強いて言い換えれば、「見極める」かな?

山折 いや、「思いやり」に近くて……。

伊藤 「思いを共感する」でしょうか?

山折 そう、共感するんですね。

「診察」というのは、おそらく

明治の段階で生まれてきた言葉で、そこには

ヨーロッパ的な考え方と日本古来の考え方

が凝縮して重ねられていると思う。

伊藤 森鴎外がつくり出したのかも。

いや、鴎外好きなんで、だといいなあ、

と思ったんですけど、ありえますよね?

山折 きっとそうですよ。

明治の知識人というのはすごい人たちで、

鴎外も漱石も、そうやって新しい言葉をつくり出している。

伊藤 なるほどねえ、診察は「見て」「察する」ですか。

じゃ、何を察するのかと言うと、

それが「思い」なんですね。

山折 この「思い」という言葉、これがまた簡単に

西洋語にならないんです。

あなたなら英語で何て訳します?

伊藤 そうなんです。おっしゃる通り、

「思い」は英語にならない。友人の心理学者、

井上典之さんがやっぱりそこに着目して、

翻訳不可能な「 OMOI 」という横文字を使って

論文を書いていました。

山折 日本語の「心」もそうです。

これも英語になりにくくて、外国の日本文化研究者らは

「ココロイズム」と訳したりしています。

伊藤 心と「ハート」は違うんですか?

山折 日本人の好きな、心の時代、心の教育、

心、心、心……。

これには千年の伝統が込められていて、

マインドとかスピリッツとかを当てはめてみても、

ぜんぜんニュアンスが伝わらない。

それで仕方なく、ココロイズム。

伊藤 心イズム。分かるような、

よけい分からなくなっちゃうような、

奇妙きてれつな言葉ですね。

山折 「言葉の壁」ということがよく言われますけど、

「言葉の壁」という以上に、

言葉そのものには限界があるということを、

われわれ日本人は西洋人よりもはるかに強く意識してきた。

本来、そういう文化をもっていたんですね。

ところが、近代以降はそうでもなくなった。

伊藤 それ、どういうことですか?

山折 『ヨハネ福音書』の冒頭に、「はじめに言葉ありき」

と書かれているでしょう。この翻訳がほんとに正しいのかどうか

に異議を唱える人はあまりいないけれど、

山浦玄嗣さんという方が全く新しい問題提起をされました。

伊藤 山浦玄嗣さん。私は大ファンでして。

岩手県の大船渡在住のお医者さんで、

カトリックの信者で、福音書を、ギリシャ語原典から、

大船渡の土地の言葉「ケセン語」に翻訳した方ですね。

私はここ数年、右手に仏典、左手にケセン語訳聖書

をもって暮らしていたようなものです。

今、山折先生がおっしゃったところは、こんなふうになります。

「初めに在ったのァ神様の思いだった。

思いが神様の胸に在った。

その思いごそァ神様そのもの。

初めの初めに神様の胸の内に在ったもの」

(『初めの言葉』ケセン語新約聖書

〔訳ヨハネによる福音書〕山浦玄嗣約)。

ということは、ギリシャの文化にも「思い」という概念

があったわけですか、日本と同じように?

山折 そういうこと。キリスト教の初期段階においては、

「思い」というものが非常に重要な意味をもって

人間関係を律していたんだと思う。

ところがローマの時代になって、

ギリシャ的な文化からローマ文化に転換する過程で、

ヨハネ福音書にも神学上の変化が加わって、

解釈が変わっていった。

われわれが西洋文化というものを理解する場合に、

聖書の「はじめに言葉ありき」が重要な関門

だったわけです。

で、「言葉」というのは何を意味しているのだろうと

考えに考えて、そこから西洋理解が展開していったわけです。

だけど、実はそうじゃなかった。

伊藤 はじめにあったのが「言葉」じゃなくって、

「思い」だったとなると、これは日本人にも理解しやすいですよね。

山折 そうなんです。ついでに言うなら、

アイヌ文化研究者の本田優子さんによると、

アイヌ語の「考える」は、やっぱり「思い」という意味になるそうです。

伊藤 そうなんですか。

山折 だから、近代の日本人ないし日本文化は、

西洋流の一種の言葉信仰に陥っていたことになりますね。

伊藤 ああ、そうかもしれない。よく分かります。

 

 

