世界史に名を残すディエンビエンフーの戦場 | nezumiippiki

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アジア再発見Blog

世界史の中でその名を残す戦場としてアジアで筆頭に上がるとすれば、それはディエンビエンフーだろう。

西洋の列強であるフランスが植民地の貧弱なベトナム人にしてやられ、以後、ヨーロッパは軍事で解決を求めることをしなくなる。

代わりにアメリカが凶暴な国として登場してくる。

そのきっかけになった戦場がディエンビエンフーである。

 

ベトナムは1954年フランスに勝ったは良いが、そのあとアメリカが出てきて1975年まで悲惨な戦争は延々と続くことになる。

 

しかし、このディエンビエンフーは有名な戦場の割には、そこを訪れる人の少ない場所。

それはベトナムで最も辺鄙な場所にあり、交通の便が悪いからだ。

しかし、歴史に興味を持ち旅が好きなら行くべきところ、この目で戦場となった地形を見ておくべき、とワイフを連れて2018年5月末、雨季が始まりだしている時期に行って来た。

 

街の中央から見上げる勝利の記念像

ディエンビエンフーで戦ったベトナムの戦士に敬意を表して階段を上がって登ったら、裏から車で上がってくる道があった。 あれから64年ならそうなっててもおかしくないか。

 

ディエンビエンフーは遠い。

左側黄色い線はラオスとの国境線。

「ごうや」のような形をした盆地。

ベトナムの山々を幾つも越え、ようやく辿り着く。

 

ディエンビエンフーへはハノイから寝台バス利用で12時間。飛行機はスケジュールでは日に2~3本飛んでいることになっているが、実際は精々日に1本。筆者、日に1本の飛行機が満席のため結局往復寝台バス利用。

これはこれでまた楽しい。日本でも採用したらヒットしそうな寝台バスだ。

途中ドライブインで夕食。バス代は夕食付日本円で1500円ほど。

貧乏旅行には打ってつけ。

経済的に余裕があってもだ、楽しい旅の新しい経験でワクワク感タップリ。

 

フランス軍からすると、ベトミンン(当時の呼び名)をこの地に誘い出し再起不能にする、という作戦だったようだが、ベトナム側からするとフランス軍を「飛んで火にいる夏の虫」にすべく、人海戦術を駆使し、多くの犠牲を払いながらも勝利したわけだ。

結果、フランス軍のボロ負け。

日頃アジア人をコケにしていた連中が捕虜になり何を思いながら歩いているのでしょうか。

この時代の欧米人のアジア人に対する表現を見ると酷いの一語につきる。

フランス軍には外人部隊も大在参加していて、その多くが元ナチスで職にあぶれていた連中。

 

その戦いの様子はYoutubeでも見られるので、是非ご覧あれ。

Dien Bien Phu で検索すると数多くの記録映像や解説、映画などが見られる。

日本語検索ではhttps://www.youtube.com/watch?v=hYKa01Q459c で見るのも分かりやすくて、最近のデジタルリマスターらしく画像も見やすい。

それにしても、日本語でインターネット検索すると最初にアニメの「ディエンビエンフー」が出てきてビックリ。日本のアニメで第2次ベトナム戦争を題材にしたものらしい。

 

 

ディエンビエンフーの戦いに詳しくない方は戦勝博物館に行かれると良い。

勝利への道筋は「ディエンビエンフー歴史的戦勝博物館」で再現されている。

 

フランス軍の誘いに乗ったベトナム軍は重い大砲を、道を切り開きながら運んでいる。

インパール作戦の日本軍と同じだ。

フランス軍はベトナム人民の気合の入れ方を見誤ったということだ。

 

博物館の向かいがA1の丘。

A1と呼ばれる丘もお互いに塹壕を掘り進め激しい白兵戦が展開された場所で、塹壕やベトナム軍が仕掛けた爆弾で大爆発を起こした円錐形のクレーターなどが残されている。

 

両軍とも塹壕を掘り進め、ベトナム側が空港の機能を奪った後は白兵戦となった。

敵味方入り乱れての白兵戦が行われたA1の丘のジオラマと進攻図。

 

今のA1の丘は「夏草や兵どもが夢の跡」の様相も見せていました。

 

制服を着た高校生男女の一団がAIの丘に来ていたが、聞いたところ高校卒業記念の訪問らしい。

次世代を担う若者たちにはしっかりと国の成り立ちを勉強させる、ということだな。

男子高生は日本の昔の突っ張った風だったが、とてもシャイでそれが微笑ましいかった。

ズボンのポケットに手を入れている子だけが英語が話せて、積極的に話しかけてくれた。

女の子たちは話せないけれど積極的で、にこやかにポーズを取ってくれてこれまた微笑ましい。

やはり、ベトナムの女は強いのだと思う。

 

血生臭さを想起させるような場所を見た後で彼らに会って、何かホッとした気持ちにさせてくれた。