ある程度分かったHotel Nipponの歴史と日本との関わりを紹介する。
帰国後探せるだけの資料に当たり、不十分な内容ながらおおよその歴史は分かってきた。
まず、どの資料にもホテルニッポンはポルトガル時代のスレーブ島にあると書かれている。
奴隷の居た島というが、暫くその意味が解らなかった。
地図を見て何処にも島は無いし、住所でスレーブを探しても何も出てこない。
それともその島から今の場所に移転でもしているのか、とも考えたが、そのような説明は無い。
帰国して調べを重ねていきそれがようやく分かってきた。
地図の中にスレーブの名が出ているものをようやく見つけた。
それは非常に面白い歴史なので、スレーブ島に関しては後の回で説明することにする。
まずは、ホテルニッポンの歴史を説明する。
多くの資料に当たったとはいえ、インターネット検索で集められるだけのバラバラな資料で、肝心な小生が知りたい事実や時期が判明しない。
取りあえず、時系列で整理していく。
1882年に最初に建てられたのがマニング・マンションで、当初はイギリス軍将校が住む恐らく高級な部類に属するアパートだった。
それを後に、ポーランド移民のロスコフスキー・シニアがこれを買い取り、船乗りに人気のホテルに変えた。
しばらくの間、その名は「ホテル・ポルスキ」として営業する。
その買った年が1900年代の何時なのかは、どの資料にも出てこない。
後に、ロスコフスキーは日本人女性と結婚し、彼女を喜ばすためなのか「ホテル・ニッポン」と改名する。
これも、年代を記した資料が見つからない。
そして彼女は、ホテルの内装を日本の調度品やインテリアなどで改装をしている。
それは現在1階の天井の飾りに残っているだけのようだが、小生滞在中、天井部分にはまったく注意を払っていなかったので、この写真はスリランカのサイトからの借り物。
“Her name was Nippon†| Moving Images
しかし、これがどこの場所に残っているのかは不明なので、確認のためには再びコロンボに戻らなければならない。
その当時のホテルニッポンは日本食レストランもあり、コロンボにおける日本人の社交場であり、スリランカに来る日本人の多くが泊まるホテルであったようだ。
ところが、日本が英国と戦争状態、第二次世界大戦に入ると、コロンボにホテルが少なかったこともあり、イギリス軍に接収され、軍の兵舎となってしまう。
スリランカにいた日本人は、アメリカのように収容所送りとはならなかったのか、居心地の悪さからとにかくスリランカから脱出はしている。
その間、ロスコフスキーは支配人であるケララ出身のクマラン氏に留守の間のことを任せている、という記事もあるが、彼が登場するのが戦後のこととしている記事もある。
この当たりがアヤフヤである。
そして、戦後のロスコフスキー・シニアと日本人妻がどうしていたかの情報は出てこない。
恐らく、彼らはコロンボに戻り、ホテル運営を続けているうちに年を重ね引退し、息子の嫁に任せてどこかに消えてしまっているのかも。
いずれにしても、戦後、ロスコフスキーの息子グレッグは1950年代、ラジオセイロンのアナウンサーで相当な人気者だった。
その彼も日本人花嫁を迎えている。
もしかすると、息子の奥さんはホテル内では女将的な仕事でもしていたのかも知れない。
なぜなら、彼女がヴェトディ・クマラン氏を仕事仲間としてホテル業務に迎えた、という記事が出てくるからだ。
そのグレッグだが、1957年公開のアカデミー賞作品賞受賞の映画にニッポンホテルとともに登場している。
デビット・リーン監督の邦題「戦場にかける橋」The Bridge On The River Kwaiである。
この話、舞台はタイだが撮影はスリランカで撮られている。
日本軍司令部の室内ショットがニッポンホテルで撮られている、と資料にはあるが、帰国後ビデオで見返してもそのシーンが見当たらない。その部分、今ではカットされてしまっているのかもしれない。グレッグの場合はセリフの無い役でその他大勢の捕虜の一人ということなので、まぁエキストラということだ。
いずれにせよ、ニッポンホテルは映画史に残るホテルではある。
これも何時の頃なのか見つからないのだが、直接の運営を任されていたヴェトディ・クマランがオーナーになっている。つまり、グレッグ夫妻はホテル業から身を引き、クマランにハンドオーバーしたということだ。
要は、今のところ、肝心な小生が知りたい日本人妻の情報が無い。
彼女の名前は?どこの出身?何時消えたのか、更に、息子の嫁さんの情報も出てこない。
その後のニッポンホテルの変転は次回