 

山折 さて、ここまで日本人の死に方を見てきたわけだけど、

「死生観」という言葉があるでしょう。

この言葉には重要な意味が隠されているんです。

それは、「生」に先立って「死」が頭に来ていること。

伊藤 生死観じゃなくて死生観。死が先なんですね。

山折 死が先に来ていることの含意は、

死ぬことが即ち生きることであるということ。

つまり、死ぬことを引き受けることが、

生きることにほかならない―――

死生観という言葉には、こういう考え方があるわけです。

あるいは、生きることは必然的に死を含んでいる、

と言えばいいかな。

われわれは、日常的に死とともに生きているんだ

という感覚であり価値観ですよね。

伊藤 常に死を意識しながら生きているんですね。

山折 こういう言葉はヨーロッパの言語にはありません。

英語にもドイツ語にもフランス語にも。

彼らがひと言で表現するとすれば、

「デス」にあたる言葉しかない。

だから言葉を補って、デス・エデュケーションと言ったり、

デス・スタディと言ったりするわけで、それを日本語に訳すときに

死生学とか死生観と言っているわけです。

伊藤 「デス・なんとか」だと、「生」はまったく入ってないですもんね。

山折 彼らの頭の中には、正の世界とは完全に切り離された「デス」の世界

しかないわけですよ。

伊藤 死は死であり、生きるは生きるであると。

山折 脳死問題、臓器移植問題にしてもそうでしょう。

生き残る人間=レシピエントと、

死にゆく人間=ドナーとを選別するわけだから。

進化論しかり、選民思想しから……。

伊藤 確かに日本の場合は、生と死とは裏腹ですからね。

というか、日本の文化に生まれ育ってるせいか、

生と死とは裏腹のはずで、切り離して考えられないですが。

ほかに日本のような死生観をもつ国はないんですか?

山折 日本人の死生観は日本列島に独特のものだと思いますね。

伊藤 それは発酵のせい?

山折 そう。モンスーン風土において、すべてのものが腐敗します。

人間も腐敗、発酵を経て白骨化し、それによって純粋なものが得られる。

そこに生まれたのが、日本人の死生観であり遺骨信仰だと考えられます。

伊藤 白骨問題に戻りますが(笑)、落語ではやたら野ざらしだ、

白骨だって死骸が出てきますよね。最初は

なんていう死人を冒瀆した文化なんだろうと思いました。

それで考えたのが、落語というのは

元々説教から流れてきたものかな……と。

だとしたら、仏教観を強く打ち出して、

その仏教観の中でも特にこの白骨、

そしてそれにつながる無常というのを出してきた文化なんだろう、

そういうジャンルなんだろうと思ったわけですよ。

で、仏教というのを、またこうやって

詩人の分際でいろいろと勉強してくると、

今まで文芸、文学だと思っていた「能」というのが、

「これ仏教じゃん。全く仏教文学じゃん」。

そしたら『源氏物語』もそうじゃない。

そしてもちろん、浄瑠璃もそうだし。

日本の文学というものの根本が全部、これ仏教。

しかもその中でも無常観があふれる……どうぞ、先生(笑)。

山折 その通りだって言おうとしたの(笑)。

伊藤 ありがとうございます。もうちょっと言わせてください。

私、小学唱歌がすごく好きだったんですが、

あれも結局、無常観。

だから、なんて言うんですか、こういうの?

こう、サブリミナルな感じで教え込む手段だったのかなと思いました。

山折 「夕焼け小焼けで日が暮れて」、

あれはまさに仏教の無常観そのものですよ。

いま日本列島どこでも市町村で、

夕方になるといろいろな音楽を流しているでしょう。

ナンバーワンは「夕焼け小焼け」なんですよ。

伊藤 それは、どこでも夕方になるからじゃないですか(笑)。

山折 それはそうだけれども。だけど、夕陽を見続けて、

夕日の彼方に浄土ありの信仰があって初めて

あの歌が出てくるんだと思いますよ。

伊藤 浄土がそこに。

山折 だって次に「山のお寺の鐘がなる」と出てくるでしょ。

伊藤 なるほど。夕焼けは「赤光」なんですね。

 

 

 

仏教の教えが腑に落ちる

 

のが納得できるお話です。

 

若い子たちは

 

どう感じるのかな?

 

 

 

 

 

 

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